西鉄市内貝塚線と西鉄宮地岳線!

 

松本清張の『点と線』 ①

松本清張の『点と線』 ② 夜行寝台特急『あさかぜ』」 

 「③ 香椎浜の心中事件

 「④ 列車食堂と領収証の疑問

 「⑤ 国鉄香椎駅

 「⑥ 二つの香椎駅

 「⑦ 西鉄香椎駅へ

 「⑧ 香椎浜

 「⑨ トリック崩しの続きです。

推理小説「点と線」の中で描かれた香椎の町を、松本清張や登場人物が歩いたであろう足跡を辿りながら紹介して来ました。 今回のブログ(シリーズ)を書くに当たって、新潮文庫3回読み直し、東映ビデオ(DVD)も早回しをしながらも2回観ました。 すると、まだまだ面白い(話題になる)点が幾つもあるのです。 

                                                  

 

 松本清張は箱崎と香椎が好きだった!

新潮文庫22P、「鹿児島本線で門司方面から行くと、博多に着く三つ手前に・・・海の方に行くと博多湾を見渡す・・・」の香椎を紹介する場面は、「松本清張の『点と線』」で紹介した通り、大変詳しく書かれている。また65Pの西鉄競輪場前駅の場面では、「競輪場前というのは、博多の東の端にあたる箱崎にある。箱崎は蒙古襲来の古戦場で近くに多々羅(良)川が流れ、当時の防塁の址が一部のこっている。松原の間に博多湾が見える場所だ」と、これも詳しく書かれている。 『点と線』は東京・福岡のみならず、物語は北海道まで展開する。 157P、警視庁の三原紀一が、函館から札幌に着くまで・・・「函館に着いたのは午後の2時20分であった。30分待って、急行(まりも)が出た。それからの5時間半、はじめて見る北海道の風景であったが、三原はさすがにうんざりした。夜の札幌の駅に着いたときは、くたくたになっていた」・・・函館の町を紹介する場面は一切ありません。 五稜郭ぐらいは、と思うが・・・やはり、清張にとっては、香椎箱崎は史跡巡りで何回も訪れた特別に想いが深い地なんだろう。 つまり、清張は福岡県人なんだ。

 

 東京から来て、地理に不慣れな三原には、博多湾を玄界灘だと呼ばせた!

清張が自ら「博多湾」を説明する時は、すべて、「博多湾」と呼んでいる。 だが 84P、福岡署の鳥飼が警視庁の三原を香椎の現場に案内した場面。 「海岸に出ると、三原はめずらしそうに景色を見た。『これが名高い玄界灘ですか? 来るときに汽車の中でちょっと見たのですが、やっぱりいいですなあ」と博多湾を「玄界灘」と言わせているのです。 

我々福岡の人間は、今宿から和白までの海は「博多湾」、新宮から先の北の海を「玄界灘」と呼ぶ。 これは、清張のただの勘違い?  いや、うっちゃんは思う・・・博多の地理に不慣れな東京の人間は、町の外に広がる海を「玄界灘」と呼ぶのが一般的だ、と清張が思ったのだろう。 博多湾も玄界灘の一部だから、間違いではない。 清張の小技が隠れている?

 

■ 煙草(タバコ)を喫っている場面の描写がたまらん!

清張は大の愛煙家だったので、『点と線』のなかでも煙草を喫う場面を多く書いている。 うっちゃんも昔は煙草を喫っていた。 だから、煙草の描写で特に印象に残る箇所がある。 67P、鳥飼重太郎が西鉄香椎駅を降りた地元の会社員から、情報を聞き出している時・・・「鳥飼重太郎は、袋のくしゃくしゃになった『新生』を取り出して火をつけた。吐いた青い煙が宙でもつれる間、つぎの質問の用意を考えていた」・・・「吐いた青い煙が宙でもつれる」とは、喫った人間だけが解る上手い表現だと思う。

                                                            新 生

山本周五郎など愛煙作家には「新生」ファンが多い。 ニコチンの量が少ないからだそうだが、清張祈念館の彼の机の上には「洋タバコ」が置いてある。

 

■ 東映映画 香椎駅1番ホーム駅名看板の位置がおかしい!

          看板                 汽車

     

香椎駅1番ホームに右側(博多駅)から来た汽車が入って来ます。 映像は汽車の方向と同じく左に流れます。 すると、駅名看板が現れるんですが・・・良~く考えると、おかしい。 ホームの乗降車する列車の前にある筈はありません。 映画ですから、許されます。 前後の駅名に土居(どい)、和白(わじろ)とありますが、博多湾鉄道(香椎線の前身)が西日本鉄道と合併し、その後、戦時買収によって国有化された時、この1番ホームにも香椎線の汽車が入って来てたようです。

 

■ 「点と線」の時代(昭和32年)より少し前、千鳥橋に「新博多駅」があった!

福岡署の鳥飼重太郎が香椎に向かう時の記述が幾つかある。

1、56P、彼は市内電車を箱崎で降り、和白行の西鉄電車に乗りかえた。香椎に行くには、汽車の時間帯をみて行くよりもこの方が便利である

2、73P、彼は市内電車で箱崎まで行き、そこから競輪場前駅まで歩いた。    

3、84P、彼は三原を連れて、競輪場前から電車に乗って、西鉄香椎駅に着いた

 

上の記述から読み取れるのは、鳥飼重太郎は福岡署(天神)から貫線で箱崎まで行って・・・そこから競輪場前駅(現・貝塚駅)まで歩き、競輪場前駅から西鉄香椎に向かっている。

               西鉄路線図 (昭和37年以降)

 天神から環状線で博多駅に行っても、国鉄は本数が少なかったので不便だったのだろう。 しかし、箱崎から競輪場前(貝塚)まで歩くことが一番便利だろうか? 何故、千鳥橋を経由していないのか? 清張は何かを勘違いしているのだろうか?

 

現在の西鉄貝塚線(当時の宮地岳線)は、博多湾鉄道会社(明治38年西戸崎/宇美間に鉄道開設)によって、大正14年(1925年)に新博多駅(千鳥橋)/宮地岳間が開通した。 

               新博多駅・西鉄博多駅

昭和17年(1942年)、福博電車(市内線)など五社合併により、新しく西日本鉄道の経営となる。新博多駅西鉄博多駅と駅名変更。 昭和29年(1954年)、西鉄博多駅(後に千鳥橋)/多々良(後に競輪場前・貝塚)間のみ西鉄市内線に編入。 

  千鳥橋/貝塚間市内線編入前までの西鉄香椎駅。  (西日本鉄道 所蔵)

 中央「香椎駅」の駅名から右に、名島多々良(競輪場前・貝塚)、箱崎宮前西鉄博多と読める。

市内線編入後は、電圧・単線/複線の違いから、西鉄香椎駅方面へは、競輪場前駅(後の貝塚駅)での乗り換えが必要だった。    西鉄貝塚駅(競輪場前駅)

       (西鉄アーカイブより)      

清張が22歳(昭和6年)で福岡の印刷所に見習いで住んでいた頃、宮地岳線は博多湾鉄道の経営だった。 「点と線」の連載が始まった昭和32年は、競輪場前駅(貝塚駅)までは、既に市内線に編入になっている。 よって、天神から系統番号5番に乗ると、新博多駅(千鳥橋)で乗り換えることもなく、競輪場前駅(貝塚駅)まで直接行ける。 

 

清張は間違いなく勘違いを起こしていた。 千鳥橋/貝塚間のみ、運営の移り変わりが激しいかったので、福岡市民でない清張が勘違いするのは当然だろう。 物語が進んだ上記「3、84P」では、「競輪場前から電車に乗って」とだけ書かれているので、「系統番号5番」の存在に気が付いたのだろう。 でも清張のことだから、謎を含ませているのかもしれない! 

 

松本清張の『点と線』 ⑪最終?」に続く。

 

香椎あれこれ

香椎浪漫

                          新型コロナ退散!