吉備津神社 「御竈殿」
(2012年5月撮影のもの)






◆ 土蜘蛛 三十二顧 (「温羅」伝説 ~6)






吉備津神社・吉備津彦神社へは過去に2度参拝しています。

最後に参拝したのは2012年。
この時は「吉備の中山」の中山茶臼山古墳にまで歩いて行きました。

山中の磐座やその他の神社、史跡等、
漏れなく…のレベルで拝したいのですが、悉く計画は挫折。

愛車の故障もあったな…
岡山からレッカーで引っ張ってもらったことも。

他にも巡りたい地は山のようにありますが、
先ずは人生の復活をかけて今を頑張らねば!

…と、

背中痛の再発で仕事を休み
痛みに耐えつつ記事を起こしております…。



国立国会図書館 デジタルコレクション 「備中誌」の「加陽郡巻之五」から該当箇所をスクショ。


【詠み下し文】
留靈は鼓山に有り ●尊が廻る鬼神を追ひ給ふを遥に見すれば大に臆し 而して恐れ慄き 西北に飛び去るの事 三里余 爰に而して章周(*)は未だ止まず 大ノ谷之郷にて 而して持ちたる鼓を田の中に打ち捨て 高田里に隱しつ [其所の鼓田鼓石 今に有る也]

注に云ふ 延長以て上は今 大井川と云ふ海なる故 足守川へ大井川より流れ出したる故に 名として同じならざる

尊大いに怒り 而して勘氣し 出仕を赦せられず剰へ樂々森に命じて 大井川より此方へ入りしめず 樂々森明神 宮居と同所にして 出世の間を抛げし 其後 尊鬼神の頭を串刺し晒せられし所 首(かうべ)村是也 [今備前ノ國御野郡の在名也 又云く久米村のことならむか] 此の首 歳月を経ても吠えは止まず 山河の如く響く也 尊亦た犬飼武に命じて此首を狗に喰わしむ 肉盡きて髑髏と成りき

注に云ふ 舊事紀 犬甘に作る(*) 即ち火明命八世(*)建多乎利命 犬飼連の祖也と見ゆ 子孫足守に住す 正德中に絶へし家は其跡無し 今川入村に犬飼と云ふは僞なり

而して吠●の間 尊は●炊きし供御の釜の底に埋づむ可く連ねし竈の下 八尺堀り 而して埋めし給ふの加の鬼神を思ひ 愛しむの安宗女を召し 而して燒かしむ 朝暮の火にて 此後十二年 ●呻●聞數里 今は煮供御の時ばかり●也 至りて今は煮し御供は御女 安染女と謂ふ 古へは阿曾ノ庄の女が續ぎし燒く火の跡也

注に云ふ此條は釜の、釜の由來に解する加陽氏秘錄集に阿曾郷の羽根天理の女と見えたり

五十一代平城天皇の御時 立てられし勅使 煮御釜一見の時 阿曾女は月水不浄の身を改めず 而して此釜鳴り動かず 從ひて是神樂を奏じて神の功有りし [●山の内にて釜ヶ谷と云ふ] 而して強ひて阿曾庄の女を撰ばず 只一生月水の通じず女を撰び炊かしむ

注に云ふ是新山鬼の釜の事 本元は鬼の釜と名付くの由縁か 宮内の釜はうつし鬼の釜に非ず


【大意】
留玉臣命は「鼓山」にいました。吉備津彦尊が逃げ廻る鬼を追っているのを遠くから見て恐れおののき、西北三里余り飛び去りました。そこで章周(*)するも未だ止まりません。大ノ谷之郷で持っている鼓を田の中に投げ捨て、高田里に隱しました。 [鼓田鼓石が今も有ります]

注釈に、延長(923~931年)以前は「大井川」という海であったものが、今は「大井川」から「足守川」へ流れ出しているので、名としては同じではありません。

吉備津彦尊は大いに怒り、留玉臣命を勘気(勘当)し出仕を赦せられず、樂々森に命じて「大井川」よりこちらへ入らせないようにしました。樂々森明神の宮居と同所にして、出世を妨げられました。その後、吉備津彦尊は鬼神の頭を串刺しにして世間に晒した所を「首村(かうべむら)」と言います。[今は備前国御野郡にその名が有ります。或いは久米村でしょうか] この首は歳月を経ても呻き声は収まらず、山河に響き渡ります。吉備津彦尊は犬飼武に命じて、この首を犬に食わせたので、髑髏(どくろ、=骨だけ)と成りました。

注釈には、「先代旧事本紀」に犬甘氏の祖とありません。即ち「火明命六世孫建多乎利命犬飼連の祖也」とあります。子孫は足守に住んでいたが、正徳年中(1711~1716年)に絶えてしまい、家は跡形がありません。今、「川入村」 に「犬飼」という地があるのは誤りです。

鬼首が呻くのは収まらず、食饌(みけ)を炊く御釜の底をハ尺堀り埋めました。鬼神が生前寵愛していたという安曾女を召して、朝暮に首を焼かせました。十二年が過ぎ、呻き声が聞こえるのは御供を煮る時のみ。今は御供を炊く女は安染女と言います。古えより阿曾ノ庄の女が焼くことを引き継いでいました。

注釈には、この条は御釜の由来を記したもので、「加陽氏秘録集」に阿曾郷の羽根天理の娘と記されています。

第51代平城天皇の御時(在位806~809年)、勅使が立てられ御釜を煮るのを一見しましたが、阿曾女は月の障りがきていたのに改めなかったため、釜は鳴り響きませんでした。従って神楽を奏上してようやく神の功がありました。それからは月の障りがきていない女を選んで炊かせました。

注釈には、これは「新山」の鬼の釜のことで、「鬼の釜」と名付けられる由縁となったもの。吉備津神社の「御竈殿」の釜は移してきたもので、「鬼の釜」ではありません。


【補足】
◎既に加古に記したように、「留靈」は留玉臣命のこと。鵜飼に優れ、桃太郎伝説の雉のモデルになったと言われます。

◎鬼の首の呻き声が収まらないので、犬飼武に命じて犬に肉を食わせたとあります。
犬養部という犬を用いて宮門などの守衛を勤めた品部(職能集団)がいました。「犬養(犬飼・犬甘)」と名の付く氏族は、「若犬養氏」を始め「県犬養」「海犬養」など、全6氏族有り。
「先代旧事本紀」の「天孫本紀」、尾張氏系譜には、「火明命六世孫 建多乎利命 笛連 若犬甘連等祖」と見えます。

本書では「火明命六世孫 建多乎利命…」とありますが誤写または誤植でしょう。

◎後半は今も吉備津神社の「御竈殿」で行われている、「鳴釜神事」について書かれています。本書の注釈では吉備津神社の釜は「鬼の釜」ではないとしていますが。「鬼ノ城」にも釜があるらしいですが、詳細は不明。
今となっては、吉備津神社で神事が続けられているというここそが重要であると思います。

他書では、以下のように記されています。
━━━温羅が命の夢枕に立って言うには「わが妻、阿曽媛に命の釜殿の神饌(みけ)を炊(かし)がしめよ。もし世の中に事あればかまどの前に参りたまえ。幸あらばゆたかに鳴り、わざわいあらば荒らかに鳴ろう。命は世を捨てて後は霊神と現れたまえ。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」と。命(吉備津彦尊)がお告げ通りにしたところ、温羅の唸りは収まり、釜占いが始まりました━━(「吉備路観光連絡協議会」サイトより引用)


冒頭写真と同じく「御竈殿」
*画像はWikiより

「御竈殿」前の案内板。
(2012年5月撮影のもの、現在はリニューアルされているかもしれません)



今回はここまで。

かなり進んできました。
後もう一回で終わられるかな…



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。