夜行寝台特急「あさかぜ」

 

「松本清張の『点と線』 ① 」の続きです。

          新潮文庫            TOEI-VIDEO

                                       

(主な登場人物とあらまし)

東京駅15番ホームから出発した特急「あさかぜ(博多行き)」に乗車した××省の課長補佐・佐山憲一と赤坂の料亭「小雪」の女中・お時の二人は、一週間後に死体で見つかった。場所は福岡香椎の海岸で、状況から情死(心中)と処理されたが・・・

しかし、情死(心中)に疑問を持った二人の警察官がいた。

         三原紀一 = 警視庁捜査二課警部補           鳥飼重太郎 = 福岡署の古参刑事 

  

この二人の警察官が犯人の安田辰郎亮子夫婦のアリバイ・トリックを解き崩して行く。

 

小説点と線』(新潮文庫)の84Pに、「競輪場前から電車に乗って西鉄香椎駅に着いた」の条がある。 この西鉄競輪場前が現在の貝塚駅で、文字の如く競輪場があった。 当時は市内電車も西鉄だったが、電圧と単線・複線の違いから、競輪場前駅が乗り換え駅となっていた。競輪場は昭和37年(1962年)に廃場となったが、その跡地が現在の貝塚公園になっている。 先々週、貝塚公園内に置かれていたブルートレインの劣化を修復した地元小学生がニュースに出ていた。 クラウドファンディングで修復資金を調達したそうな・・・。 

               貝塚公園 ブルートレイン

                 

 

公園に行ってみると、車体のブルー塗装が目新しく輝いていた。 説明板には、「博多と東京を結ぶ寝台特急『あさかぜ』号に使用され、松本清張の『点と線』(昭和32年発表)の中でも重要なシーンに登場した」と書かれている。  車体に記された客車記号は「ナハネフ22」となっていて、「ナハネ」の「」は「ブレーキ」?を意味し、編成の最後尾に連結される「緩急車」だと分る。 テールプレートが「急行」となっているが、晩年に門司港/西鹿児島間を走った寝台急行「かいもん」の時の姿だ。 また、「22」の数字から、国鉄20系特急列車用客車だと分る・・・よって、正確に言うと、『点と線』の時代より数年あとに登場する「あさかぜ」車両と言うことになる。 『点と線』発表時に、20系~22系は未だ製造されていない。 

 

昭和31年(1956年)に発表された「経済白書」に、「もはや戦後ではない」の言葉が記されている。 戦後の荒廃から立ち上がり、「これからは高度成長に向けて羽ばたく」と言う掛け声だった。 旅客輸送・宿泊など観光関連事業者にとって、観光地・九州への誘客は最大の関心事で、景気高揚に連動したレジャーブームが湧き起ころうとしていた。 

 

国鉄は、この年(昭和31年=1956年)の11月19日、ダイヤ改正に合わせて、戦後初の夜行寝台特急列車「あさかぜ」を発表し、運行を開始した。 

 

 

 

3ヶ月後の『点と線』で、この「あさかぜ」が登場する。 10両編成で半分の5両が寝台列車・・・この時の車両編成が次です。

 

                 

簡単にカタカナの車輛記号に触れておくと、最初の「ス・ナ・マ」は車両の大きさ(重量トン)を表しています。 「ス」と「マ」は大型タイプ・・・「ナ」は並みの「な」?で一般の大きさ。 2番目の「ロ・ハ」はイロハの等級・・・「ロ」は2等級(現在のグリーン・A)、「ハ」は3等級(現在の普通・B)、「シ」は食堂車の「し」。 3番目の「ニ」は荷物車の「に」、「ネ」は寝るで寝台車、「フ」は貝塚公園の「ナハネフ」の「フ」と同じで、ブレーキの「フ」・・・車掌が乗っていて手動のブレーキが付いている「緩急車」のこと。

                戦後初の「あさかぜ」 2.3.4号車のナハネ10系(3等寝台車)図 

 

ちなみに貝塚公園のブルートレイン(ナハネフ22)は、20系の客車で、並みの大きさの3等寝台車、そして、車掌が操作する手動ブレーキが付いている車輛を言う。 「22」が表す国鉄20系は、『点と線』発表時には未だ登場していない、と先に書きましたが・・・昭和31年11月19日のダイヤ改正から走り始めた「あさかぜ」は、編成図の下に書かれているように、32系・10系・35系・・・と、寄せ集めの系式車輛で編成されていた。 それでも戦後初の夜行寝台特急列車「あさかぜ」は、人々の移動を容易にしたことから、花形列車として人気を高めて行く。

 

冷暖房完備の全客車が20系で統一され、「日本最初のブルートレイン」として投入されたのが、昭和33年10月1日の東京発「あさかぜ」からだった。=(貝塚公園の車両)

企業にとっては、出張移動が楽になった。 観光としての移動手段を気軽なものと感じ始めた人々が増え・・・昭和45年の「大阪万博(入場者6400万人)」に象徴される大観光時代に向かって走り始めた時代ではなかったか。

 

さて、『点と線』に戻ります。 戦後初の夜行寝台特急列車「あさかぜ」が走り始めて3ヶ月後の昭和32年2月から、雑誌「」で『点と線』の連載が始まる。 松本清張にとって『点と線』の大筋の構想は数カ月前には出来ていたのだと思う。 ブログ『点と線 』で紹介したように、「香椎」は既に彼の頭の中では組み立てられていたのだろう。 ところが11月19日のダイヤ改正によって、突然「あさかぜ」が発表された。 雑誌「」の編集担当者と清張は大いに慌てたに違いない。 何としてでも、『点と線』の中に「あさかぜ」を登場させたい。 

 

結果、東京駅「あさかぜ」出発時の13番ホーム・15番ホームの4分間トリックが生まれた。 時刻表が愛読書だとしても、この時間帯を見つけ出すことは大変だったろう。 何回も13番ホームに立って、確認をしたようだ。 場面が小説の最初の章だったので、書き換えに手間取ったのだろう。 普通、連載スタートは年明けの1月からだが、遅れて2月からになったのは、そんな理由によるらしい。 

 

最初の原稿を書き換えるまでの数カ月、清張はどんな状態だったのだろう? 「あさかぜ」でパニクって、頭の中がグルグル廻っていたのだろうか? そうだったにしても、推理小説家だけが持っている柔軟な脳のパソコンが働いたのだと思う。 我々普通の人間は持ち合わせていない特殊な回路が、別次元から「」と「」を見つけ出して結びつけてしまう。 それが東京駅の僅か4分間のトリック。

 

(小説では)昭和32年1月14日18時30分、(東映映画では)昭和33年10月14日18時30分、××省の課長補佐・佐山憲一と赤坂の料亭「小雪」の女中・お時の二人を乗せた特急「あさかぜ」が、東京駅15番ホームから博多へ向けてゆっくりと動き出した。 

 

松本清張の『点と線』 ③ 香椎浜の心中事件!」に続く。

ブログ内画像は清張記念館、東映DVD、ウィキペディア、他からお借りしました。

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