よく言っていますが、私は聖人君主でもなければ完璧な人間でもありません。
できないこと、苦手なことは山のようにありますし、
頭も良くないし、背も低いし、ダメ人間な一面を持っています。
いつも、どこまでいっても自分は凡人である、ということをいつも痛感します。
昔は、そんな自分が許せなくて、必死になって頑張っていました。
自分のことを愛せず、完璧になれば愛せると思っていました。
しかし、それは全くの誤解でした。
今は、完璧であろうとは思いません。
それは向上しないということではなく、受け入れるということ。
受け入れた上で、前に進むということ。
自分が完璧でなければ、と思っているときは、人にも完璧であることを要求します。
誰かがミスをしたり過ちを犯すと、執拗に責めたくなり、非難したい衝動に駆られてしまいます。
そして、責めれば責めるほどに、自分の首を締めることになります。
なぜなら、自分にもそれを許すことができなくなるので、どんどん「完璧でなければ」と思い込むようになるからです。
自分に許していないことを、人は人に許すことはできません。
自分が不完全であることを許していない人は、人が不完全であることを許せません。
しかし、人間はどこまでいっても不完全で、どこまでいっても人間です。
誰だって、できないことがあったり苦手なことがあったり、ミスを犯したりします。
それが人間というものです。
そういう自分を認め、許すことができる人は、他人を認め許すことができます。
私たちはどうしても被害者意識を持ち、問題の所在を自分ではなく他人に置いてしまうのですが、
人を責めたくなるのは、いつも自分を責めているからです。
そして、責めているうちは自分を愛せず、人を愛することもできません。
完璧な自分しか愛せないと思い込み、その自分への接し方がそのまま他人への接し方になるからです。
自分を認め、許し、愛することは、そのまま他人を認め、許し、愛することにつながります。
いつだって私たちは被害者ではなく、自分で自分の世界を創っています。
そのことに気づいている人と、気づいていない人がいるだけ。
自分は完璧ではないと自覚し、そんな自分を認め、許し、
その上で自分がしたいことをする。楽しいと思えること、喜びを感じること。
心からそうしたいと思うことをやればいい。
完璧でなければやりたいことをしてはいけない、なんていうルールはありません。
不完全な自分を受容し、不完全な他人を受容し、生きていけばいい。
そうすれば、もっと楽に、もっと充実感を持って日々を過ごせると思います。