足見田神社
(あしみだじんじゃ)


伊勢国三重郡・鈴鹿郡
三重県四日市市水沢708
(P有)

■延喜式神名帳
(三重郡) 足見田神社の比定社
(鈴鹿郡) 弥牟居神社の論社

■祭神
瀬織津姫命
[合祀] 宇加之御魂神 大穴牟遅命 神日本磐余毘古命 品陀和気命 大日霊命 天児屋根命 大山祇命 天穂日命 武御名方命 須佐之男命 加具土命 素盞嗚命 天目一箇命 天白羽命 五男三女神 別雷命


「風」と「水」を祀る社。原初は背後の1000mを越える「鎌ヶ岳」の頂に鎮座していたとされます(方角は当社から西方)。
◎「鎌ヶ岳」は鈴鹿山脈を構成する山の一つで、椿大神社の奥宮がある「入道ヶ岳」はすぐ南に控えています。いずれも神が鎮まる神聖な山ととらえられていたようです。鎮まる神も原始的な自然神。志那都比古神については、たたら製鉄が行われていたからとも考えられます。「風」と「水」に「鉄」も加える必要がありそうです。
◎谷川健一著の「青銅の神の足跡」では、原初のご祭神は伊勢津彦神であったと記しており、これは直接宮司から伺ったものとしています。
伊勢津彦神は国譲りを迫られ、「強風」を起こして去っていった神。また伊賀国の穴石神社に石をもって城を作っていたという説話も。「穴石」は「穴師」からの転訛であろうともしています。
◎当社にまつわる伝承の中で興味深いものがあります。日本武尊が東国遠征の際に当社神主「押根」がお供を。その帰路に当社へ参向、「我が足は三重の曲がりの如くして いと疲れたり」と述べたとあり、それが「三重」の地名となったというもの。この時代に果たして神主という者がいたのかという問題はあり、後世の附会かと思います。ただ、日本武尊が当地を訪れているということは、当地で製鉄が行われていたという可能性を高めるものかと思います。
◎当社を奉斎していた氏族は、芦田首(葦田首)であろうとされています。「新撰姓氏録」には「天麻比止津乃命之後也」とあります。つまり鍛冶神の祖 天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)の後裔であると。
◎谷川健一氏は「青銅の神の足跡」の中で、江戸時代の古書を引用し「足見田の神域の東におしみ田という地あり。(中略)其の佃る者必ず啞児を産めり」というのを紹介しています。これはやはり水銀中毒ということに繋がるのでしょうか。鍛冶氏族であった鴨氏の大祖 阿治須岐高日子根神も、神名はもとより啞児であったとおぼしき記述がなされています。日本武尊の「足が三重」という件も水銀中毒の可能性があります。「穴師」が「痛足(あなし)」に通ずるという氏の説は、まさしくこれらを表しているものかと。
◎なお「水沢村誌」には、「鎌ヶ岳」の小谷・中谷・金山と呼ばれる地に水銀山があったと記されているようです。
◎当社に合祀された諏訪社に「諏訪踊り」といったものがあったらしく、現在にも引き継がれているようです。これは水の便が悪い当地に、灌漑用水路を作る工事に伴って起こったものであるとか。地名は「水沢(すいざわ)」ですが、これはそうあってほしいという願いからのものでしょうか(下部に写真数点有り)。
◎なお古代の鈴鹿郡と三重郡、そして菰野郡との境界が定かではないようで、御巫清直は鈴鹿郡の式内社 弥牟居神社(やむこじんじゃ)を当社に宛てています。異論もありますが、当社を伊勢国三重郡に含めます。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


当社へのアクセス道はどちらもやや狭いですが、東の集落からのアクセスが一番無難かと思います。




境内社。


灌漑用水路ができ、水沢が潤ったために池までこしらえられたのでしょうか。






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