*写真は2013~4年頃に撮影したもの






◆ 土蜘蛛 二十九顧 
(「温羅」伝説 ~3)





2回程度では済まず、もう数本必要としそうです。思っていたより量が多い…。

越年しそうだ…。

投稿予約記事も枯渇し、家計と同様に火の車状態で記事を上げていきます(笑)



国立国会図書館 デジタルコレクション 「備中誌」の「加陽郡巻之五」から該当箇所をスクショ。


【読み下し文】
昇龍山

昇龍山の宮城 東西二十四町 西は堀三重也 外堀深さ一丈 海潮を搔き入れ 而して常に波を叩かしむ 出入するに橋無し 北は山峙ちて 而して數囲の萬木生え出づる也 山の尾に石を疊みて高僂を建つ 苔を刪り 通路を塞ぐ也 而して靈留臣之を守り 腰に劔を帯び手に鼓を持ちて翔引の法を示す [爰を今に鼓山と言う] 南に帯びきは昇龍山也 尊常に此に坐して其の要害巖(*)也 巖上に萱葺の宮を建つ 土階也 四方五町 尊の随臣並び居爲す 故に爰を宮内と稱ふる 此昇龍山は人皇一代神武天皇即位の年 數百の龍 白●に天に昇る 秋津洲の中より龍出で 而して天に昇りし多い之有りと雖も 是其の初め也 東北は滄海山を廻り底は無し 長へに靑山の影を浸し 而して淵倫兮桴を浮かべ南海を通じ [今山南の地也 北は足守より南唐川の邊りか] 鱗を漁り 而して兵粮を獻じ北を通し 而して廣く郊に土を芳め 而して嘉水有りて芳嘉郷と号づく 國民は此邊に住み [今備前金山寺の邊より以北備中高田山上に通じて村居せり] 而して藻を揉み礒菜を摘み兵粮を獻ずる 飯盛是也 此地に世々名水湧き 後円珍 [智證大師也] 草創伽藍 [文武天皇の時の人也] 淸水寺を号く 又三十餘町を隔て 西に夜目山有り 尊の臣夜目丸を使はし夜行の悪鬼より防ぎ護らしむ [今に謂ふ矢部矢州と云ふは誤也] 樂々森舎人は一宮の軍奉行也 須臾に百里を翔け 常に芦守山に有りて國郡を守る 能く巖石を穿ち水を呼び 此山の絶頂に岩が有り樂々森此岩を穿ちて水を出し 國民は此水を汲み渇きを潤す 而して其の水今も有り 中頃(*)に優鉢羅龍神此山に飛び來りて櫂を垂れし跡 而して國民に從ひ護り龍王と号く也 [水の出る地は今と足守の内龍王池と云ふ●●●●●にて和井本村となる] 


*「昇龍山」とは吉備津彦神社・吉備津神社が鎮座する山のことを指すと思われます。この中には吉備津彦の墓とされる中山茶臼山古墳も築かれています。
*「備中高田山上」は金山寺のまださらに北方。現在の真庭市高田山上。
*清水寺は2ヶ所見受けられ、どちらか確認できません。
*「夜目山」も不明。



【大意】
昇龍山

「昇龍山」の宮城は東西二十四町(約3000坪)、西は堀が三重となっています。外堀の深さは一丈(約3m)。入海となっていて、常に波が押し寄せています。橋はありません。北は山が迫り、周囲に多くの木が生えています。山の尾には石畳があり高楼が建てられています。苔が生え通路を塞いでいます。臣下の玉留命これを守り、腰には剣を帯びて、手には鼓を持ち「翔引法」(*)を示します [これを今は鼓山(吉備津神社の北方)と言います]。南に聳えるのは「昇龍山」。尊はいつもここに坐すがその要害は磐です。磐上に石段で昇る萱葺の宮を建てました。四方五町き尊の随臣が並び住みました。だからここを宮内と言います。この「昇龍山」は第1代神武天皇の即位の年、数百もの白龍が天に昇りました。秋津洲から出て龍が天に昇ることはよくありますが、これはその初めです。東北は海が山囲み底は無し。長々と青山の影を写し、淵倫兮桴(*)を浮かべて南海を通じ、[今は山の南の地です。北は足守より南唐川の辺りか] 漁撈を行い兵粮を献じて、北を越え広く郊外の地を祀り、嘉水があったことから「芳嘉郷」と名付けました。国民はこの辺りに住みました [今、備前金山寺の辺りより以北、備中高田山上に渡り住みました]。藻や海藻を採り兵粮を献じました。飯盛とはこのこと。この地に名水が湧き、円珍などという僧侶が伽藍を草創し清水寺と名付けました。また三十余町を隔て西に「夜目山」があります。尊の臣下、夜目丸を遣わし夜に悪行をはたらく悪鬼から護らせました [今に謂う矢部矢州は誤りです]。 樂々森舎人は一ノ宮の軍奉行。すぐに百里を翔け、常に「芦守山」にいて国郡を守っています。よく岩石を穿ち水を呼び、この山の頂に岩が有り、樂々森がこの岩を穿ち水を出し、国民はこの水を汲んで渇きを潤しました。その水は今もあり、中腹には優鉢羅(八大龍王か)龍神がこの山に飛び来りて、櫂を垂れた跡有り。国民を守ったことから龍王と名付けました [水の出る地は今は龍王池と言い和井本村となりました]。


【補足】
所々、「一二点」「レ点」が抜け落ちているようで、かなり苦労しました。これらのある有り難さ…身に染みて感じます。
文字つぶれや誤写らしきものも多々ありますし。

◎「留」「靈」といった文字があり、これは玉留命ではないかと考え、そのように訳しました。桃太郎伝説では雉のモデルとなった臣下。

◎「漁鱗」とありますが…「漁」は「すなどり」でつまり魚等を捕ること。「鱗(うろくづ)」でウロコのある魚全般のこと。つまり合わせて「漁撈」ということでしょう。

◎「廣く郊に土を芳め」の原文は「廣郊土芳」。「土」と「芳」の後にそれぞれ送仮名が振られていますが、文字つぶれで判読不可。
古代中国の天子は、冬至に「南郊」で「天」を、夏至に「北郊」で「地」を祭ったとされ、おそらくはこのことを言い表しているのだろうと思われます。


歌川国芳「日本百将伝」より吉備津彦の想像図
*画像はWikiより



今回はここまで。

まだまだ続きます…。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。