受験コーチ池田潤が教える参考書学習法 -9ページ目

受験コーチ池田潤が教える参考書学習法

‐志望校に合格する勉強法と思考法‐

昨日は、大阪でオフ会を開催していました。


たくさんの方が遠方から来てくれて。京都、滋賀、三重、名古屋、島根…。


わざわざ飲み会に参加するために何時間もかけて。


多くの人と直接つながることができるというのは本当に嬉しいことです。


で、そこでも色々と対話していました。


そこには受験生もいたのですが、話していて思ったのはフォーカスがどこに向いているのかで、全く違うということ。


「勉強しないと落ちてしまうのではないか」という恐怖にフォーカスしているのか、


「勉強していれば最高に楽しい未来が待っている」という喜びにフォーカスしているのか。


もっと言うと、「今」やっている勉強に喜びを見ようとしているのか苦痛を見ようとしているのか。


自分で定めた目標。自分で定めた夢。やっていくこと。


それは、心震える喜びのためのはずなのに、いつしか「恐怖」で心が埋め尽くされてしまう。


現在が苦痛になり、地獄になり、強迫的に勉強しなくてはならない気がしてくる。


それが良いとか悪いとかいうことではなくて、ただそれは苦しいよね、ということ。


もちろん、そのエネルギーには良い意味でも悪い意味でも「破壊力」がありますから、


そのエネルギーを利用すれば行動力は上がるかもしれません。


しかし、そのエネルギーは自分をも破壊していきます。


受験勉強という長期的に取り組んでいくものにおいては、その「破壊」のエネルギーは不向きです。


自分を破壊することによって行動できるようになるけれど、自分が持ちません。


アップダウンが激しい、という状況になったりします。


できるときはできる、できないときはできない。


私の場合は、ただ淡々と日々のやるべきことをこなすだけの毎日でした。


だって、それをこなしていけば合格するのだから、ただそれをこなしていくだけでいいはず。


至ってシンプル。


強迫的にとか、破壊的に、なんてする必要がない。


ただ、やるべきことをやるべきときにする。


それだけのことで。


そして、勉強の中にも見出せる喜びを感じていくことで、勉強に取り組むことも楽にできるようになっていく。


破壊的に何かをする必要はなくて、ただ必要なことを必要なレベルでやる。


それだけのこと。


私たちは自分に自信がなかったりすると、とにかくネガティブな方にフォーカスします。


自分の足りないところ、物事のネガティブな面、未来の恐怖、起こってほしくないこと、避けたいこと。


そういうところにフォーカスがいくことで、精神もネガティブになって、


そのネガティブを避けるために何かをするようになっていきます。


その状態はかなり苦しいです。


ネガティブが先にあって、そこに存在していて、それを避けないといけない。


毎日は、ネガティブを避けるためにある。


そう考えたら、その先の日々も重苦しいものとなるでしょう。


避け続けることに日々のエネルギーを費やすことになるから。


そうだと思い込んでいるから。


いやー、つらい。笑


ただ、それは全部思い込みで、何にフォーカスしているかで、全部自分で変えられることです。


自分が喜びのために勉強していることを忘れないこと。


今この瞬間、勉強しているときに喜びを感じることは可能なことを知ること。


ただ、必要なことを必要なレベルでやればいい、ということ。


そういったことに気づくことで、実現したいことを実現していけるはずです。

ブログを書き続けてすでに5年以上が経っているのですが、昔からの読者さんもどんどん年をとっていて(笑)、


色々話を聞いていると、自分でビジネスを立ち上げてそれを仕事にしている、という人も多いんですね。


大体、パソコンで出来ることから初めて、ノーリスクでやっているという人が多くて。それで上手くいっている、とか。


そういうのは聞いていて嬉しいです。


というのは、ブログを立ち上げたときから言ってきたことは、私たちは本来自由であって、縛られるものない、好きなように生きていい、ということ。


日本人は明らかに縛られ過ぎ。色んなものに。


自分で自分を縛って、色々と苦しんでしまっている。


起業してもいいし、就職してもいいのですが、大事なことは自分で決断すること。


自分で自分の人生を決定していくこと。


本来はそれが当たり前なのですが、私の社会には暗黙のルートのようなものが存在していて、


多くの人は思考停止でただそのルートに従うだけ。


で、自分でそのルートに従うことを選んでいるのだけど、なぜか不平不満があったり、「やる気が出ない」と言っているのですよね。


全ては自分で選んでいることなのに。


「選んでいる」という自覚がないんです。


いつでも「やらされている」と思っている。それは、思考停止で、自分で考えていないから。


自分で「何のためにやるか」を明確にしていないからです。


明確にしないで、何となく生きているから、全てが「何となく」になってしまう。


何となく年をとって、何となく受験とか就職とかの節目が来て、何となくやっていく。


何となくだから、「やらされている」感はすごく強いわけです。


本当は自分で選んでいるのですが。


自分で選んでいることに気づかずに、なぜかやらされていると感じて、被害者っぽくなる。


「ああ、やらなきゃなー」となる。


人生全体がそんな感じ。


30歳近くになったら「そろそろ結婚しなきゃな」とか。「マイホームが」とか。「そろそろ子供を」とか。


全てが何となくで、流されていて、枠の中で、やらなきゃなの世界。


自分はどうしたいのか、と自分の心に聞く姿勢がないのです。


自分の心に聞けば、周りとは違う行動をすることになることも出てくるでしょう。


それが当たり前です。


いつでも周りと一緒という方が不自然で不可思議です。そんなことはありえない。


一緒でなければという恐怖は、自分の人生の幅を極端に狭めるし、それでは自分の能力を全部出し切ることはできないでしょう。


流されっぱなしでは自分を見失います。


世の中、決まりきった正解などないし、周りに合わせる必要もないし、ズレていい。


私もかなりズレまくって生きていますけど、相当に楽しく幸せな日々になっています。


私はこれからもズレて、はみ出して、生きていく予定です。


もちろん、それは結果的にそうなってしまうだけなのですけれど。


大事なのは、自分の心に従って生きること。


あんまり「正解かどうか」を気にしないことです。


そんなものはないから。


自分で決めたものなら全て正解。これでいい。これで良かった。


そういう風に考えて生きていく方が楽しいですね。


それでは、今日はこのへんで。


間もなくサッカー日本代表の闘いが始まります。


応援しましょう。

今日は東京でカフェセッションをしていました。


朝から新幹線で東京に向かい、すでに大阪に帰還しているところです。


現在、新幹線の中からこのブログをお届けしています。


今日はカフェセッションだったのですが、すでにプログラム内では何度かセッションをしていて、


何回も会っている方たちに対して行なうセッションでした。


で、最初の頃に比べてまずは表情が明るくなり、雰囲気もかなり良くなった人が増えました。


接すれば接するほど、より深くその人のことを知ることになり、自己開示してもらうことでどんどんお互いを理解していく。


回数を重ねるたびに思いますが、ホントに人の人生には色々あって、それぞれが何かにブロックを持っていたり、


思うようにいかない部分があったり、認められないことや受け入れたくないことがあるものです。


問題を抱えて、その問題を解決しなければならないと必死になって、焦って、不安になって。


今多いのは、人との間に壁を作ってしまう人。


壁を作って自分と人を分離して、それでも実は寂しくて。孤独になって、でもそんな寂しい自分を認められない。


意固地になってさらに人との間に壁を作って、とか。


また、目標が人から与えられたものになっていたり、自分で選んだ道であるにも関わらずなぜか被害者になってしまったり、


書き始めれば止まらないほど、色んなことがあります。笑


明日は、大阪でオフ会。


久しぶりに会う人とか、いっぱいいて本当に楽しみです。


こうやって人と人がつながれるというのはやっぱ素晴らしいことだなーと思います。


あ、ちなみに今回のオフ会は一般募集はしていません。


「僕も参加できますか?」というメールが来たので、一応言っておきます。


ただ、今後また会える機会を作っていきたいと思ってます。


今、新幹線の中で、あまり車内で書くのが得意ではないのでこのへんにしておきます。


今日日帰りなのは、明日のサッカーを観るため。


W杯初戦ということで、楽しみですね。


日本を応援しましょう。


それでは、今日はこのへんで。

勉強において大事なことは、「自分で判断できるようになること」。


勉強していれば、そのときそのときで判断を求められます。


想像以上に細かい部分まで私たちは「判断」している。


どこまで踏み込んで考えるのか、何が原因で「できない」と考えるか、これから何をするべきか、どのくらいの回数するか、どのくらいの頻度でするか、反復周期はどうするか、どの程度の深さでやるか。


無数に「判断」する対象というのがあって、成績が上がらないと悩んでいる人はその判断が少しずつ「ズレて」いるわけです。


やるべきことをできない。やる必要のないことをやる。


本当はもっと反復周期を短くする必要のある場面で、「質を高めることが大事だと先生が言っていたから」と考えてしまう。


上手くいかない人の一つの特徴は、誰かの言葉を「自分の状況を踏まえずに」そのまま鵜呑みにして実行してしまうこと。


つまりは思考停止になっているということなのですが、勉強にはそのときどきの「状況」というものがあります。


それは自分の実力だったり残り期間、苦手分野、抜けている知識、などなど様々。


その状況下で最適な判断を下していく必要があるわけです。


もちろん、ここに「正解」などはありません。


正解不正解ではなく、どういう処置が最適なのかということを考えながら判断していく。


その力が必要になります。


最適な判断をその状況に応じて行っていく力です。


方法論というのは一般論であって、その一般的な方法を自分の具体的な状況に照らし合わせ、


何を取り入れ、何を取り入れないかを自分で考えていかなければなりません。


この「自分で考える」「自分で判断する」ということが大事であって、


それをしないということは思考停止に陥るということ。


私がよく言う「勉強したフリ」の状態に陥るということです。


私は去年一年間、毎週毎週Web上で生徒たちの勉強量をチェックし、そこにフィードバックをするということを行っていました。


後半期には、一人一人の一週間の勉強量もチェックしていました。


もちろんフィードバックもするわけですが、最初の頃はとにかく、この「判断」がみんなできないわけです。


1週間のうちに何をどれだけやるのか。どうやるのか。どういうで意識でやるのか。


想像以上に、これができない人が多い。


このとき、本人ができていると思っているケースと、できていないと自覚しているケースがあるのですが、


問題なのは「できている」と思っているケース。


自覚がないので自分だけの改善は難しい。


で、判断が少しずつズレていき、やれていないのにやれていると勘違いし、


結果が出ない、という状況が続くことになります。


正しい勉強のやり方が出来ているかどうかは、いつだって結果で判断します。


それは偏差値とかではなく、具体的にどんな問題が出来ていて、どんな問題が出来ていないか、という意味での結果です。


結果が出ないということはやはりどこに問題がある。


もちろん、勉強量の場合だってあるわけですが、そこも判断していかないといけません。


量が少ないのか、質が悪いのか。質が悪いとして、具体的に何が問題なのか。


私がやっていたことは、そこをまずは私が判断することで「判断の基準」を示し、その判断の基準を知ってもらうことで、


最終的に自分で判断できるようになっていくこと。


自立して自分で判断し、自分で問題解決できるようになってもらうことです。


自立して判断ができるようになれば、どんな状況にでも自分で対応できるようになります。


依存的に「やってもらう」「考えてもらう」という姿勢でいる限り、本当の意味で実力はついてきません。


これは受験だけでなく人生でも同じです。


私がとにかく重視しているのは、「自分で判断できる」「自分で考えられる」ようになること。


そうなったら、勉強テクニックなど自分で生み出せます。


一番良くないのは、テクニックを自分の状況に当てはめて応用する力がないのに、


勉強テクニックばかりを学んでしまって、「できているフリ」の状態になることです。


テクニックを学ぶことが悪いわけではありません。


ただ、もっと大事なのは、なぜそのテクニックが生まれたのか。


どういう意図で、何を目的としていて、なぜその方法が有効なのかという根底の部分を理解することです。


私はいつも、その根底部分を教えるということをやってきました。


この根底部分を理解しているから、判断がズレない。判断が正確になる。


勉強中に無数に訪れる判断の場で、ミスが減るわけです。


判断のミスが少ないことを要領が良いと言います。


気づかない内に判断のミスを連発している人を要領が悪いと言うのです。


ちょっと長くなりましたね。


とにかく今回伝えたいことは、こんな感じです。


自立して判断する力を養うことは、受験だけでなく人生において役に立ちます。


ぜひぜひ、受験を機会に身につけて欲しいと思います。


去年の指導を受けてくれた子の感想なんかもちょこっと載せておきます。この子たちも「判断」の部分をしっかりと意識して勉強してくれました。


「東北大法学部受かりました(;_;)


この1年受験コーチングプログラムに参加できて、学力だけでなく人間として大きく成長できました。


受験が終わった今、潤さんをはじめ支えてくださった周りのみんなにほんとに感謝しています。


大学生になっても志を高く持ち、外交官になるという夢を叶えてみせます。


潤さん、本当にありがとうございました」


「第一志望の京都大学工学部工業化学科に合格しました!


潤さんのおかげで、このプログラムのおかげで、充実した1年を送ることができました。


本当にありがとうございました。」


「大阪府立大学生命環境科学域獣医学類 合格しました!!


センターリサーチD判定の時はかなり動揺しましたが、最後まで諦めずにがんばってよかったです^ ^」


「昨日合格者発表があって、当初からの第一志望だった千葉大教育学部に無事合格することができました。


しんどいときに潤さんの言葉だったり他のプログラム生の存在が支えになってくれていました。


本当に感謝しています!


ありがとうございました(>_<)!」

毎日色々考えているのですが、やはり人が自分の望む結果を得られなかったり、そもそも「望めない」のは、


自分には「できない」という気持ちが強すぎるからでしょう。


何度言っても言い足りないほどに、これは重要な問題で。


昨日紹介した加藤秀視さんの「自分を愛する技術」には「想念」の問題として書かれていますが、


根本の部分で自分には「できない」という思いがあって、できないのだから望むことをやめよう、となるわけです。


実は今行っているプログラムでもそういう悩みを抱えている子もいて、


自分には才能がなくて、できることがなくて、人よりも劣っていて、平凡で。


そういう気持ちが強くありすぎ、それが事実だと思い込んでしまっている。


「劣っている意識」×「できない意識」=憎悪、攻撃、自責、他責


という方程式が成り立ちます。


どちらか一方ならそうはならないのですが、この二つが掛け合わさることでそうなってしまう。


昔はこういう方がいると、反応してしまう自分もいたのですが、最近はあまり反応しないようになってきました。


その人の奥にある「悲しみ」が見えるからです。


プログラム生にも、そんな風に「劣っている意識」「できない意識」を抱いてしまう自分に苦しんでいる人はいます。


しかし、それらは全て「思い込み」なんです。


自分の価値と何かができるできないをリンクさせすぎていて、人と自分を比べて、何かを持っているかどうかで自分の価値を判断してしまう。


そういう「思考の癖」がある。


で、その癖は外側から与えられたもの。


子供の頃からそうだったわけではなく、


例えば受験での失敗、恋愛での失恋、比較される環境、学校社会での人間関係、親からの愛の与えられ方、などなどの影響で自分が深く傷ついてしまった。


実はその傷も思い込みであるケースがほとんどなのですが、


その自分の中にある「傷だと思っているもの」が原因で、自分にはできないと思っていたりします。


その思い込みを手放していかないと、何をどうやっても変われないという状況が生まれます。


だから、今行っているプログラムでは、一番最初に「過去と向き合う」ということを行いました。


一旦「傷だと思っているもの」を自分のアイデンティティとしてしまうと、なかなかその人は変われなくなります。


もはや、その「傷を抱えた自分」「被害者の自分」がアイデンティティになってしまっていて、


その自分を変えるということは、「自分を失う」ということになります。


だから、その傷を手放そうとか、被害者の役を演じるのをやめようとか、そういう風には思えなくなってしまう。


手放せと言われれば言われるほどに、「反発」の気持ちが強まる。


なぜなら、それがアイデンティティだから。


そこにしか自分がないからです。


傷や、エゴや、思考を自分のアイデンティティとしてしまうことで、「不幸にしがみつく」状況が生まれます。


不幸を手放すということは、自分を失うということ。


自分を失うのは、最大の恐怖です。


だから、いつまで経っても変われないのです。変わりたいと頭で思っていても、変われない。


不幸なのに、不幸にしがみつく。


それは、思考と自分を一体化して、傷と自分を一体化して、エゴと自分を一体化しているから。


いくらテクニックやマインドを変えても、その一体化が行われている限りは、これまでの自分、過去の自分を手放すことはできません。


だから、「変われない」のです。


ごめんなさい、少し難しい話も出て来てしまいました。


今、プログラムで教えている内容の触り部分、という感じです。


長年ずっと考えてきて、色々と見えて来ました。


プログラム生の変化も、かなり大きくなってきました。もちろん個人差はありますが。


人は必ず変われます。


最後に、プログラムに参加してくれている方からのメールを紹介させていただきますね。


「今日、観たかった映画観に行きました!


潤さんもご覧になった、『青天の霹靂』という映画です。


今の自分、被害者ぶっている自分に気づきをくれました。


僕も主人公に似て自分の人生がうまくいっていないのを、親や環境など周りのせいにしていました。


あんな親だから俺がこうなんだとか。


あんな親だから、俺には他の人みたいに秀でた才能がないとか。


そういう風に自分以外のせいにしないと、今の不甲斐ない人生と辻褄があわないじゃないか。


だから、周りのせいにして自分を守らなきゃ。


他人と比べて、自分が劣っていることを確認しなくちゃ。


無意識のうちにそう思っている部分がありました。


顕在意識では、変わりたい、成長したい、人生を謳歌したいと思っていますが、


一方で変わらない、情けない自分でいることで得られるものに安し、飛び出すことが出来ませんでした。


でも、この映画はないものでなく、すでにあるものに気づかせてくれました。


本当に今週の音声ともろかぶりで内心かなり驚きました。


それは、親の愛です。


生まれてくる子供や妻ために、一生懸命働いている父親。


生まれてくる子供や夫のために、一生懸命痛みや病気闘う妻。


この映画のそういう場面をみて、ああ、子供が生まれるって大変なんだ、うちの親も苦労したんだなと色々してくれてたんだなと見えないものに気づきました。


子供を生むために、子供のために必死で頑張ること。これが当たり前なんかじゃないって思いまし

た。


物語の最後に、主人公がうまくいってないことの矛先をいつも親に向けていたのが、逆にそんな状態でも親の愛があるから生きていけると告白したシーンがありました。


いつも親のせいにしてたのとは、むしろ逆に、うまくいってない状態でも生きていけるのは親のおかけだと。


自分には何もないようでも、生まれた頃から親に注がれてきた、見えない愛があるんだと。


それに今日ちよっとだけ気づけた気がしました。


今は、気分が良くても、嫌なことがあれば、すぐ被害者に戻るのかもしれません。


それでもいい。どうせ、良くなる。


そういう気持ちで今はいます。


今日みたいに、ちょっとだけ成長を感じれて良かったです^^


これもカフェセッションで話を聞いてくれた潤さんや、プログラムの人たちのおかけです。本当にありがとうございます。」


3ヶ月目から、再募集もしようかなと思っているので興味ある方は情報をチェックしておいてください。

今日は、すごくオススメの本の紹介したいと思っています。


ただその前に、先日facebookに投稿した記事をブログでもシェアします。


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<打ち明ける>


今、自分のプログラムの参加者から毎日のようにメールをもらっている。


色々報告してもらったり、過去のことを打ち明けてもらったり。


もちろん、対面でも。その中で感じるのが、そうやって「打ち明ける」ことで、明るく軽くなる人が多いということ。


打ち明けて、それを受け入れてもらう。


その体験自体に価値があって、受け入れてもらう、許してもらうことで自分のことを受け入れ許すことにもつながっていく。


で、大抵の場合、自分だけで抱えているとそれがものすごく大きなものに感じる。


どうしようもなく大きくて、自分だけが苦しんでいて、自分だけが大変なような気がしてくる。


で、孤独になろうとしたり。


でも、話してみると案外そうでもなかったり、打ち明けることでその思いを手放せたりする。


最近よくオフ会やったりカフェで喋ったりしているけれど、密に関わり、その人が抱えているものをただ聞く。


そうやって話し、聞くということをすることで何となく殻に閉じこもり悶々としていた状態から抜け出すことができる。


結果、自分のことを受け入れられるようになり、責めることも減り、自分に自信も生まれてくる。


大事なことは、自分を受け入れてくれる人のいるところに身を置くこと。


そういう場にいるようにすること。


自分を作る必要のない人と一緒にいること。


作った自分を受け入れてもらったって仕方ない。


ありのままで、そのままで受け入れてもらうという体験が大事。だと思う。


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最後の部分が特に大事で、人はありのままの自分を受け入れてもらったときに本当の意味で「安心」を感じ、


自分を否定しなくなります。


自分を受け入れ、認め、自分でいいんだ、と思えるようになります。


そして、いつも言いますが、自分への接し方は他人への接し方なので、


自分を認めれば認めるほどに、人を認め、受け入れられるようになってきます。


己に向けた刃はいつしか人に向ける刃と化し、


己への愛は、人への愛となっていきます。


己への愛は「自己愛」のことですが、この自己愛について語った素晴らしい本が出版されました。


加藤秀視さんの「自分を愛する技術」という本です。昨日が発売日。


この本は、すでに私も読んだのですが、本当に今の世界に必要な内容について書かれた本だと思います。


この本が世の中に広まることで、多くの人が救われると心から思います。


私自身、加藤さんと関わらせていただき、加藤さんが行っている研修にアシスタントリーダーとして入らせてもらい、


自分自身の変化、そして「人を変える」ということがどういうことなのかを体感レベルで感じることができました。


今回の本、「自分を愛する技術」にはその真髄がまとめられています。


本当に、オススメの本です。


この本が世の中に広まり、自分を愛することに目覚める人が増えることを願ってます。


ぜひ、読んでみてくださいね。


大阪梅田紀伊國屋でもすでに陳列されていました。


自分を愛する技術


加藤秀視さんはテレビにも多数出演していて、Youtubeに動画がたくさんあります。


こちらから観られるので、興味がある人はどうぞ。


加藤秀視さんのYoutubeチャンネル


この本や本の内容についてはまた書いていきたいな、と思っています。

昨日は生まれて初めて生のボクシングを後楽園ホールで観て来ました。


日本チャンピオンの防衛戦。


本気の打ち合い、やばいっす。はじめの一歩を読みたくなりました。


面白いのは、本気で打ち終わった後なのに、対戦相手に本気で感謝しているんですよね。


ある意味、敵と戦ってはいるんだけど、自分と戦っている感覚があるのかもしれませんし、お互いの苦労を知っていたりするのかもしれないし、


対戦相手がいることで自分が強くなれたり、成長の喜びを感じられたりするということを体で知っているんだろうな、と感じました。


世界一のゲーマー梅原さんも言っていますが、大事なのは自己の成長。


対戦相手はある意味、そのために存在してくれているわけで、だからこそ感謝の気持ちが生まれてくると。


ボクシングというものに自分の人生の全てを賭け、本気で取り組んでいる人たちの「生」は刺激的なものでした。


今回はボクシングでしたが、こうやって新しい体験を色々していきたいと思っています。


ただ、個人的にはやはり「自分で何かをする」のが一番刺激的かなーなんて思ったりもします。


多分会場の中で一番熱くなれたのはボクサーであって、観客ではない。


観客は結局「見ている」だけで、それを「応援」することしかできない。


もちろん、それは楽です。緊張もいらないし、ただ刺激を受けるだけで、面白くて、別に自分の人生にはその結果は「関係ない」。


ボクサーからすれば生活や人生がかかった勝負。


それを観客は見ているだけです。


楽なのは楽なのだけど、得られるものもそれだけ少ない。


一時的には盛り上がれても、その後続かないし、何となく虚しさが残ったり。


緊張したり、失敗したり、恥をかいたり、上手くいかなかったり。


ステージに立てば、舞台に立てば、色んなことがあります。


だから、多くの人は舞台に上がることをやろうとしない。


安全地帯にいたいと思う。誰からも何も言われないように、無難に生きようとしてしまう。


で、いつまでも観客席側にいることを選びます。


もちろん、そこに良い悪いがあるわけではありませんが、


舞台に上がった方が様々な「感情」を感じることができるのは確かです。


感動して涙が流れたり、やってきて良かったと思えたり、本当に求めているものが手に入ったり。


観客席側にいつまでもいたのでは、絶対に手に入らないものがあります。


観客でいる選択をするのなら、諦めないといけないものもあります。


そして、その選択をしたのは自分。


手に入れない、という選択をしたのは自分。


舞台から去り、ステージから身を引いたのは自分。


全ては、自分の選択です。


良い悪いではなく、大事なのは自分は本当はどうしたいのか。


何を求めていて、どうなりたいのか。


その自分の本音から目を逸らさず、自分と向き合い、そう在りたいと思う在り方で生きることが大事なのだと思います。

今日はちょっとサッカー日本代表本田圭介選手について、少し取り上げたいのですが、


W杯直前のザンビア戦で、彼はようやく調子を上げてきた、という風に言われています。


それ以前、所属クラブACミランでは調子が出ず、地元メディアでは散々な言われよう。


ピッチを去るときにはファンからブーイングまで起こるほど。


周囲は散々に彼をこき下ろしました。


しかし、それでも彼は下を向かない。


ザンビア戦では、自らPKのキッカーを志願。迷わず。


あのメディアの状況の中で自ら志願するのって、相当キツいですよ。


あそこでもし外していたら、今とは全く違う現実になっていたはず。


余計にこき下ろされていたはず。


その危険があることは彼にも分かっていたはずで、分かっていながら蹴ることを選んだ。


また、どれだけ周囲の声が厳しいものになっても下を向かない。


それほど、自分を信じる力が強い。


よく「自分を信じろ!」ということが言われます。


で、よく「どうすれば自分のことを信じることができますか?」という質問が来るのですが、


信じるのに方法はありません。


信じるためには、信じれば良いだけ。


根拠なんかないんです。


本田選手にだって根拠はない。


「いや、今までの『成功体験』があるでしょう」


と言う人もいます。


しかし、それは信じた結果として後からついてきたもの。


もちろん、成功体験によって自信が強くなることはあります。確信も強くなるでしょう。


ただ、それは自分を信じているのではなく、結果を信じているだけ。


自分を信じるというのは、何もない生身の自分自身を信じるということであって、


何か根拠があるわけでもないのです。


人間の力が途方もないものであることを知り、自分の力、能力を知る。


自分にはすごい力があるのだと知る。


それを知らない、信じていないから、自分を疑ってしまう。揺らいでしまう。


もちろん、人にはそれぞれ得意なこと、不得意なことがあります。


本田選手のようなことを誰もができるわけではないかもしれません。


しかし、自分が心から望むこと。心の底で欲しているもの。


それは、実現させることができると私は信じています。


何かが実現しない一つの理由は、自分の心の底の望みを知らないこと。


人から与えられた夢や目標を持ってしまっていること。


勝手に体を動いてしまうような、強い衝動を感じるようなものに対してなら人は自分の力を最大限発揮できます。


ただ、その強い望みを抱けたり、本気で欲しいものを持つためには、実は「自分を信じる」ということが必要なんです。


でないと、望みを持てないから。


望みは別に無理に持つものではないし、なくても別にいいのですが、


自分を信じる心、自分にはできるんだという心があれば、人は自然に色んなことを求めるようになります。


望みがないことは別に悪いことではありませんが、もしそれが「自分を信じていない」ことから生まれているなら、


自分を信じる、自分にはできるんだと知ることで、勝手に色んな望みが生まれてきて、


色々行動しながら、希望を持って生きていくことができます。


今はまだ、できないと信じているだけ。自分には何かが足りない、と信じているだけ。


そう「信じている」だけであって、事実そうであるということではありません。


人の人生は、何を信じるか、で決まります。


本田選手は、どれだけ周囲の声が厳しくなっても、批判やブーイングにあっても、


自分を信じることを選択しています。


これまでも、その選択をしてきたからこそ、彼の今があるのだと思います。


自分はどうするか。


自分はどういう選択をするのか。


その選択が、毎日の行動を変え、これからの人生も変えていきます。

昨日配信したメルマガを載せておきます。


池田です。


前回のメルマガに本当にたくさんの方から返信をいただいたのですが、


やり取りの中でいただいた一通のメールを紹介します。


==============


失敗して誰かに馬鹿にされたり、非難されたり、笑われたり、


もしくは、誰かを傷つけたり迷惑を掛けたり、


そんな経験も少なくはなかったからすごく恐れています。


去年の潤さんのブログやメルマガに出会う前は、


自分よりも他人を大切にしなければならない


他人を優先し、自分は後回し


むしろそれが出来なければ、駄目人間


ただの自分勝手な奴


と思って、できるだけ自分が嫌な事でも他人に合わせる。


それが他人への常識と思っておりました。


自分は自分 他人は他人とかいってたら社会では生きられないよとか大人や周りに言われた事もあり、


きっとその時の自分はほぼ自分を失ってて、


人の事はよく嫌い、誰かの評価や社会の評価ばかり求めていました。


例えば、社会に評価される為にとりあえずたくさん資格取ろう、とかです。


そう まさに自分ではなく、他人の価値観で歩いていました。


自分の道を自分では左右出来ませんでした。


そして今年になり 僕はYouTubeが好きなので、


その時は誰かの評価の為や自分の適当な気持ちで大学行こうかとも悩んでいました。


そんな時に受験関係の動画をYouTubeで探していたら潤さんの動画に出会って、


闇の中に居た自分に光が訪れて、自分の世界や人生の方向が大きく変わりました。


今振り返ると本当は凄く自分で自分を苦しめてたんだなと思っております。


自分が選ぶ事が自分にとって良い事だと思えるようになり、


他人がどう思うかではなく、自分がどう思うかで行動しております。


そんな生き方をしていれば今でもお前の為に言ってんだと言われ、色んな事を叩きつけられます。


時には前の自分に戻ったりします。


だけど今の所、今年はほとんど自分がどう思うかで行動をできたと思います。


もっともっと自分を持ちそれを継続していきたいです。


今自己肯定ができ、感じてる事です。


いつか潤さんのセミナーにも参加したいです。


==============


最近はこういったメールを、紹介しきれないほどたくさんいただくようになりました。


それだけ多くの人が、自分を大事にして生きることがなかなかできていないのかもしれません。


しかし、自分を大事にできなければ本当の意味で他人を大事にすることもできません。


自分を愛せなければ、他人も愛せません。


自分を傷つけていれば、いつか他人も傷つけることになります。


自分を責めていれば、他人を責めます。


人は自分に許していることしか、他人に許すこともできません。


だから、まず見直すべきは自分との関係。


誰かを責めたくなってしまったときは、


自分を責めてやいないか?


と向き合ってみる。


自分を向き合うことをしなければ、根本的な解決には成り得ません。


また、


7月22日に発売される本では、


「自分の思いに従って生きる」という部分について、かなり熱く書かせていただきました。


世の中が勝手に作った正解や常識や「こうすべき」というもの。


そういったものに自分を無理矢理合わせようとするから、苦しくなる。


私はずっと「ルートやレールに縛られる必要はない」ということを言ってきました。


私自身、そうやってルートやレールというものからは離れて生きています。


無理矢理離れろ、ということではなく、自分の思いに従った結果として離れることを怖がるな、ということです。


私は自分の思いに従って生きたいと思ったし、


今思うのは、そういう風に生きることが勝手に、結果的に誰かのためにもなっているということ。


ルートやレールから外れるということは、別の言い方をすれば、


世の中が勝手に決めた「正解」には従わない。


自分が決めた「正解」に従う。


ということを意味します。


もしも誰かが決めた正解に合わせようとすれば、


自分はその「正解」からズレているのではないか。


自分は「間違って」しまったのではないか。


そういったことをいつも気にするようになってしまいます。


受験勉強時代から「答え」を誰かに与えられ、その答えを「探す」ことが当たり前だった私たちは、


いつだって自分が「正解」かどうかを気にしています。


「間違う」ことを怖れ、何が正しいか、何が正解かを誰かに決めてもらおうとします。


誰かに依存し、依存した分だけ、問題をその人のせいにし、押しつけ、


被害者の役を演じます。


しかし、何が正解かは自分で決めるもの。


誰かに正解を決めてもらって生きてきた人、ルートやレールに従うだけだった人は、


その正解を他人に押し付けます。


「お前のためを思って」


と言って、自分のエゴ、誰かに決めてもらった答えを押し付けます。


しかし、そうではなく、


一人一人が自分で「答え」を見出す社会になれば、


もっと私たちは自由に生きることができます。


自分の「答え」を尊重すると同時に、


他人の「答え」を尊重することができます。


なぜなら、唯一普遍の「答え」などなく、それぞれが、それぞれの答えに従って生きていけばいい、と思えるから。


自分のエゴを無理矢理他人に押し付けることもなくなります。


だから、自分のしたいことができます。


周りを気にせず生きることができます。


自分を無理矢理押し殺す必要がなくなります。


自分に従って生きることができるようになります。


世の中から悲しみが減り、喜びが増えます。


今回の本を通じて、少しでもそういう風になっていけばいいな、と思って書かせていただきました。


私にできることは、本当に小さなことです。


それは知っています。


もっともっと力をつけていかないといけません。


様々な事情を抱えた100人の受験生がいたとして、100人全員をネット上の指導で志望校に合格させること、


現実問題として、今の自分には難しいです。


それは単純に、私の力不足でしょう。


こんなことを言うのは初めてですが、


自己愛の概念を知らない頃、私はいつだって自分を責めていました。


今でも、そんな自分が顔が出します。


しかし、もうそんな自分を責めてしまう自分と一生付き合っていく覚悟はできています。


合格できなかった子たちがもし私を責めたとしても、それは当然です。


全ては、私の責任だと思っています。


でも、もちろん自分がそれをやると決めたから、やっているだけ。


それは私にとっての闘いであって、


自分の力をつけることは、やめるわけにはいかないものなのです。


できることを、できるだけの力で。


自分にできることを、力を蓄えつつ、これからも続けていきたいと思ってます。


送ってくださるメールは全て目を通しています。


いつもたくさんのメール、ありがとうございます。


池田 潤


~編集後記~


今日、サッカー日本代表のザンビア戦を観ていました。


31歳の大久保選手が大活躍だったのですが、


彼を見ていると、誰もが「エネルギー」を感じると思います。


クールに、カッコ良く、という印象ではなく、


内側から溢れてくるエネルギーを全面に出している感じ。


そのエネルギーが周囲に影響を与える。


何か、元気になったり気合いが入ったりする。


そこにいるだけで。


もちろん、全ての代表選手が気合いも入っていて、エネルギーもあるのですが、


彼から発せられているエネルギーはすごくて、


実際彼が入った後半から日本代表は元気を取り戻していきました。


前半は0点で、後半は4点。


彼自身、決勝点となるゴールを決めています。


もちろん、全てが彼のおかげということはないでしょうが、それでも大きな影響力があったな、と思うわけです。


たった一人の人間が入るだけで、全てが変わってしまうことがあります。


世の中の一人の人間が愛とエネルギーに溢れた人間になるだけで、


ものすごく影響力があります。


そんな人が増えていくと、多分、世の中から悲しいことも減っていくのだろうなと思います。


それでは、今日はこのへんで。

よく言っていますが、私は聖人君主でもなければ完璧な人間でもありません。


できないこと、苦手なことは山のようにありますし、


頭も良くないし、背も低いし、ダメ人間な一面を持っています。


いつも、どこまでいっても自分は凡人である、ということをいつも痛感します。


昔は、そんな自分が許せなくて、必死になって頑張っていました。


自分のことを愛せず、完璧になれば愛せると思っていました。


しかし、それは全くの誤解でした。


今は、完璧であろうとは思いません。


それは向上しないということではなく、受け入れるということ。


受け入れた上で、前に進むということ。


自分が完璧でなければ、と思っているときは、人にも完璧であることを要求します。


誰かがミスをしたり過ちを犯すと、執拗に責めたくなり、非難したい衝動に駆られてしまいます。


そして、責めれば責めるほどに、自分の首を締めることになります。


なぜなら、自分にもそれを許すことができなくなるので、どんどん「完璧でなければ」と思い込むようになるからです。


自分に許していないことを、人は人に許すことはできません。


自分が不完全であることを許していない人は、人が不完全であることを許せません。


しかし、人間はどこまでいっても不完全で、どこまでいっても人間です。


誰だって、できないことがあったり苦手なことがあったり、ミスを犯したりします。


それが人間というものです。


そういう自分を認め、許すことができる人は、他人を認め許すことができます。


私たちはどうしても被害者意識を持ち、問題の所在を自分ではなく他人に置いてしまうのですが、


人を責めたくなるのは、いつも自分を責めているからです。


そして、責めているうちは自分を愛せず、人を愛することもできません。


完璧な自分しか愛せないと思い込み、その自分への接し方がそのまま他人への接し方になるからです。


自分を認め、許し、愛することは、そのまま他人を認め、許し、愛することにつながります。


いつだって私たちは被害者ではなく、自分で自分の世界を創っています。


そのことに気づいている人と、気づいていない人がいるだけ。


自分は完璧ではないと自覚し、そんな自分を認め、許し、


その上で自分がしたいことをする。楽しいと思えること、喜びを感じること。


心からそうしたいと思うことをやればいい。


完璧でなければやりたいことをしてはいけない、なんていうルールはありません。


不完全な自分を受容し、不完全な他人を受容し、生きていけばいい。


そうすれば、もっと楽に、もっと充実感を持って日々を過ごせると思います。