旅館の車で宿に到着。到着するまで外の景色を見ていたが何も感じない私。

 

 

 

今回も高級な日本旅館。入口の門から建物の玄関までの通りが長い。J君の後ろをついていきながら、灰色の飛び石から落ちないように慎重に歩いていく。

 

 

 

 

運転手さんが玄関の扉を開けてくれる。建物の中に見えるお花模様の絨毯が綺麗だ。フロントに置かれている猫の置物が厳かにこちらを見ている。

 

 

 

私達がスイートルームの宿泊だからだろう。カウンターではなく、美しい豪華なソファが置かれた洋風のお部屋に通される。二人で並んで座っていると仲居さんから宿帳を差し出される。私は名前や住所を機械的に記入する。

 

 

 

 

アスカの心の中)

(仕事が10点・・・)

 

 

 

(他の人は理解している・・・)

 

 

 

(J君は完全なプライベートではない・・・)

 

 

 

 

新幹線の中でJ君からの言葉を聞いてから、頭の中はこの思考が何度も何度も繰り返されている。他の考えは何も浮かんでこない。全体的にぼーっとしてしまっているままだ。だがぼんやりした脳の中でも、この3つのセリフだけははっきりと浮き上がっている。

 

 

 

 

アスカの心の中)

(今、私の隣にいるJ君は、仕事が10点の気持ちでここにいる・・・)

 

 

 

 

これ以上のことは考えられない。頭を殴られたかのように考えることができない。私はまるで抜け殻のようだ。

 

 

 

 

だが時間は止まらずに過ぎていく。美しい応接室でチェックインを終えてから、仲居さんが出してくださったほうじ茶をいただいた。一緒にきな粉色のお菓子も置かれている。食べる気が湧かなかった。出していただいたのでそのままだと悪いと思い、飲みたくないお茶を飲みほした。

 

 

 

 

ずっと混乱しているのだが、心の中のことをJ君にバレてはいけないような気がした。J君が言うには「仕事だと分かっていないのはアスカちゃんだけ」であり「他のお客様は分かっている」なのだ。もし私がオロオロしたら、私だけが変だと思われてしまう。だから自分の気持ちを見せてはならないし隠さなければならない。

 

 

 

 

 

ソファから立ち上がって予約したお部屋まで案内される。廊下を歩きながら私は頭がくらくらした。貧血が起きているかのように目の前が揺れていて視界が定まらない。なんとか足を一歩ずつ前に出す。今日もおしゃれをして高いヒールを履いてきた。慣れない靴を履いて歩いていたので小指がじんじんと痛む。

 

 

 

 

アスカの心の中)

(仕事が10点・・・)

 

 

 

(他の人は理解している・・・)

 

 

 

(J君は完全なプライベートではない・・・)

 

 

 

(今、動揺していることは君にバレてはならない・・・)

 

 

 

 

繰り返し頭の中がこれらの思考でぐるぐるしている。

 

 

 

 

2部屋の和室で広々としたスイートルームに通されて、宿の説明を受ける。J君は冷静に仲居さんの説明を聞いている。私の耳には何も入らない。「J君はいつも通り冷静だな」とぼんやりと思う。

 

 

 

 

ニコニコしたベテラン風の仲居さんから浴衣の場所、温泉に入ることができる時間帯、食事の時間、朝食の案内など説明されているが、言葉だけが目の前を素通りする。聞いていてもまったく楽しくない。

 

 

 

 

なぜならば「J君は仕事10点」なのだから。まだ私には意味がよく分かっていない。

 

 

 

 

和風の綺麗な客室露天風呂も嬉しくない。ただのコンクリートとお湯に見える。外の日本庭園もただの木と草と地面だ。予約するときには、旅のサイトで10箇所以上の旅館を見比べてルンルンしながらこの宿に決めたのに。今はなぜここにいるのかよく分からない気分だ。頭がますますぼんやりしてくる。

 

 

 

 

J君が遅刻したせいで宿に到着する時間が遅くなったので、もうすぐに夕食の時間だ。

 

 

 

 

機械的に鞄を畳の上に置く。何をしていいのか分からないままに、食事処に行くためにスマホとハンカチを取り出す。フリルの付いたピンク色の可愛いミニポーチにそれらを入れる。旅行バッグの中には、J君にサプライズで渡す予定の紙袋が入っているのだが、高級百貨店のラッピングがただの無機質な紙に見えた。

 

 

 

 

荷物を置いたJ君のほうを見る。いつもと何も変わらない。むしろいつもより嬉しそうだ。

 

 

 

J君)

「アスカちゃん、今日も素敵な部屋を選んでくれてありがとう!」

 

 

 

アスカ)

「・・・・うん・・・・」

 

 

 

 

J君)

「温泉も部屋の露天風呂も楽しみ!ご飯を食べてから一緒に入ろう!」

 

 

 

 

アスカ)

「・・・・うん・・・・」

 

 

 

 

J君)

「俺、浴衣に着替えてからご飯に行きたいんだけどいいかな?」

 

 

 

 

アスカ)

「もちろん・・・」

 

 

 

J君は私に背を向けて、壁のほうを見ながら白地に青の模様が入った浴衣に着替えている。

 

 

 

 

部屋の中で着替えるJ君の姿を見ることができるのは特別な私だけだ。それにこんなにもかっこいいJ君が私の前で下着姿でも恥ずかしがらずにいるのを見ることができるのは、優越感を覚える。いつも「着替えるJ君もかっこいい」と眺めるのが大好きな私。だが今日はまるで映画を見ているかのように、目の前で起きていることに対して現実味がない。

 

 

 

J君)

「アスカちゃんも着替えたら?」

 

 

 

 

アスカ)

「そうね・・・・」

 

 

 

 

白地にえんじ色の模様が入った浴衣姿になる私。こげ茶色の帯が上手に結べない。いつもは綺麗に着たいのだが、今日は帯なんてどうでもいい気持ちだ。

 

 

 

 

J君)

「アスカちゃん、ご飯に行こう!」

 

 

 

 

アスカ)

「うん・・・・」

 

 

 

 

J君はいつものようにとても楽しそうだ。

 

 

 

 

スイートルームの鍵を閉めると、J君は私の手を取った。私は頭がボーっとしているが、いつものように手を繋いで美しい空気が流れる廊下を歩いた。

 

 

 

 

 

アスカの心の中)

(仕事が10点・・・)

 

 

 

(他の人は理解している・・・)

 

 

 

(J君は完全なプライベートではない・・・)

 

 

 

 

(今、動揺していることはJ君にバレてはならない・・・)

 

 

 

 

 

 

(仕事が10点・・・仕事が10点・・・仕事が10点・・・)

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

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