◎神拝  「二上山 雄岳」登拝 (令和二年 3/17)



実は恥ずかしながら未だに「二上山」には登ったことがなかったのです。
偉そうに大和の古代史について書いていながら…。

この「二上山」が古代においてどれほど重要な山であるのかは、これまでに折に触れて書いてきました。

簡単におさらいを。


◆「三輪山」と「二上山」で「太陽の道」(レイライン)が形成されました。
これは「三輪山」山頂と、「二上山」の二つの山の間を結ぶ、北緯34度32分のライン。

◆「太陽の道」上の主な神社等を列挙します。
・神島(伊勢湾)
・伊勢斎宮
・室生寺(室生龍穴神社)
・長谷寺(與喜天満神社)
・三輪山山頂(高宮神社/大磐座群)
・箸墓古墳
多坐弥志理都比古神社(境内の古代祭祀場跡)
・二上山の雄山と雌山の間
・聖徳太子御廟(叡福寺)
舟木石上神社 他多数有りますがこの辺で

大和ではとある場所を起点に、「三輪山」から朝日が昇り「二上山」の間に夕日が沈む日、つまり「春分の日」「秋分の日」、これを田植え開始時期と収穫時期と決めていました。

とある場所とは多坐弥志理都比古神社(境内の古代祭祀場跡)であろうと思われます。
「三輪山」と「二上山」のちょうど中間辺りであり、縄文時代からの遺跡があること、当社の由緒等から鑑みて間違いないかと。

ただし「太陽の道」に点在する神社等には磐座が多く、その信仰が始まったのは旧石器時代からではないかと考えています。

その時代、多坐弥志理都比古神社は「大和湖」の底。聖徳太子の御廟もその時代の人々は「太陽の道」を知っていた、あるいは当たり前のことだったのかもしれません。

このラインは西方にはどんどん延ばすことができるので、山口県萩市の南方まで可能かと。追々調べていきたいと思います。


「二上山」は古代は「ふたかみやま」、現在は「にじょうざん」と読みます。

以下、簡単にプロフを。

◆「雄岳」(標高517m)と「雌岳」(標高474m)の2山で構成されます。

◆「金剛山麓」の一部。南から「高天山」(現在は金剛山)、「葛城山」、そして「二上山」と続きます。
渡来系氏族を束ねていた葛城氏が、山中から麓まで支配していました。

◆サヌカイトの生産地として有名。讃岐国が圧倒的に産出量が多いものの、当山からのサヌカイトも全国に散らばっているようです。

◆北麓からは旧石器時代から弥生時代にかけての遺跡があり、サヌカイトを糧に生活を営み始めたようです。

◆山頂には二上神社が鎮座、近くに大津皇子の墓とされるものも。麓には葛城倭文坐天羽雷命神社が鎮座します。


今回は「雄岳」のみ登拝しました。体力的なものから。
ルートは葛城倭文坐天羽雷命神社境内から。古代はこここそが唯一の登拝ルートであったと思います。
ただしサヌカイト採鉱のためいろんなルートから、いろんな人々が登っていて、けっして巫女以外は禁足地というわけではなかったようです。

登拝時間は1時間前後でしょうか。特に登山装備等は不要、あれば越したことは無いといった程度。
喘息持ちの私は2時間半かけて登りました。これが限界、帰りは30分で降りてるんやけどね…。



まずは葛城倭文坐天羽雷命神社を参拝、境内の主要な磐座へもご挨拶を忘れずに。



ほどなく恒例の獣除フェンスが現れるので、もちろんセルフで開けて。



サヌカイト


サヌカイトは簡単に割れるので、柱状摂理のようになっています。


半分くらい登った辺り。

3/4辺りでしょうか。山頂が見えます。

右手に見えるのは「葛城山」。

意味も無く撮った写真。

山頂が大津皇子の墓(後ほど記事UPします)。

50mほど先の二上神社(後ほど記事UPします)。


今回の登拝は「雄岳」のみ。時間に余裕はあったものの体力が…。
「雌岳」やらはまたは次回にて。


筋肉痛は明日から出るのか?
歩数は意外と伸びておらず、






山麓線より。


3年前ほどの写真。長尾神社の一の鳥居から。


檜原神社より(真ん中に小さく見えるのが二上山)。