◆ 火吹く人たちの神 ~19






「民俗学」とは狂気の沙汰の学問だ…と常々書いておりますが。

柳田国男氏のせいか?

もうこんな炎のような情熱を抱き、奔走するような人物は出てこないのでしょうね。彼の偉大な遺産を有り難く享受したいと思います。





第一部 青銅の神々
第二章 目ひとつの神の凋落


■ 柳田の片目伝説蒐集が見落とす金属遺跡との関連

ここでは柳田国男氏が苦労して集めた全国の「片目伝説」が、金属遺跡と関連するところまで突き止めておきながら、たたら製鉄の炎で片目を失ったという結論を出すに至らなかったことを、谷川健一氏が伝説を紹介しつつ批判しています。

柳田国男氏への批判はさておき…柳田国男氏が拾い上げた伝説そのものが非常に興味深いものであるため、一通り引用紹介しておきます。「定本 柳田国男全集」第5巻より。



◎加賀国河北郡 賀茂神社の失明鮒

━━加賀国河北郡高松村大字横山亀山の県社賀茂神社は、大同二年(807年)に現在の社地に遷座せれたといつてゐるが、その理由は至つて不思議な話である。或日この社の御神、鮒(フナ)に身を現じて御手洗川に遊びたまふ時、遽かに(にはかに)風吹き立つて汀(みぎは)の桃水中に落ち、その鮒の目にあたつたところが、忽ち(たちまち)にして、四面暗黒となり人みなこれを恠んで(あやしんで)ゐると、その夜霊夢の御告(おつげ)があつて、つひに社を今の場所に移すことゝなつた━━

石川県内には6ヶ所の「片目魚伝説」があるとのこと。そしてその悉くが製鉄遺跡と関連しているとあるようです。



◎信濃国筑摩郡 勢伊多賀神社 失明した氏子

━━松本市宮淵にある勢伊多賀神社(せいたかじんじゃ)の氏子たちは、この神降臨のとき栗の毬(いが)で目を突かれたといひ、それ故に村内には栗樹決して生ぜず、栽ゑて(うへて)もし成長すれば、それと反比例にその家が衰微すると信じて今でもこれを栽ゑず━━

勢伊多賀神社は伊邪那岐命と金山彦神を併祭。南淵からは銅鐸が出土しているとのこと。

柳田国男氏(1951年) *画像はWikiより



◎伯耆国日野郡 楽福神社 失明した神

━━伯耆日野郡の印賀村では、同じ理由を以て全村竹を栽ゑないさうだ。原田翁輔氏の話に、昔この村の楽福神社(さゝふくじんじゃ)の祭神、竹で眼を突いて一眼を失はれたといふ言ひ伝へで、その為に竹は一切国境を越えて、出雲能義郡の山村から、供給を仰ぐことになつてゐるといふことである━━

「印賀村」は印賀鋼の産地。現在「印賀村」は日南町に吸収されていますが、日南町「宮内」にある楽楽福神社(さゝふくじんじゃ)もまた片目の神(蟹梟帥・カニタケル)。これを征伐したのは吉備津彦命



◎吉備の失明した温羅

「ついでに言うと…」として、「ついで」では済まされない話が載せられています。吉備津彦命の「鬼ヶ城」にいた温羅(ウラ)退治神話。

━━温羅はなかなか手強く、左眼を射られたにもかかわらず抵抗。ついに捕まえられて、吉備津神社の「釜鳴神事」の行われる竈の下に首が埋められた━━(大意)

*詳細は→【土蜘蛛】「温羅」伝説


「鬼ヶ城」から「阿曾村」を通って「血吸川」が流れているが、温羅が左眼を射貫かれた時に出た血が真っ赤に川砂を染めたからと伝ります。「阿曾村」に住むのは鋳物師たち。

温羅の首が竈の下に埋められたというのは、人の死体を炉に投じたり、高殿の柱に結び付けておくと、鉄がよく沸くというたたら炉の信仰があると谷川健一氏は伝えています。


吉備津神社 
*写真は2012年5月に撮影したもの



◎紀伊国牟婁郡 王子権現の一眼一足の恠物

━━熊野の山中に昔住んでゐた一踏鞴(ひとつたたら)といふ兇賊の如きは、飛騨の雪入道と同じく、また一眼一足の恠物(くわいぶつ)であつた。一踏鞴大力無双にして、雲取山に旅人を怯やかし、或ひは妙法山の大釣鐘を奪ひ去りなどしたため、三山の衆徒大いに苦しみ、狩場刑部左衛門といふ勇士を頼んでこれを退治して貰った。色川郷三千町歩の立合山は、その功によつて刑部に給せられたのが根源であつて、後にこの勇士を王子権現として祀つた━━

これに対して若尾五雄氏は「鬼と金工」で以下のように記しているようです。

━━「妙法山」には紀州家のドル箱とも言われた「妙法鉱山」という銅山があった所である。周辺には至るところに銅鉱跡があり、「色川村」の地名は鉱石により色が付いたという言い伝えも。鬼退治をした「樫原」には小規模の野タタラ跡が無数にある。同様に吉野郡「伯母ヶ峯」にも片目片足の話があるが、麓に赤倉銅山がある━━(要約)



◎阿波国那賀郡福村の片目魚

━━徳島の人河野芳太郎氏の話に、阿波の富岡町の東に当つて福村といふ処に周回三十町ほどの池あり、その池の中に周九丈高さ一丈ばかりあるのを、土地では蛇の枕と呼んでゐる。この池の魚族は鯉鮒はもとより小さな雑魚に至るまで、一尾として両眼を具へ(そなへ)てゐるものはない。伝へいふ、昔この池に大蛇の住んでゐたのを、月輪兵部といふ勇士狙ひ寄つて放つた箭、その左の眼を射貫いて頭の半分を射砕き、をろちは苦痛に堪へずこの岩の上で悶え死す。その怨後に残つて月輪殿の一家を祟り殺し、それでもたらなかつたか、池の魚を悉く片目にしてしまつたといふさうである━━

この「福村」の西2kmで銅鐸が出土。



◎美作国勝田郡美野の片目男と片目鰻

━━岡山県勝田郡吉野村大字美野(現在の勝田郡勝央町美野)の白壁の池に、片目の鰻といふのが住んでゐたことは、「東作誌」といふ地誌に出てゐる。昔一人の片目男があつて、馬に茶臼をつけて池の側を通るとて、水中に墜ちて死んだ。その因縁で池の鰻の目は一つとなり、なほ雨の降る日などは水の底に茶臼の音が聞えたといふ━━

この「美野」の北西2kmの植月北念仏塚から銅鐸が出土。



◎近江国栗太郡の目を傷付けた神

━━近江国栗太郡笠縫村では一村今以つて麻を植ゑず、植ゑても生育せぬ。その仔細は大昔この地に二柱の神降臨ありし時、附近に麻があつて神これを以つて眼を傷けたまふ。それよりしてこの郡の天神宮の御神体も、今に御眼より涙を御出し成されるといふ━━

この「笠縫村」の北に隣接する「常磐村」(現在の草津市志那町)から銅鐸が出土。

この「志那町」にはかつて「式内社 意布伎神社」が鎮座しており、論社は志那神社三大神社惣社神社の三社。いずれも風神(志那津彦命)等を祀ることを谷川健一氏は見過ごしているのでは…?第12回目の記事にて大々的に取り上げたばかりですが…。


[近江国栗太郡] 三大神社



◎飛騨国益田郡 諏訪神社の片目を傷付けた蛇

━━「岐阜県益田郡誌」を見ると、飛騨には今一層神に接近した片目の蛇の話が遺つて(のこつて)ゐる。この郡萩原町の諏訪神社の社地は、中世暫くのあひだ国主金森家の出城になつてゐたことがある。金森氏の家臣佐藤六左衛門なる者、命を受けてその工事を指揮し、神霊を上村といふ処へ遷さんとするに、神輿が重くなつてどうしても動かぬ。よつて六左衛門梅の枝を以て神輿を打ち、辛うじて遷座を終ることが出来た。また一説には、この時一匹の青大将が社地に蟠まつて(わだかまつて)如何にすれども動かぬのを、六左怒つて梅の枝で蛇の頭を打ち、蛇は左の眼を傷ついてつひにその地を去つたともいふ。その後六左衛門は大阪陣に赴いて討死した故、村民これを機として土木を中止し神社を旧の地へ復したが、今に至るまで境内に梅の木成長せず、また時として片目の蛇を見ることがある。これをば諏訪明神の御使として崇敬しているといふ━━

この萩原町上呂から銅鐸が出土。

以上の8話のうち銅鐸出土は5例を数えます(近年出土状況は調べていないので増える可能性有り)。これはもう偶然では済まされない様相。




今回はここまで。

「柳田国男全集」は早々に挫折したため、ちょっと関心があり、すべての引用文そのままを孫引用しました。

原文はこんなもんじゃない…。


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。