日本一の槍を飲み取る

母里太兵衛と黒田家 ① 黒田24騎と黒田8虎

母里太兵衛と黒田家 ② 播磨国姫路の時代

母里太兵衛と黒田家 ③ 秀吉の時代

母里太兵衛と黒田家 ④ 文禄の役」 の続きです。

 

明国李氏朝鮮と休戦中の慶長元年(1596年)正月、黒田長政は秀吉が築いた京都伏見城下の黒田屋敷にいた。 

黒田長政

 

伏見城は秀吉が晩年を過ごすために築いた城だ。 現在、本丸があった場所は明治天皇の御陵「伏見桃山陵」となっている。 秀吉は伏見城を囲むように各大名に屋敷を営ませ、妻子はその屋敷に住むよう命じた。 謀反を心配した人質の制度だ。 後に徳川幕府もこの仕組みに習い、 大名の江戸屋敷参勤交代の制度を確立した。

京都市伏見区伏見城近辺地図 (マピオン利用)

 

 伏見北堀公園の東端(印)は、現代の住所で京都市伏見区深草大亀谷敦賀町となる。 残っていた当時の絵図から、黒田長政の屋敷はここにあったとされる。 

伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地碑 (古都の礎より)

 

 黒田節の逸話

正月の挨拶に来る来訪者で長政(この年28歳)は忙しくしていた。 栗山善助ら三家老には、自分の名代として主たる大名に年始の挨拶に行かせた。 秀吉の子飼いで「賤ケ岳七本槍」の一人として有名な福島正則(この年35歳)の屋敷には、母里太兵衛(この年40歳)が訪問することになった。 

母里太兵衛

 

長政は黒田屋敷を出る太兵衛を呼び止めて、一言注意を言った。 太兵衛の大酒飲みを知っている長政は、「失礼があってはいけない」と思い、「福島屋敷では酒は絶対に飲むな」と言い含めた。 太兵衛は供の者が手綱を引く馬に乗って、福島屋敷に向かった。

 

JR桃山駅と京阪伏見桃山駅・近鉄桃山御陵前駅の間に、「御香宮(ごこうのみや)」が鎮座している。 主祭神は神功皇后であり、秀吉は伏見城の守り神とした。 「御香宮」は幕末に薩摩軍が陣を張り、「鳥羽伏見の戦い」の戦場としても有名。 福島正則の屋敷(地図印)は、その「御香宮」参道の近くにあった。

福島正則 (東京国立博物館蔵)

 

福島屋敷では他大名からの名代も含め、酒宴で盛り上がっている。  福島正則も酒が好きで、気分が良かったのか既に酔いが回っていた・・・長政からの新年の挨拶を聞くと、太兵衛にも酒をすすめてきた。 太兵衛は長政からの厳命に従い、頑なに固辞し続けたが・・・そんな太兵衛に、正則も次第に機嫌が悪くなってきた。 

 

正則は酒の酔いもあって、「黒田家には酒も飲めぬ腰抜けの武将が揃っているようだ。 それでは戦も出来ぬだろう。 長政殿も気の毒なことじゃ」と、皆の前で言い放った。 その瞬間、太兵衛のこぶしが震え、座敷にいた客人たちが静まり返った。

 

黒田家の悪口を聞いた太兵衛は黙っては居られず・・・「それでは」と、正則に酒飲み勝負を挑んだ。 正則は近くの者に、他の部屋から巨大な盃を持ってこさせ、それに大量の酒を注がせて言った。 「この盃で三杯の酒を飲み干せば、褒美に好きなものを取らせる」と。 

 

太兵衛は正則の目をキッっと見据え、床の間に置かれた槍を指さしながら、「それでは、三杯飲み干したならば、床の間の日本号を所望したい」と、部屋中に聞こえるように言った。 正則の家臣たちが「えっ」と声を上げた。 それは秀吉から下賜された大切な家宝の槍だったのだ。 しかし、かなり酔っていた正則は安易に「よかろう」と返した。

名槍 日本号 (福岡市博物館所蔵)

宴席の真ん中で、太兵衛は一杯目を一気に飲み干したが・・・流石に二杯目は苦しく、少し時間がかかった。 客人たち全員の目は太兵衛に集中している。 三杯目は更に苦しんだ・・・主君の官兵衛長政の顔が目の前の大杯の中に浮かぶ。 やっとの思いで三杯目を飲み干し、盃を置くと「フーッ」と大きく息を吐いた。 その瞬間、客人たちの歓声が聞こえた。  正則の家臣たちはオロオロしていたが・・・正則は何が起ったか解らないのか、虚ろな目で座り込んでいる。 事の成り行きは多くの客人と正則の家臣がしかと見ている。 太兵衛は槍(日本号)を手にして馬に乗り、意気揚々と黒田屋敷に戻ってきたのだった。

 

この逸話が筑前の黒田藩に言い伝えられ、江戸時代後期に筑前今様の「黒田節」として完成した。 

 

 酒は飲め飲め 飲むならば

日の本一の この槍を

飲み取るほどに 飲むならば

これぞ まことの黒田武士 

 

(人形のモリシゲより)

 

 「黒田節」誕生の地

黒田節」が誕生した地は、筑前今様が完成した福岡市であるのだが、母里太兵衛が酒を飲み干した伏見の福島屋敷ということにもなるのだろう。 「御香宮(ごこうのみや)」参道近く(地図印)の場所に『黒田節 誕生の地』を示す京都市の説明板が立っている。

 

ちなみに、関ケ原の戦い(慶長5年=1600年)が終わり、黒田長政が筑前福岡に城を築いている最中の慶長9年(1604年)、黒田官兵衛如水公はこの京都伏見の黒田屋敷で59歳の生涯を終えた。

 

 

母里太兵衛と黒田家 ⑥ 名槍・日本号と慶長の役」に続く。

 

 

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