◆ 土蜘蛛 三十顧 (「温羅」伝説 ~4)
☆☆☆「謹賀新年」☆☆☆
体調不良により連日激痛にみまわれ、
仕事もろくにできず収入無し。
年越しできんのか?
人生最大級のピンチに陥りましたが
何とかかんとか無事に年越しはできました。
慶ばしきこと…かな?
どうやら豊受大神は
もう少し生きとけ!と思し召されたようです。
はい!
お意(こころ)の随々(まにまに)致します。
31日に風邪をひいてしまい21時で早退。
正月早々から自宅療養。
本日は早朝4時過ぎ起きで仕事へと。
散々な年明けと相成りました。
もちろん「初詣」などという
近年流行りの鉄道会社の浅はかな魂胆には易々とは乗っからず…
古来からの習慣に倣い
氏神への参拝以外はなるべく自宅にて歳神と、特別に奉斎する神々を祀ることにします。
というわけで…何ら変わりなく。
例年通りにいつもの記事を粛々とUPしていきます。正月にまったく相応しくない記事を(笑)
鬼ノ城其の高さ百二十丈四方悉く巖也 嶺に座す石四方二丈有り 其の岩一方延着たるが如し直立す 而して高さ二丈鬼神常此是を告げるに非ず 座屏と云ふ 九尺上に肩の當る跡有り同じく近し所に人掛松有り [今元結掛と云ふ●人の首をつる故か] 外 諸木無く皆悉く巖也 北二十余町去り飯を炊しつく九尺に亘り錬鉄した釜有り 而して平口釜也 五間を隔て [人畜の胸をさきて其地を今胸さき野と云ふ] 人畜を煮る一丈一尺に亘る釜有り 飯釜は佛像の如し 鋳着有りて牲釜は鬼形の如し鋳着有り [釜數員は阿宗村に●●今はた●りを得て再び新山に●る] 此所にも座石有りて鬼神常に爰に來る 美しき女を愛で是を婚し新山と号く也 此美しき女は阿曾ノ庄の女也 安曾女と云ひ鬼神初めて而して此里に通ひ此女に愛染す 依を以て地名と爲し十五町を隔て南に鬼神軍の時 板旗を建つ 此里板旗と号き 鬼神常に石に坐して居て悪霧を吐き 而して往來の人を迷わす 雷火を降らし人民を焼く 峯には靑黑の雲靄きとて 而して谷は腥き温きの風起こし 國民の恩愛の妻子を捕へられ眷属を失ふ 紅の涙正に止む期無き
一宮吉備津彦嘆き思し召し 而して少なき時 御座安からず 苦列して食に砂を雜へ加へ給ふに 民の患に非ずを忘れざるを爲す也 又鬼神の眷属に夜行の者有り 毎夜人を捕へ手足を割り 巖石を枯木の枝に掛け [人掛け松今元結かけと云ふ人の首をかける故なり] 尊樂々森に命じ 而して討たむと欲すれども其の形分明らかに見ずして 前に有らずと爲すや忽ち後に有るや 樂々森或いは宵に鬼城麓に飛び行きて 相侍るも之誰何とは知らず 怪しき者出で來りて 而して樂々森に飛び懸かる 両方互いに掴み割らんと相諍ふの夜明け方 樂々森劔を抜きて數々突き通し礑斬る 疼く所を挽き組みで 而して七刀を刺し徹し首を取りて獄門に掛ける [加陽誌秘錄集には鬼神の名溫羅と云ふ此子にて今矢取の神と云ふ] 此處を鷲の森と云ふ 其の首無し髪 而して肉は癌と成り口は耳の邊へ切り通して 而して一足三手也 [此手を連ねて晒梟れける所今三手村なり] 其後軍止むこと無し 一宮の御矢肇は響天に聞こゆれば 鬼の怒る音肇は岩を飛ばし火を降らし 宮内鬼の城相去る事百餘町 射る矢は中に 而して喰ひ合ひ落ける所 今矢喰ノ宮也 [今田の中に岩有り 天神ノ宮と奉祀なり] 夜陰に及び射違ふ箭は喰合はず 而して鬼神の箭は宮内に從ひ三十余町を越ゆる 而して箭は坂に落ちし [此所今備前國西●往來筋矢坂村なり] 尊の浮箭は鬼ノ城の麓 蛇の嵩の岩に當たり 飛び●● 而して遥かに五里余りを越へ 而して止まり 矢翔ノ里 今の矢掛是也 其礑岩は今も有り [小田郡に●其地荒神を祭りて矢掛ノ荒神と云ふ]
【大意】
「鬼ノ城」の高さは百二十丈(約360m)。四方は悉く磐。峰に二丈(6m)四方の石が座しており、一方が直立しています。言うまでもなくこれは鬼神。「座屏」と言います。九尺(約90cm)上に肩が当たったという跡があり、近くに人掛松があります [元結掛という罪人(*)の首を吊るからでしょうか]。他に樹木は無く磐ばかり。北二十余町(2km余り)に飯を炊く九尺(約90cm)の錬鉄した大きな平釜があります。五間(約9m)を隔てて家畜を煮る一丈一尺(約3m30cm)の釜があります [家畜の胸を割いたので今は胸さき野と言います]。飯釜は仏像の如し、牲釜(神に贄を供える釜)は鬼形の如し[数点の釜は阿宗村に有りますが祟りを恐れ再び新山に戻っています(*)]。ここにも石が座しており、鬼神は常にここに来ます。美女を愛して娶り「新山」と名付けました。この美しい女性は「阿曾ノ庄」の女性です。「安曾女」という名で、鬼神が初めてこの里に来た時から惚れました。そのよしみで地名とし、十五町(約165m)を隔てた南に、鬼神が戦の時に板旗を建てました。この里を「板旗」と名付け、鬼神は常に石に坐して霧を吐き往来の人を迷わせたり、雷火を降らせて人民を焼きました。峰には青黒い靄雲(もやくも)を起こし、谷には腥い(けがらわしい)温い風を起こし、国民の妻子を捕えられ、一族を失いました。紅の涙で溢れました。吉備津彦命は嘆き、幼い時は食に砂を混ぜて食べたほどの苦労をしたので、民が憂うのは許せません。また鬼神の一族に夜に活動する者もいて、毎夜人を捕えて手足を割き、岩石を枯木の掛けていました [人掛松は今、元結かけと言います。人の首を掛けたからです]。吉備津彦命は樂々森に命じて討とうとするも其の姿形は分からず、いきなり背後に迫っていました。樂々森は鬼ノ城の麓に飛んで行き構えていると、怪しき者が現れ、樂々森に飛び掛かりました。両者互いに掴みかかり夜明けまで争いましたが、樂々森が剣を抜いて突き通しました。七刀を通し首を取り、獄門に掛けるました [加陽誌秘錄集には鬼神の名を溫羅と云います。この子を今は矢取神と言います]。この処を「鷲の森」と言います。その髪の無い首、肉はただれ、口は耳まで切れ、足1本手3本 [この手を連ねて晒している所を今は三手村と言います]。その後戦いが止むことはありません。吉備津彦命の放つ矢は天に聞こえれば、鬼の放つ矢は岩を飛ばし、火を降らします。鬼ノ城から百余町(10km余り)それぞれの放つ矢が当たり合う所を今、矢喰宮と言います [今、田の中に岩が有り、天神宮として奉祀されています]。夜になり射合う矢は当たらず!鬼神の矢は三十余町(30m余)を越えます。矢は坂に落ちました [この場所は今、備前国西●往来筋矢坂村と言います] 吉備津彦命の放つ矢は鬼ノ城の麓、蛇の嵩の岩に当たり飛びました。遥かに五里(約20km)余りを越えて止まりました。矢翔ノ里、今の「矢掛」がこれです。その岩は今もあります [小田郡に●、荒神を祭って矢掛けノ荒神と言います]。
【補足】
写本というのはどうやら程度の低いものが多く…弟子やらが嫌々やらされてるのでしょうか…ホンマにどいつもこいつも。
「矢」と「箭」もその一つ。統一せんかい!!!
主語が分からないのも多いし!
◎「鬼ノ城」は、「白村江の戦い」で大敗した大和朝廷が侵攻を恐れて築いた山城。砦や石垣、門などが再現されています。
ところがこちらで記されているのはその前に存在したもの。飛鳥時代に築かれた「鬼ノ城」ですら記紀等文献にはほとんど見られず、実態がほとんど分からない上に、こちらはさらにそれよりも古いもの。一切が分かっていません。
今回はここまで。
説話は延々と続きまして…
どこで切ろうかと模索するも、区切り良いところもなく、ここらでばっさりと。
次回以降もまだまだ続きます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。