吉備津神社 
*写真は2012年5月に撮影したもの






◆ 土蜘蛛 二十八顧
(「温羅」伝説 ~2)






前回の記事は途中でぶった切ったような格好となったため、2日連続にてUPします。

2日では終われそうにないので、
3日…ひょっとしたら4日…続くかもしれませんが。




前回の記事にて「温羅」が登場する吉備津彦神社、吉備津神社の縁起等を知り得る限り挙げておきました。

これらすべての書を一つ一つ取り上げるにはあまりにも膨大過ぎるかと。

またそのうちの「鬼城縁起」は現存するのは別の書に引用された写本のみ。内容や表題も各々若干異なるもの。しかも漢文ものが多く、読み下しされたものもあるようですが、個人の成果を拝借するのも憚られます。著作権の問題もあるでしょうし。

できることなら原文を一字一句丁寧に追いかけ、その表現に至った背景までをも探ってみたいところですが、以下のものだけを。



◎「備中誌」の「加陽郡巻之五」

━━温羅か住しといふ跡へ吉備津大明神を祭りたれば此石礎の跡へ吉備津の宮の石柱有し跡なるべし━━

このように記された後に、温羅所縁の史跡が列記されます。その中の「鬼之城」の該当する一部のみを。

誤字(写し間違い)と思われる箇所や、文字つぶれ等で判別できない箇所がいくつかあります。「読み下し文」は素人が行っておりますゆえ、間違い等有りましてもご容赦下さいませ。


国立国会図書館 デジタルコレクション 「備中誌」の「加陽郡巻之五」から該当箇所をスクショ。



【読み下し文】
備中國賀陽郡生石庄鬼ノ城緣起
吉備津宮社傳に云ふ 垂仁天皇の御宇 百齋國の人來りて窟山鬼ノ城に籠り貢物を奪ひ 人民を悩すを吉備津彦命是を平治し給ふ 楯築山 血吸川 矢噛社 鯉喰社有り 又鯉喰橋其の跡有り云々

人皇七代孝霊天皇即位五年 近江國に湖水一夜にして顕る 其の夜駿河國富士山出現する也 然るに此富士山の影は遥に十萬里余の滄海に徹し 月支國毘明地(*)に移す 故に天笠(*)の外道住みし山々峯々光り消て 而して暗夜に燈を失うが如し 婆羅門大きに怒りて頓に毘離耶城の艮 集ひ随に林山に群れ 而して企てしは富士山を蹴り崩しき 故に剛伽夜刃大山の中に形を隠し 而して我國に飛び來りて并びに富士山に和し 愛鷹明神は大人の形して現れ 忽ち夜刃に乗り爲し大山を蹴り崩しき 然る間 蘆高山の如き峯は無し 而して伐り立て似せ 明神即ち此山に坐す鬼神怒りて須臾に備陽國を飛び去り巌屋嵩に立て籠りき 鬼神の長は一丈三尺 頭は眞に盡(*)爲し夜刃の如し 額上の堅肉を卷揚げ角の如し 上下の牙は生え違う

注して云ふ 富士愛鷹緣起に云ふは孝安天皇九十二年六月 富士山に涌き出す初雲霞は飛び來りて穀聚の如し 元は嶮岨 後に頂上に五盤石出づ 其の落跡は溪叡と爲し富士と曰ふ也 土俗之を新山と謂ふ 延暦二十四年 託して曰く 我を淺間大明神と号づく 平成天皇大同元年(806年)に社建てました。愛鷹明神・犬飼明神の二神共に「新山宮」に鎮まりました。昔、天竺に從ひ飛び來りて淺間大明神と曰ふ 本地大日如來 愛鷹大明神 本地の毘沙門又は不動と曰ふ云々

秀雄案ずるに愛鷹明神 今文字蘆高に作る 從ひて天竺より飛び來ると云ふは此書に類す 疑らくは蘆高明神は笹沖村 葦高宮と同社ならん 吉備津御崎 本地毘沙門也 犬飼氏は備中にては吉備津宮随從の神也 犬飼武麿と秘録集に見たり 即ち富士緣起と類の葦高明神は樂々森彦命なるか 即ち此書にも云へり 須臾に翔る百里とある其の故に足高とは云へるか 然らば葦高は樂々森彦命と犬飼ノ臣武麿とを祭り 本地毘沙門にて富士緣起と同じ
 又富士緣起に葦高明神 犬飼明神 新山ノ宮に住すと有り 備中又新山ノ神社と云ふ有り 今は發してなし

此の鬼怒は炎を吐き 而して夜々近隣の山を焼き岩を抛げ 而して薪と爲し水を叩き油と賮す(*) 終日備之國中を飛び驅け 民の妻女を採り妾と爲し 六畜を殺し 而して粮と爲し 故に萬家無し樂と爲す 此國老若 足を頓じ 而して四方に散り馳せき 男女手を連ね王城を差し 而して逃げ上がりき

王城は大和國黑田宮也 愚按ずるに此の時節 大和國とは日本國をヤマトノクニと云ひし可く成り 備前 福岡黑田 其の時の王城が垂仁帝の節 福岡王城と云ふに叶へり 然れば孝靈帝の時 黑田ノ宮と云ふか

帝驚き爲し給ひ 第一の尊は武道通達の有りし 御器量連(*) 即ち吉備津彦命 逼(*)爲し鬼神を伐たんと備之國へ下り給ふ 即ち賀夜郡生石庄 [延長の頃は宮内も生石庄に属するか] 昇龍山に城郭を構へ 而して日々夜々戦ひ給ふ [注に云ふ昇龍山は今の宮内吉備津宮の山の名即ち内宮谷に御館の跡あり]


【大意】
備中國賀陽郡 生石庄 鬼ノ城縁起
吉備津神社の社伝には、垂仁天皇の御宇、百済国からの渡来人が「窟山鬼ノ城」に籠り貢物を奪って人民を悩ませているのを、吉備津彦命が平治した。「楯築山」「血吸川」「矢噛社」「鯉喰社」といった史跡が有ります。また「鯉喰橋」という史跡も有りと云々…。

第7代孝霊天皇五年、近江国で湖水が一夜にして顕れました(琵琶湖)。 その夜駿河国に「富士山」が出現しました。 その「富士山」の影は遥に十万里余の海を隔てて月支国毘明地にまで届きました。 天竺の外道に住む山々峯々の光が消えて真っ暗となりました。婆羅門は大変怒って急に、「毘離耶城」の艮(北東)に集まる林山に「富士山」を蹴り崩そうと企てました。そうして剛伽夜刃は「大山」の中に姿を隠し、我国(備州)に飛んで来て「富士山」と和解し、愛鷹明神は大人の姿をして現れ、忽ち夜刃に乗って「大山」を蹴り崩しました。その間、「蘆高山」のような峯は無く、伐り立てて似せ、愛鷹明神はこの山に坐す鬼神は怒ってすぐに備陽国を飛び去り、「巌屋嵩」に立て籠りました。鬼神の身長は一丈三尺(約4m)、頭は●●●[判読できず] 夜刃の如し。額上の堅肉は巻き上がり角の如し。上下の牙はずれて生えています。

注釈として、「富士愛鷹縁起」にあるのは、第6代孝安天皇九十二年六月、「富士山」にかかった初雲霞が飛び来て穀聚の如し。元は後に頂上に五盤石が出て、その落跡は溪叡となり「富士」と言います。土俗はこれを「新山」と言います。延暦二十四年(805年)、神託があり「我を淺間大明神と名付けよ」と。平成天皇大同元年(806年)、社を建てました。愛鷹明神・犬飼明神の二神共に「新山宮」に鎮まりました。昔、天竺に従い飛んで来て淺間大明神と言います。本地は大日如来。愛鷹大明神の本地は毘沙門または不動と言うと云々…。

秀雄(著者の小早川秀雄)が案ずるに、愛鷹明神の文字は「蘆高」としています。「從ひて天竺より飛び來る」と言うのはこの書に準じます。疑わらくは「蘆高明神」は笹沖村の「葦高宮」と同社であろうか。吉備津神社の御崎社の本地は毘沙門也です。犬飼氏は備中にては吉備津宮随従の神。犬飼武麿と「秘録集」に見えます。即ち「富士縁起」に準ずる「葦高明神」は樂々森彦命でしょうか。 それはこの書にも言えます。すぐに百里を翔るとあるので「足高」と言えるのでしょうか。 そうすれば「葦高」は樂々森彦命と犬飼ノ臣武麿とを祀り、本地は毘沙門にて「富士縁起」と同じ。また「富士縁起」に「葦高明神」と犬飼明神は新山ノ宮に鎮まるとあります。備中にはまた新山ノ神社というのがあります。今はそのようには呼ばれていません。

この鬼の怒りは炎を吐き、夜々近隣の山を焼き岩を投げて薪と為し、水を叩いて油としました。終日備州中を飛び回り、民の妻女を奪って妾とし、家畜たちを殺して糧とし、この国に住む人は無くなりました。老若男女は 四方に散り王城を目差して逃げていきました。

王城とは大和国の黒田宮(黒田廬戸宮)のこと。愚生(「私」をへりくだって)按ずるに、この時節、大和国とは日本国をヤ「マトノクニ」と言うべきではないかと。備前国の福岡黒田(現在の長船町辺り)の王城が垂仁帝の時は「福岡王城」と言うように思います。然れば孝霊帝の時は「黒田ノ宮」と言うのでしょうか。

孝霊帝は驚き、派遣したのは武道に秀でた吉備津彦命。 鬼神を伐とうと備州へ下りました。賀夜郡生石庄 [延長の頃は宮内も生石庄に属するか] 「昇龍山」に城郭を構えて、日々夜々戦いました。[注釈として、「昇龍山」は今の宮内吉備津宮の山の名、つまり内宮谷に御館の跡あり]


【補足】
誤写、文字つぶれ等もあり、体勢に影響の無い箇所は少々はしょりました。
吉備とは直接関係のない「富士山」についての部分も、繋がりがあるため含めて訳しておきました。

◎「鬼」は百済からの渡来人であるということ。炎を吐き、山を焼き…などとあることから鍛冶製鉄を行っていたのだろうと。致命的に鉄を欠乏していたヤマト王権が、「真金吹く吉備の中山…」と詠まれた備州を狙ったのは容易に想像されます。

農耕民とはまったく異なる習俗であったため、いつしか「鬼」とされてしまったのでしょう。これまで見てきたように、「土蜘蛛」のなかには「鉄(または銅)」を採る従事者であろうと推される者が多く、そういった意味では「土蜘蛛」に分類されるのかもしれません。

◎「琵琶湖」や「富士山」が孝霊天皇の時代に一夜で現れたと記されます。もちろんもっと遥か太古より存在したのでしょうが。愛鷹明神(葦高明神)とリンクさせねばならないため、この時代に現れたとしたのでしょうか。




今回はここまで。

この説話はまだまだ続きます。
なるべく明日に上げられるよう現代語訳を…ちょっとしんどいかな。

とうとう予約投稿用のストック記事が枯渇してしまいました~


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。