受験コーチ池田潤が教える参考書学習法 -12ページ目

受験コーチ池田潤が教える参考書学習法

‐志望校に合格する勉強法と思考法‐

勉強というと、ネガティブなイメージを持っている人が多いものですが、実はそんなに悪いものではありません。


というか、メルマガに書いたのですが、愛すべき目標があって、その目標を叶える手段なわけですから勉強だって愛すべきものなわけで。


本当はね。


だけど、たまにできないことがあるとかそのせいでイライラするとかで、勉強を嫌いになってしまう人も多いわけで。


ただ、喜びを見出そうと思ったら見出せます。実際、上手くいっている人はその勉強の良い部分に目を向けていて、そこに関心があるんですよね。


私だったら、数学でも現代文でも英語でもそうですが、問題と格闘することが好きでした。


考えて答えを導き出すっていうのはゲームみたいなもので。そこに単純に楽しさを見出してもいいじゃないか、と思っていました。


どうせやるんだったらね。


前にも言いましたが、人生はいつだって本番。勉強しているときだって本番を生きているわけです。


で、別に大学なんて入ろうと思えば入れるわけですから、わざわざ難しい大学を選んだのであればそれは自分の意志。


自分で選んだもの。


なのに、なぜかその自分で選んだ勉強を憎んでいたりとか。


本当はやらなきゃいけないことなんてないんですよね。だって、やりたくないんだったら適当な大学に行けばいいんだから。


大学受験だって、絶対にやらなきゃいけないものでもないし。やりたくないんだったらやめてしまえばいいんです。


それでもやめないなら、それでもやるというのなら、それは自分の意志ですよね。自分でやると決めているわけです。


じゃあ、楽しんでやった方がいいに決まっています。


やらされているわけでもなく、やらなきゃいけないことなわけでもないのに、わざわざ自分でやると決めたのなら、それは楽しんだ方がいい。


自分の選択なんだから。


嫌々やっている、ということの方がおかしいんです。嫌ならやめなよ、という話なんですから。


嫌ならやめればいいのにやめないのなら、やりたいのでしょう。


じゃあ、黙ってやればいい。いちいち文句を言わず、やればいいんです。


で、やるんなら楽しんでやったらいい。


楽しみを自分で見出していったらいい。


人生は自分で選択で、自分で選んでいます。


被害者意識なんかいらない。やらなければならないことなんて、本当はない。全部、自分で選んでいる。


自分で選んでいるのに、選ばされたと思いたいだけ。選ばされたと思えば、何もかも誰かにその責任をなすりつけられるから。


自分のせいじゃない、と逃げられるから。


そうやって考えているから、自分の人生に対して被害者ぶっているから上手くいかないんです。


自分の人生を創っているのは自分。


そのことを深く自覚することから始まるのだと思います。

この間、4月だからって油断しちゃダメだぜ、という記事を書いたのですが、


そうは言っても、目標がセンター試験でどうこうとかになってしまうと、どうしても遠すぎて実感が湧いてこない。


だから、目標を直近の模試にフォーカスする、というのも良い方法です。


もちろん、最終目標は試験本番で点数を確保すること。それは変わらないのだけど、そのためのやる気を維持する意味でも、小さな目標を作る。


5月でも6月でもいいですが、オススメなのはちょっと無理めの目標を掲げること。


その方が人間、動きやすいから。


今のままでも大丈夫、という目標設定だと今のままでいいんだから人は動かない。


受験のような典型的な目標達成のような場合には、設定をどこにするかということも大事なことです。


で、ポイントとしては、無理めな目標を立てること。


時期的にも、点数的にも。


4月というこの時期から、フォーカスが来年のセンター試験などにあると、どうしたって「まだいいか」なんて気持ちが出てくる。


一年間そういう気持ちが出ないようにするために、直近の目標もちゃんと作っておくことが大事。


で、もっと言えば、一日の目標も大事ですね。


これをやるぞ、というものを用意する。


朝起きたら何をやるのか明確に書き出す。ここが明確じゃないのがかなりヤバイです。というのは、人は楽な方に流れちゃうから。


何をやるか超具体的に決めなければ、そのときの気分に流されるんですよね。


だから、結局、一日が終わったときにあんまりやれてないことに気づく。


で、やれていない自分に不満が残る。結局、幸福感もあまりない。


勉強するぞ!したい!と思っている人にとっては、勉強することが幸福につながるんです。


終わった後はスッキリするし、やり切った感がある。


その方がよっぽど幸せであり、満ち足りた気分になる。やり残しがある、力を発揮しなかったという状態の方が不幸感が強くなるんですよね。


一時的に大変だ、と感じることもあるかもしれませんが、それが結局h満ち足りた気持ちにつながることを知っておいた方がいいですね。


バリバリ勉強して、休むときは思いっきり休んでしまえばいい。集中力を発揮することで勉強も出来て、休みも取れて、という状況を作ることができます。


となると、集中力は大事ですね。


人生を楽しむという意味において大事だと思います。


一日のやることを決めて、さっさと集中して終わらせて、後は休んでもいいわけで。


じゃあ、心のモヤモヤはなくなります。


力を使い切っていないから、モヤモヤして、自分のことを嫌いになってしまったりするんです。


使い切ってしまったらいい。


使いって、疲れ切ればいい。


で、寝て、回復する。


そうやってレベルアップしていく。それって結構楽しいですよ。


お試しあれ。

勉強するときに忘れてはならないのは、「結局、試験本番で合格点を確保すればいいのだ」という目的です。


この目的を見失わないことが、「効率的な勉強」の一番大事なところ。


多くの成績が上がらずに苦しむ受験生は、この目的を忘れ、手段を目的化してしまいます。


その典型的な例は、「授業」ですよね。授業を受けることはあくまで手段でしかないのですが、


授業を受ければ合格する、という風に考えてしまう人も多い。


そうなると、大量の授業を取っているのだけれど、勉強時間もかなりたくさん確保しているのだけれど、


なかなか成績は上がってこない、ということが起こります。


授業を受けるのであれば、そこで何が学べたのか、何を身につけることができたのか、ということを考える必要があります。


振り返ってみると、そこで学んだことが案外少ない、ということだってあり得ます。


手段は授業だけではなく、私が勧めている参考書を使って自習だってあるわけです。


自習をして自分で自分の穴を探し、埋めていき、演習を重ねることでできる問題を増やしていく。


そして、最後の目的である「試験本番で合格点を確保する」ことを達成していけばいい。


目的を徹底的に意識して、その目的に近づいているかを考えながら勉強する。


それが、「実質」を意識した勉強。私が口を酸っぱくして何度も言っていることです。


とにかく、形式ではなく、実質を意識する。


1時間勉強したなら、その1時間で何を学べたのか。どのくらい進んだのか、ということも考えないといけません。


よく言いますが、1日12時間勉強したって、集中していないなら意味ないし、自分の頭で考えてない

なら意味ない。


形が大事なのではなくて、実質が大事。


そのことを肝に命じて欲しいですし、これはいくら言っても言い足りないくらい重要なことなんですよね。


実際、何度も言っていますけど。


ホント、このことを意識しているかどうかで全然結果が変わってくるんですよね。


これ、受験だけでじゃなくて人生でも一緒だと思っているんです。


本当に大事なことって何?


自分の目的って何だろう?


そういうことを考えて、自分の目的を見失わないようにする。


仕事でも人間関係でも。


人間関係だったら、お互いに愛を感じて、楽しんで、幸福感を感じることが大事なはずなのに、


なぜか相手を評価して、値踏みして、否定して、ぶつかって、憎み合って。


本来の目的、本当に大事なことは何なのかということを忘れないでいるだけで、全然違った毎日、人生になると思います。


さて、私は今日から東京へ。


今回はかなり長い滞在になる予定なのですが、何かが起こる気しかしません。笑


楽しんできます。

先日、「結局、全てはギャグになる」という記事を書いて、その記事と考え方は一緒なのですが、


私たちはどうせ死にます。いつか終わりが来る。


で、このいつか終わりが来るということが絶望になる人もいるのかもしれないのですが、私は全くそうは思わなくて。


いつか終わりが来るから、好き勝手に自由に、奔放に生きられるわけで。


終わりがあるから今が輝くわけで。終わりがなかったら、何か人生がつまらなくなると思うんですね。


逆に。


まあ、いざそのときが来たら相当ビビるでしょうけれど。ただそれはどうでも良くて、今どういう気持ちになるか、そう考えることで勇気が湧いてくるかが重要なわけで。


で、いつか終わりが来るんだと思ったら、悩みが悩みじゃなくなっていくというか、笑い飛ばして生きられるような気がするんです。


ある意味、自分のことも笑い飛ばしてしまえばいい。


自分の弱さとか、ダメさ加減とか、私も色々ダメなところだらけですが、今は何かそういうのも笑ってみてる自分がいます。


かわいいやつだな、と思っています。笑


で、少し話を変えて、


いつか終わりが来るとすれば、あなたはこの人生で何がしたいですか?


何を体験したいのか?何を感じたいのか?


どんな人と一緒にいたいのか?


これ、一旦立ち止まって考えないと、どんどん日常に流されて行くし、気づけば年を取ってます。


ホント、年々年を取るスピードは早まっていきますね。まだ25ですけど、もう25かという感じだし、いつまでも若いとは言えなくなってくる。


で、若いときしかできないこと、感じられないこと、青臭い思いなんかもあるわけで。


もっとバカなことを考えて、後先考えずに行動したいな、なんて思ってます。


今が一番若いんだし。


人生は、体験するためにある、と今は思っているので、色々と体験しないと損。


明日から東京に行って、その次の日からは熱海へ。


完全非日常に突入していきます。かなり楽しみです。色んな人に会って、色んな体験をして、色んな

ことを感じてきたいと思います。


それが自分にとっての「生きる」ということだから。


メルマガに書きましたが、「赤と黒」で有名なスタンダールのお墓には、「書いた 愛した 生きた」と書いているそうです。


私も、そんな風に生きます。


真似しているのではなく、スタンダールの価値観と私の価値観が似ていたということ。笑


いや、ホントにね。


あなたはどうしたいのか。どう生きたいのか。何を体験したいのか。


自分と向き合って考えてみてください。

私たちはどうしても、何かが起こると「判断」をしようとします。「仕分け」と言ってもいいかもしれません。


「良いこと」と「悪いこと」に分けて考えて、わざわざ自分を苦しめてしまったり。


でも、本当は全てのことは中立で、そこに意味付けをしている人間がそこにいるだけなんですよね。


例えば受験勉強で言えば、できない問題が見つかることは素晴らしいことであり、本来の目的からすれば「喜び」なんです。


だって、できないことをできるようにしていくからこそ成績は上がっていくわけですよね。


できることはできるのだから、できることをやり続けてもそれは現状維持以外の何物でもなくて。


でも、「できるが良いこと」「できないが悪いこと」と私たちは刷り込まれてきている。


だから、できないことがあったときに、そういう問題に出会ったときに、「悪いことが起こった」と捉えて落ち込むわけです。


ホントは、それで成績が上がっていくのに。本来の目的は達成されているのに。


過去のデータから「良いこととは何か」「悪いこととは何か」を決められてきた。その結果、物事の本来の姿を見失っているわけです。


これは受験勉強の話だけではありません。


あなたが嫌っている自分のある部分は、本当に嫌うべきものなのでしょうか?本当にそれはダメなんでしょうか?


なぜそれがダメで、なぜそんな自分を嫌ってしまったのでしょうか?


いつからか、そういった自分を嫌うように刷り込まれてきてしまっただけなのでは?


あなたが「あれがなければ」とネガティブに捉えていることは、「あれがあったからこそ」とポジティブに捉えることができるのではないでしょうか?


事実は事実でしかなく、そこには意味はありません。私たちが勝手な意味付けをし、勝手に苦しんでいるだけなんです。


そのことが分かるだけで、世界は変わって見えるはず。


受験勉強だって、もっと難しい問題に挑んでいこうと思えたり、できない問題に出会ったときにいちいち落ち込まないはず。


その姿勢、その心の「在り方」が、成績を上げることにもつながっていくわけです。


私がやりたいことは、そんなことを伝えていくことだったりします。


物の見方を変えることで、人生はどんどん良くなっていきます。

何か一歩が踏み出せない、前に進めない、取りかかれない。


そういうときの心のハードルでよくあるのは、「完璧にしなければならない」という気持ちです。


素晴らしいもの、満足のいくものを最初から作り出さないといけないという気持ち。


この気持ちがあるから、できないことを怖れて一歩を踏み出せずにその場に留まってしまうわけですね。


ゲーテも「大作を書こうとするな」と言っていますが、おそらく、そうすると書き始めるということができず、結果的に大作を書くこともできないからなのだと思います。


ヘタクソでもいいから一歩を踏み出すこと。とにかく進んでみること。経験してみること。


そこで感じることがあるはずなんですね。で、もし間違えたらそのときは修正していけばいい。


いくらでも修正はできるし、失敗したっていいんだから。


最初から上手くいくことばかりではなくて、というか上手くいく必要もなくて、


もっと言えば、大きく見れば上手くいっていないことなんかないわけで。


そういう気持ちでいることです。


正解か不正解か、という世界ではなくて、何をやっても正解だという世界。少し違う話かな、これは。笑


ただ、そういう心で生きていけばもっと生きることは楽しくなります。


人生に無駄なことはなく、そこには学びや気づきの機会があるだけです。


踏み出さないで苦しむことにもまた意味があり、違う方法を試していいんだということを教えてくれているんだと。


私なんかもそうですが、ブログやメルマガを書くとき、あんまり何も考えてないんですよね。


「こういうことを書こう!」と思って、出て来た言葉を書く。


「すごいものを書いてやるぞ!」と思うと、とたんに手が止まるんです。最初から大作は書けない。


すごいものは結果的に生まれるのであって、なかなか意図的に生み出せるものではないというか。


こういうことを書きたい、という気持ちがあって、どうすれば伝わるだろうと考えて、結果的に思考を巡らすようになって、その結果良いものが出来る。


私の場合はそんな感じなんですね。


受験勉強でも何でも同じですが、あまりにも完璧にこなそうとすると、手が止まります。前に進めなくなります。


それだったら、不完全でも前に進んだ方がいいと思うのです。前に進むことこそが、完全に近づいていくことなのだから。


考えすぎてしまう人は、まずはとにかく動いてみること。一歩を踏み出してみること。


動いてから考えること。


それを意識するだけで、変わってくると思います。そして、動いたことによって心が軽くなっていることも感じるはずです。動きがあると、心は軽くなります。


ぜひ、試してみてくださいね。

失敗するのが怖い、恥をかくのが怖い。カッコ悪い姿を晒すのが怖い。


そういう気持ちがあるがゆえに、チャレンジできないことがあります。


受験勉強で言えば、模試を受けるのが怖いとか、演習をするのが嫌だとか。結構、そういう人も多いんですよね。


それがなぜ怖いかというと、ありのままの自分を受け止められない、と感じているからです。


幻想の中にいれば、自分は強いとか、すごいとか思うことができる。


しかし、その自尊心はすごくはかないもので、自分を支えるには足らない、すぐに崩れてしまうものだと自覚している。


そうであるがゆえに、現実や、実際の自分、ありのままの姿を見ることができない。見たくない。


だから、カッコつける。強がる。プライドが高い。劣等感も強い。他人をバカにする傾向がある。


失敗していない、傷のない自分だったら受け入れることができるけれど、そうでない自分は受け入れられない。


これは自分を愛していないことから来るわけですが、それは結局、そういう他人を受け入れることもできないことを表しています。


で、そういう人にオススメする考え方が、「結局、全てはギャグになる」というもの。


過去の失敗。いや、過去の「失敗だと思っていること」だってギャグだし、深刻になるものではなくて。


過去を深刻に考えている自分がいるだけで、その過去自体に意味はありません。


全ては自分がどう捉えるか。


そして、過去の失敗を深刻に捉えているからこそ、今チャレンジができないんです。


今、怖れを感じているんです。


例えばよくある相談ですが、一度受験で不合格になった人が、次の年の受験のときに「同じことが起こるんじゃないか」と不安になったりします。


去年の受験の結果は全く今年の受験には関係がないし、因果関係なんか存在しないので、


「あ、全く関係ないんでご安心を」で終わりなのですが、人間というのはそういうもの。


過去を思い出して未来を想像するんです。


そのとき、過去の記憶に深刻な意味付けをしていると、未来を怖れるようになります。


逆に、去年の受験で学べたおかげで今年は受かる、と考える子もいます。


全ては、過去にどういった意味付けをしているか、です。


傷なのか学びなのか。それとも、ギャグなのか。


ギャグというのは一つの比喩みたいなもので、「深刻にならなくていいよ」という私の気持ちを込めた言い方です。


ギャグって言ったら、何か深刻に受け止めず、笑い話として肯定できそうですよね。だから、そういう言い方をしている。


で、無駄に過去に支配されなくなったら、もっと明るい未来が描けるし、もっと自由に発想して、自由に生きることができます。


そして、これからどんな失敗をしようとも、それはギャグであり学びであり、別にいいんだと思える。


そう思えたとき、自分がやりたいことを好き勝手にやる人生も、実現しているんじゃないかなと思います。

人間が基本的に求めているもの、それは他者との関係性であり、愛だと思っています。それが基本であって、それがあるからこそ満たされながら行動し、幸せから成功がやってくるという循環が生まれる。


ただ、多くの場合、その基本部分がない、もしくはそれが大事だと気づいていないがゆえに、他のものを求めるようになります。


それが名誉だったり地位だったり富だったりするわけですね。よく、成功した人が幸せじゃないみたいな話がありますが、あれは半分本当で、半分は嘘でしょう。


愛が大事だと気づいている人は成功したらさらに幸せになっていきます。より多くの人に愛を与えられ、愛を受け取るようになるからです。


逆に、愛が大事だと気づいていない人は、自分の満たされない感情を愛以外のもので満たそうとします。


権力を行使することだったり、相手を支配したり、攻撃したり。先ほど挙げたものもそう。


その結果、恨みを買ったりするようになるし、自分の心も本当に大事なものがないわけですから満たされることがありません。


そこで大きく人生が分岐していくわけです。


本当に大事なことは何なのか。その問いを自分の中に持ち、迷ったときはその大事にしていることを大事にすること。


大事にできる選択をすることが大事だろうと思います。


例えば受験にしてもそうで、自分への愛があれば志望校の選択を間違えることはありません。


自分が大事にしているものを大事にできる大学、学部に行こうと思えるからです。


また、自分に期待できるし信頼しているので、より上を目指そうとだって思える。自分に必要な、自分にとって大事なことを大事にできる大学の中で、より良い大学を選べる。


しかし、自分を愛していない場合には、他人に見せつけること、他人に愛されること、評価されることが「第一」になってしまう。


他人に認められたいとか、愛されたいとか、そういう気持ちは誰にでもあります。それが悪いと言っているわけではないのですが、


それが行動や選択の際の「第一優先順位」になると、少しそれは違うのかな、と。


ある動機によって行われた行動によって、その動機はさらに強められます。


人の目や評価、認められるかを気にした選択をすることで、より人の目を気にし、認められること、愛されることを優先する人間になっていくわけです。


そうなると、心穏やかに生きることは難しくなってきます。


自分を愛すれば、そういうことに対する欲求が減っていき、ただ自分が好きなことがしたい、少しでも誰かのためになれたら嬉しいという欲求が増えていきます。


そのとき、自分の人生を生きることができるようになるわけです。愛はスタートであり、そしてゴールでもあります。


色々、受験生の問題を考えていく中で、そんな答えに到達するようになりました。


あなたは本当はどうしたいのか?あなたが本当に欲しいものは何か?本当に大事なことは何なのか。


そんな問いを、自分の中に持つと良いかもしれません。

今日も朝からカフェに来ております。

カフェに来ないと一日が始まらないというか、もはや生活習慣になってしまっている状態です。


で、ここのところ少し忙しかったのと、これから忙しくなるのとで、ここ数日はかなりゆったりしていました。


映画を観たり、本を読んだり、考えたり、ボーっとしたり。


実は明日は温泉にも行きます。


張りつめて、ゆっくりして、また張りつめる。このメリハリを取っている感じですね。


ずっと張りつめていると続きませんし、ゆるみっぱなしだと退屈して面白くなくなってしまう。


張りつめて、ゆっくりしてのを繰り返していくんだろうな、と思います。


これ、勉強する際にも大事なことです。


勉強する、休む、もしくは体を動かす。このメリハリをつけることが大事ですし、


勉強の中身でもそう。


ずっと思考系の勉強をするのではなく、思考して、暗記して。とか、思考して、機械的な作業をして、とか。


読む勉強をしたなら、次は書く勉強をする。音読する。


そうやってやり方をちょこちょことそのときの自分に合わせて変えていくんですよね。


時間帯によっても変えます。私の場合は、午前中は思考系で、その後からは暗記や機械的な作業を入れていく。


自分の状態に合わせて、そのときのベストの勉強を当てはめていく感じ。


そうすると、勉強を継続できるようになってきます。同じことを続けるのは退屈なものですから、何かしらの刺激を意図的に自分に与えていくことが大事なんですね。


今でもその習慣は続いていて、ブログの更新なんかはほとんど朝ですね。


つまりは「思考系」です。書くのはホントに頭を使いますから、そういうのは出来る限り朝行う。


午後に行なってもよいのですが、私の場合は14時~17時が最も集中しにくい時間帯なので、可能な限り書かないようにしています。


質にも差が生まれてしまうからです。


もちろん、書けることは書けるわけですが、質が下がってしまうのは良くないわけで、これは勉強でも同じ。


私の場合は、ということにはなりますが、午前中にやっていた数学の勉強を午後にすることもできました。


一応は。


しかし、集中できないから無駄な時間がかかってしまったりするわけですね。


本当だったら5分で終えられるものに20分かかったり、本当は解けるものが解けなかったり。


理解するのにも時間がかかってしまう。


そーいうのは、「実質」を重視する私としては耐えられないわけです。笑


勉強しているかどうかではなく、頭に入っているか、を重視するわけですから、そういったところにはすごく敏感。


というか、受験生は敏感にならないといけません。


勉強が形だけになってしまっていないか、きちんと頭に入っているのか。


あなたがあなた自身の状態をチェックして、必要なことを必要なときにやれるようになること。


そういったことを意識できる自分になっていけば、どんどん勉強の質も上がっていきます。

勉強に取り組むことができない、最初の一歩が億劫。勉強以外でも、何かに取り組むのが面倒くさい…


そういった気持ちになることはあると思います。


何度も言いますが、人間は基本的に変化することが嫌なので、何か行動を変えるというのにはエネルギーを使うわけです。


ただ、「好き」を根本動機にしたものであれば、エネルギーを消費するわけでもなく取り組むことができるので、


最強なのは「好き」とか「楽しい」を動機にして行動すること。


もっと言えば、「好き」「楽しい」を動機にして人生を生きることです。


ただ、勉強をしていると、苦手な科目であったり、理解しにくいこともあったりして、


必ずしも「好き」「楽しい」を動機に勉強することができないときがあります。


そういうときは、どうしたらいいのでしょうか??


それは、億劫であることを受け入れることです。


少し話が変わるようですが、つながっていくので読み進めて欲しいのですが、


何かにチャレンジすることができない人の大きな特徴は、「失敗を怖れる」というもの。


失敗を怖れるし、失敗してはいけない、と思っているので行動することができません。


失敗はダメなものなんだ、してはいけないんだ、という気持ちが自分を縛っている状態です。


逆に、「最初の頃は失敗しても当然だよ。だんだんと上達していくものなんだ」と思っている人は、

どんどんチャレンジしていくことができます。


失敗を受け入れているかどうかで、行動の量も変わってくるのです。


勉強も似たようなもので、理解できてくるまでは、面白くない時期が続きます。


しかし、それは当然のことです。


最初は面白くありません。


何事でも同じで、スポーツでも、ヘタなときは面白くないものです。


テニスなんて、最初すごく難しいじゃないですか。上にボールがポーンと上がっていってしまって、プロの選手みたいに上手くラリーが続かない。


テニスが面白くなるのはラリーが続くようになってからで、それまでは面白くないと思うんですね。


で、ラリーが続くようになるまでは練習を頑張る必要があるわけです。


ラリーが続くようになるまでは、練習も億劫なはず。


でも、「ああやってラリーを続けられるようになって、カッコよく打ちたいなあ、試合がしたいなあ」と思うから頑張れる。


勉強でも同じで、問題を解く、というところに行き着くには色々と乗り越えないといけないことは多いものです。


で、問題を解けるレベルに到達するまでは、なかなか勉強が面白いとは思えない。


初級レベルのものは複雑さもなく、知的喜びも少なかったりする。


だから、最初はあまり面白くないと感じる。


しかし、難しい問題になってくると「考える楽しさ」みたいなものも生まれてくるわけです。


複雑になればなるほど面白くなってくるわけですね。


また、考える喜び以外にも、「成長」する喜びもあります。


そうやって、熟練していけばいくほど、楽しさは増えてくるわけです。


ゲームでも何でも一緒。


だから、今勉強が面白くないとしても、根気よく続けてみてください。


億劫であることを受け入れ、億劫なのも当然なんだと理解し、少しでも楽しめるように成長していこう、


早く楽しいものにしたい、という気持ちで勉強していくと良いと思います。