吉備津神社の廻廊(重要文化財)。終点には本宮社(内宮社等を含む)。かつては内宮社が背後の山頂に鎮座。(2012年5月撮影時のもの)







◆ 土蜘蛛 三十三顧 (「温羅」伝説 ~7)






第33回目と中途半端なところですが…
この辺であらためてこの「土蜘蛛」記事の主旨を。ご覧頂く読者もかなり入れ替わっていますし。


記紀、その他文献や伝承等には、神武東征時及びヤマト王権に対して「まつろわぬ者」たちが多く登場します。もちろんそれらを成敗したのですが…。

彼ら(彼女ら)は「土蜘蛛」という呼び方をされています。たまたま敗者となったに過ぎず、それらを顧みて顕彰しようという企画物。

先ずは「土蜘蛛」及び、それらしき者たちを抽出。一通り抽出が終われば、そこから考察を施していこうかと考えています。


現在は「土蜘蛛」らしき者として、「吉備の鬼」を取り上げています。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
国立国会図書館 デジタルコレクション 「備中誌」の「加陽郡巻之五」から該当箇所をスクショ。



【読み下し文】
吉備津彦尊の后の宮 宮内に同じく坐す

御后百々田弓箭姫命と申し奉りて 今宮内に内宮大明神と云ふは是也 此社にも此内宮をはします故に爰に出せり

吉備津彦命 鬼之城の鬼亡きて給ふ時 頻りに御心地煩ひ 而して失はせ給ふ 樂々森軍さを終へ 而して斯く告り奉りて●は 急に飛び歸り 玉早くに先立ちて 而して御息絶へ給ふ 骸は宮内に殘り 而して御靈は帝都に●給ふ事 悲しみ歎きに耐へず 而して御靈に逢はんと追ひ翔け給ふ 程無く追ひ着きて後に從ひ呼び給ふも 御靈の骸無く聲に及ばず 御應へは低くして首に聞かせ給ひ ●此呼び給ふ所を呼坂と号く 彼の低首坂と云ふ也

注に云ふ 鬼ノ城御社は吉備津彦命御夫婦を祭る故也

其後 文武天皇の御宇 秋津洲を六十六ヶ國に分かち 備ノ國も之を分かつ 此前中後の黎(おいおい)の民子孫 相續くの事 偏へ(ひとへ)に一宮の大功也 故に備後にも宮内を勧請す 而して一宮大明神と奉り崇める也 前洲も如く也 尊臣悉く神と爲すも之を記さず [記さずの義 宮内に委細御眷属の神社 之有る可く然る間 爰に略之を記さず]

注に云ふ 吉備津彦命 吉備國を三つに分かちて 備前を姉媛 大倭迹々日百襲姫命に 備後を妹媛 稚屋姫命に奉じる 各兩國に御社遣れり 本書に前洲も如く也と云ふは是也
尊の臣神と爲す云々 留靈臣は髙田村に祭て鼓明神 樂々森彦命は吉川村 矢部村 髙田村に矢目麻呂を鯉喰御崎とて矢部村に祭る

蛇嵩我伽藍は用明天皇の御宇 三十餘ヶ寺に置くと雖も 別に血豚緣起に之を有する故記さず

右往古の緣起と雖も 文字錯亂の有りき 而して正しからず 亦た破壊れり 而して難しく及び披き見するに 爰に以て一山の長老會の講堂に於て 只錯亂を改め書きしと雖も 闕字を正し 而して己の敢へて私文章文法を加へずして区けること 心得る事多し 而して其文章の躰(=ようす、ありさま)を書き記す也

菩提寺沙門圓會僧正謹筆


【大意】
吉備津彦尊と后は吉備津神社に同座しています。

后は百々田弓箭姫命と申され、今、内宮(吉備津神社)で「内宮大明神」と呼ばれるのは后のこと。内宮社という社が鎮座します。

吉備津彦命は「鬼ノ城」で鬼を滅ぼした時、しばしば心の病を患い、薨去。樂々森命は戦を終え、飛んで帰って来たものの既に息絶えていました。亡骸は宮内(吉備津神社)に残り、御霊は皇居に。悲しみ歎きに耐えられず、御霊に逢おうと御霊を追いかけます。程なく追い着き呼び掛けるも、御霊の亡骸は無く声になっていない。返答は低い声で首に聞かせました。この呼びかけた所を「呼坂」と名付け、「低首坂(うないさか)」と言います。

注釈には、鬼ノ城の社が吉備津彦命夫婦を祀るからとあります。

文武天皇の御宇(在位/697~707年)、日本国を66ヶ国に分けましたが、備ノ国も備前・備中・備後に分けられました。三国ともに子孫繁栄したのは一ノ宮(吉備津神社)の大功です。備前国・備後国に勧請され、一宮大明神として奉斎されました。吉備津彦命の臣下は悉く神となりましたが、それらは記されていません。[記さないのは、吉備津神社に眷属社(境内社)の各社委細があるためです]

注釈には、吉備津彦命が吉備国を三つに分けて、備前国に姉媛 大倭迹々日百襲姫命、備後国に妹媛 稚屋姫命をそれぞれに奉じて両国に社を建てました。本書に「前洲も如く也」というのはこのことです。
吉備津彦命の「臣神と爲す」云々については、留霊臣(玉留命)は高田村にて祀られ、鼓明神 樂々森彦命は吉川村・矢部村・高田村に、矢目麻呂は鯉喰御崎として矢部村に祀られています。

蛇嵩我伽藍を用明天皇の御宇(在位/585~587年)に三十余ヶ寺に置かれましたが、別に「血豚縁起」には記されていません。

*割愛します
 (以下、本書に文字錯乱等が有り正しいものではないが、修正を施さずに掲載した旨が記されています)

菩提寺沙門圓會僧正謹筆


【補足】
そうでしたか…そうでしたか…。
錯乱した文章を正さずそのまま載せたと。通りで解読に苦労するわけだ…。

いや…それだけではない!この坊主が付した「一・二・レ」点もむちゃくちゃやけど。それはあんたが悪いわな~!しかもせめて明らかな誤字くらいは直して欲しかったな~!

文字潰れで判読不可能な箇所も多々あり、大変に苦労させて頂きました。その1/3くらいの原因はこの坊主にあると思うが。

◎后であると記される「百々田弓箭姫命」は、現在は境内摂社「本宮社」に合祀される、「内宮社」のご祭神として祀られています。かつては「吉備の中山」の南部山上に鎮座していたとのこと。

◎備洲が三分割され備前・備中・備後に。
備中 … 吉備津神社 吉備津彦命
備前 … 吉備津彦神社 大倭迹々日百襲姫命(姉)
備後 … 吉備津神社 稚屋姫命(妹)
以上のように、それぞれ姉妹神を奉じて創建されたと記されています。現在の主祭神はいずれも吉備津彦命。社名から鑑みてもその通りであろうかと。実際の創建は平安時代後期頃と推定されます。おそらくは

◎三人の従者
*留玉臣 → 雉
皷神社(後裔が神官を務める)(旧高田村、現岡山市北区上高田)
*樂々森彦命(鼓明神) → 猿
皷神社(楽々森神社を合祀)(旧高田村、現岡山市北区上高田)、吉川村・矢部村については痕跡地が見出だせていません。
*矢目麻呂
鯉喰神社(本来のご祭神とする説有り)(旧矢部村、現倉敷市矢部)
*犬飼武 → 犬

「桃太郎」伝説の三人(三匹?)の家来、「猿」「雉」に続き「犬」も追加しておきました。


■ まとめ
「温羅」が「土蜘蛛」らしき「賊」として伝わっているもの、「桃太郎」伝説そのものをまとめておきます。他文献に見える伝承も取り込みます。

*百済出身である(百済王とするものも)。
*百済から日向または筑紫へ渡り、吉備の賀陽郡へ渡る。
*「鬼ノ城」を築き根城としていた。
*悪行、淫行等は多くの「土蜘蛛」の伝承と同内容。
*「阿曽郷」(現在の総社市阿曽)の祝の娘(阿曽媛)を妻に迎え入れる。
「阿曽」はアイヌ語の「火を吐く山(火山)」を語源とする説はあるが、古代朝鮮語を由来すると考えたい。
*「温羅」と吉備津彦命との戦いは、「鉄」をめぐる覇権争いであったと推される。
*樂々森彦命、矢目麻呂、留玉臣、犬飼武等は在地豪族の者と見られ、物語の厚みを増すために一様に拾ったかとも思える。
*「桃太郎」伝説の最古の文献(年代が確実なもの)は、「鬼城縁起写」で延長元年(923年)。「新山の釜」が記されるが、鎌倉時代に製作のもの。従って延長元年に書かれたものとは認め難い。室町時代に成立したとする説もある。記紀には記されていない。


「桃太郎」伝説はこのように、おそらくは室町時代頃に成立したのでしょうが、その原型はあったのでしょう。

吉備津彦神社を始め、皷神社、鵜江神社が式内社となっていることがその証。


境内摂社 本宮社
孝霊天皇(父、新宮社)、百田弓箭姫命(妃、内宮社) *画像はWikiより



今回で吉備の鬼伝説は終わり。

「土蜘蛛」に含めるかどうかの葛藤がありましたが、「らしきもの」を知り得る限り抽出しておくという意味では、意義があったと思っています。

次回以降は未定です。


「鬼ノ城」から麓を。 *フリー画像より

吉備津彦神社 境内社 温羅神社
(2012年5月撮影時のもの)



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。