受験コーチ池田潤が教える参考書学習法 -11ページ目

受験コーチ池田潤が教える参考書学習法

‐志望校に合格する勉強法と思考法‐

自分に自信がない、という人は、「自信には根拠が必要だ」という世界で生きています。


自分は不幸だ、という人は「あれを手に入れるまで幸せにはなれない」という世界で生きています。


自分は被害者だ、という人は、「自分の世界は自分で創りあげるものではない」という世界で生きています。


で、こういう人たちに「自信に根拠は必要ないよ」「今、幸せになっていいよ」「自分の現実は自分で創っているよ」と言っても、


受け入れてはもらえません。


そこから、「絶対に勝てない戦い」が始まります。


その人たちは「いかに自分が不幸」で、「どう頑張っても変われないのだ」ということをアピールし始めます。


信じているものを手放そうとはせず、自分の現実を上手くいかなくさせている世界観にしがみつき、


「どうぞ!私を変えてごらんなさい!さあ!」という態度にさえなってしまうことも。


今の自分には全く関係のない時事問題を引き合いに出すケースも多いです。


いかに自分が不幸か、いかに自信がないか、いかに被害を受けているかを必死にアピールし始めます。


その行動それ自体が、余計に自分をそういう現実に向かわせてしまっていることに気づかずに。


今の自分の状態が嫌なら、今の考え方を手放せばいいだけなのですが、


何らかのメリットをその状態に感じているので、手放せません。


そして、その手放せない原因を外側におくか、自分が無能だからとか、自分には運がないからとか、


「自分が無力である」せいなのだ、ということにしてしまいます。


また、「上手くいっている人は悪い奴」という勝手な思い込みを作り上げます。


そうなると、前には進めません。


ただ周りを羨み、妬み、引きずり下ろそう、という意識になってしまいます。


そういうときは、自分がそういう状態なのだと認識することがまず第一歩。


つまりは、この記事のような内容を読んで、自己認識すること。


そして、その事実を認めること。


多くの人は、自分が自分の現実を創っているということを認められません。


誰かや何かのせいにしたくなります。


自信には根拠が必要だ、と思っていると、本当にそうなります。


幸せには何かが必要だ、と思っていると、本当にそうなります。


自分は被害者だ、と思っていると、本当にそうなります。


自分が信じていることが現実になっていくわけですから、その人たちに何を言っても通じません。


なぜなら、その人たちにとってはそれこそが現実だからです。


つまりは、絶対に勝てない戦いなのです。


できることは、今のその状況を認識させること。


幸せじゃないのは、自分が不幸を選んでいるから。不幸になる世界観を持っているから。


自信が持てないのは、自信がないということを自分で選んでいるから。自信を失う世界観を持っているから。


根本は自分の内側にあります。


自分の世界観、自分の世界に対する認識が、自分の現実を創っているのです。


昔から言われました。


「その花が美しいのではなく、その花を美しいと思えるあなたの心が美しいのだ」


自分の心、自分の信念、自分の世界観が、現実を創ります。


愛のある人は何を見ても、そこに何らかの愛を感じます。


怖れのある人は何を見ても、そこに恐怖を感じます。


それ自体に意味があるのではなく、それを愛と捉える人間、恐怖と捉える人間がそこにいるだけです。


何かに下す判断は、その対象がどうであるかではなく、その判断を下す人間がどういう人間かを表すにすぎません。


現実を変えたいなら、自分の内側に目を向けることです。


今日はこのへんで。

昨日のメルマガを貼っておきます。


池田です。


今日は大阪梅田でカフェセッションを行っていました。


今行っているプログラムに参加してくださっている方限定で行っているものです。


わざわざ名古屋から来てくれた子もいて、こちらとしても気合いが入っていました。


先日は品川でも行い、最近は本当にたくさんの方と直接対話をしています。


私のセッションでは、結構深い所まで入っていきます。


普段は人に見せない自分を見せてもらい、悩みの根本部分に気づいてもらう、という感じです。


で、人と対話をする度もいつも感じることがあります。


それは、「俺も同じだ」という思いです。



みんな色んな自分の弱さと戦っています。


自信が持てない、心を開けない、自分の価値を信じられない、人と上手く話せない、楽しめない、自分を信じてあげられない…


そんな自分が嫌いで、自分を責めています。


自分はダメだって思っている。


価値がない自分に価値をつけなきゃ、って思ってる。


私も、そうでした。


いつだって自分を責めていたし、自分に価値を感じることができないから、


他人の承認を欲していました。


いつだって人から認められたかったです。


強がってました。


カッコつけていました。


頑張らなきゃいけない、って思ってました。


休んじゃいけない、前に進まないといけない。


前に進む自分にしか価値がなくて、いつだって成長しなきゃいけないと思っていました。


人から認められないこと、承認されないことが怖かったのです。


行動の動機は「恐怖」でした。


そんな自分だから、人をバカにしていました。


自分が自分をバカにしているから、人をバカにしていました。


頑張ってない人間はダメな奴だと思っていました。


人を愛してなんかいませんでした。


人を利用して、自分が満たされたかっただけでした。


いつだって自分のことしか考えてなくて、家族にも冷たかったです。


私はいつも満たされていませんでした。


満たしたいのに、満たされない。


満たしても満たしても、満たされませんでした。


そこに至ってようやく、私は大事なことに気づきました。


自分が、自分を認めていない。


自分が、自分の価値を信じていない。


それが問題の根本なのだ、ということに、ようやく気づいたのです。


今、セッションをしていて、多くの人の悩みを聞いています。


そのとき、いつも思います。


俺もだ、と。


俺も同じように悩んでいた。


俺も同じように苦しみ、もがき、つらい思いをしてきた、と。


自分自身、今でも自分はダメな奴だなと思います。


ダメな部分がたくさんあります。


全然、完璧ではありません。


ただ、私はそんな自分を認めることから始めることにしました。


そんな自分を受け入れて、そこから始めることにしました。


そうすると、なぜか人の弱さも認められるようになりました。


なんだか色んな人を温かい目で見られるようになりました。


やりたいことも、変わってきて。


願うことも、変わってきて。


ただ、自分でありたい、と思うようになりました。


色んな人が自分を弱さを責めています。


でも、私だって弱いです。


完璧じゃありません。


それでも生きているし、そんな自分でもできることがあると知っています。


人は死ぬまで、弱い生き物なのだと思います。


でも、それでも価値がある。


価値があるという前提から始めていい。


私よりすごい人は、この世の中にたくさんいるでしょう。


私より能力があって、頭が良くて、行動力があって。


そんな人はたくさんいると思います。


だけど、私になれるのは私だけで、


私にしかできないこともある、と思っています。


その私にしかできないことを、やっていくだけ。


幸いにも、こうやってメルマガを読んでくれるあなたがいてくれて、


プログラムに参加してくれる人もいます。


そういう人がいる限り、私は活動していきたいし、


そこに私は自分で意味を感じることができます。


私より能力の高い人がいる。頭の良い人がいる。


それは、私の価値には微塵も関係ありません。


ただ、私は私であるだけです。


それは、あなたも同じです。


あなたには、あなたにしかできないことがあるし、


あなただからこそ救える人がいます。


あなたでなければならない、と言ってくれる人が必ずいます。


あなたはあなたで良くて、


違う誰かになろうとする必要もなければ、


外側の何かで価値づけようとする必要もありません。


今日、カフェでセッションをして、これまでの多くの人との対話を振り返って、


伝えたいと思ったことを書き綴ってみました。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

私たちは自分に価値を感じられなければ感じられないほど、他人を基準にして生きるようになります。


自分で自分の価値を感じていないので、他人の評価で自分を価値付けたくなってしまうのです。


しかし、他人の評価はコントロールできません。


他人は他人の主観で人を判断するからです。


他人が自分に下した評価は、自分の評価を表しているのではなく、その人がどういう人間かを表しているにすぎません。


このあたり、詳しいことは今書いている本の中にも書いています。


で、そのことと少し関連して、プログラムに参加してくれている子がfacebookに書いてくれていた記事をシェアします。


こちら。


『ここ数日身体の調子が良くありませんでした。


よくあることです。


身体の異常に気付くまで頑張ってしまう自分がいる。


なんでやりすぎてしまうのか。


ストイックな自分が好きなだけかと思っていました。


カフェセッションで潤さんと話す中で、自分がなぜやりすぎてしまうのか?なぜ上を目指すのか?


わかってきました。


ただ怖かった。怯えていただけだった。


負けたくない。


昔の努力できなかった自分に戻りたくない。


努力しなければ目標とする人に追いつけない。


バカにされたくない。


行動の原動力は全て恐怖からでした。


そして、何よりも自分に自信がありませんでした。


表面上ではいくら自信を持とうと努力しても、心の奥底ではいつも自信がありませんでした。


そんな自分から目を逸らしていました。


潤さんとお話をする中で、自分というものがどんどん浮き彫りになって来て、丸裸になって行きました。


正直恥ずかしかったです。


でも認めると同時に、心が楽になって行きました。


怯えている自分でもいい。そう思えてきたのです。


自分の弱いところ、隠しておきたいところを認め、曝け出すことによって、


自分の心が驚くほど軽くなって行くのがわかりました。


認めれば認めるほど


自分の弱点なんてどうでも良くなる。


そんな感覚です。


本当の強さはここにあるのではないかと思っています。


自分が弱いことを知っているからこそ、何が来たって怖くない。


怖いけど怖くないんです。


よくわかりませんねww


でも、僕にとっては大切な感覚です。


今日はここまで!バイトで疲れたので寝ます。』


なぜ、恐怖からの行動になるか。


一つには、他人の評価を基準に生きようとするからです。


評価を得られるかどうかが気になるからです。


人と話すときにオドオドしてしまったり、必要以上にかしこまってしまう、なぜか恐怖を感じるのも同じです。


相手の評価を「必要としている」から、怖いのです。


私が今のプログラムで目指しているのは、本当の意味での自信や自己愛を手に入れ、自分を生きること。


そして、自分の本当の夢や目標、やりたい、こうしたいを見つけ、その夢や目標もどんどん叶っていく。


そんな生き方ができるようになることです。


怖れもなく、自分を隠すでもなく、人とのつながりを断つのでもなく。


自分を受け入れ、人を受け入れ、本当の意味で満たされることの意味を見出して、生きていくこと。


記事を書いてくれた子は、オフ会、カフェセッションと参加してくれた子でした。


プログラムに参加してくれた子が自分に気づいていってくれるのは嬉しいことです。


それでは、今日はこのへんで。


本の執筆に戻ります。


基本的に人生はやりたいことをやれば良くて、好き勝手生きればいい、と思っています。


ただ、こういうことを言うと、何となく「頑張らない」イメージを持つ人もいるでしょう。


まあ、実際、頑張っている感覚はないことの方が多いのですが、


好き勝手生きる、やりたいことをやる、ということの中に「頑張る」ということも私の場合は入っています。


もちろん、頑張りたくないときもあるのですが(笑)、頑張りたいときだってある。


頑張るのが楽しい。頑張るのが好きという感覚。


例えば、昨日はいつも以上に筋トレをしました。


で、筋トレなんてしんどいだけじゃないですか。笑


でも、体を使うこと自体気持ちの良いことだし、そうやってしんどいことをやって筋肉がついていくのもまた楽しいことで。


楽をしたい、という風に思っているわけじゃないんですよね。


自分を愛して、自己肯定して、好き勝手やりたいことをやる、となったら「モチベーションが上がらないのではないですか?」と思う人がいるらしいのですが、


そんなことはありません。


ただ、モチベーションを上げるという概念自体、薄くはなってきます。


あえて自分を追い込むこともあるし、やりたくないことをやるときもあります。


ん?やりたいことをやるって言っているのに、やりたくないことをやるの?と思うでしょう。


やりたくないことをやることが、やりたいことなのです。笑


分かりにくいかな。


筋トレだって、やりたくないですよね。しんどいんだから。でも、やりたいんです。


チャレンジしたい、という感覚。チャレンジがやりたいことって感覚。


チャレンジっていうのは、今までやったことのないことに挑んでいくことなわけだから、


基本的には怖いですよね。できれば避けて通りたい、やりたくないことですよね。


でも、それがやりたい。


やりたくないことを、やりたい。


そんな感覚もあるんです。


その先に現れる自分に興味がある、というか。


ただ、これも「やらされている」状態だとそう思うことはできないんですよね。


自分で選んでいる、自分からやっている、という「自分が人生の主導権を握っている」と思えるから、「やりたい」と感じることができる。


だから、被害者はキツイんです。


いつだって「やらされている」と思っているから。


誰かが自分の人生の邪魔をしている、誰かによってコントロールされている、と勘違いしているから。


そりゃあ、モチベーションだって上がらないし、成長もないでしょう。


スポーツ選手だって、あんな激しいトレーニング、やりたくないと感じることもあるはず。


でも、そのやりたくないことがやりたいことなんですよね。


矛盾しているように聞こえますが、実際、そうなんです。


ストイックに頑張っているように見える人は、実は楽しんでやっていたりします。


逆に、本当にストイックに頑張っている人は、続かない。


どこかで限界が来たり、無理がたたって、一気にエネルギーが急降下したり。


ムラがあるというか、アップダウンが激しくなる。


それはどこかで「やらされている」感覚でやっているからで、心のどこかで被害者になっているからです。


本当は自分でやると決めたことなのに。


受験もそうだし、会社もそう。


自分で受験すると決め、自分で入社すると決めた。


全部自分で決めたのに、どこかで「やらされている」と思っている。


なぜ?自分で決めたのに。


やめる選択肢だってあるのに、続けている。


ということは、自分でやると決めているはず。


なのに、勝手に被害者になって、勝手にやる気を失い、苦しんでいるのです。


やらされているのではなく、自分で選択していること。


自分がやりたくてやっているのだということを忘れると、やる気も出ないし主体性もなくなるものです。


やりたい、という感覚で行動することを大事にしてみてください。


今日はこのへんで。

昨日の記事にかなり反響がありました。たくさんのメールもいただいています。


で、今日は少しその話と関連した話を。


「劣等感」について。


基本的に、劣等感はただの思い込みです。


主観的に「自分は欠けている」と思い込んでいるから生まれる感情。


例えば、学歴。これは、社会が勝手に決めた価値判断であって、学歴が上だったら価値がある、下だったら価値がない。


そんな勝手な価値基準を社会から与えられ、


その通りだと受容することで学歴コンプレックスなどという全く意味のないコンプレックスが生まれます。


スティーブ・ジョブスは大学中退、ビルゲイツもマーク・ザッカーバーグも中退です。


だけど、彼らは劣等感など持っていないでしょう。


もし、「事実」によって劣等感を持つかどうかが決まるなら、


学歴のない人は全員劣等感で苦しんでいるはずですが、そんなことはありません。


つまり、学歴を自分の価値と勝手に結びつけ、勝手に苦しみ、劣等感を持っている人間がいる。


それだけの話です。


その他、ありとあらゆる劣等感がそう。


収入においても、モテるかどうか、スポーツができるかどうかも。


それを「自分の価値」と結びつける。


自分以外の何かで自分の価値を計ろうとする。


比較によって自分の価値を決めようとする。


人との「比較」や「競争」に勝つこと、人よりも上に行くこと。


それが自分の価値を高めると思っている。


この「比較思考」も劣等感を強めますね。


劣等するためには比較対象が必要です。


ということは、劣等感を感じている人はいつだって他人と自分を比べているのです。


そして、そういう人は自分が上になれるものがあれば、今度は人をバカにします。


上から目線になります。


だって、そもそも「比較」して人の価値を判断するからです。


メリットのある人にはゴマをすり、「この人は自分より下だ」と判断すれば途端に冷たくなります。


大事なことは、誰かとの競争ではなく自分がどう生きるか。自分は何がしたいか、です。


他人がどうであるかは、自分の人生には関係のないことです。


比較の人生には自分がなく他人がいつもいます。


他人に勝つことが原動力になっている。


ただ、劣等感は行動につながることもあります。


「もっと上手くなりたい」「もっと成長したい」という向上心につながることもあります。


上を目指すがゆえに抱く劣等感です。


この場合、それは行動につながり、より高いレベルを目指すことにつながっていきます。


しかし、ここで二通りの人間に分かれます。


純粋に上を目指したいと行動し始める人と、


言い訳をし始める人です。


言い訳をし始める人は、「自分は○○だから…」「○○がないから」「頭が悪いから」「そういうの苦手なタイプだから」などといって、行動しません。


行動しないから現実は変わりません。


現実は変わらないけれど、劣等感はどうにかしたい。


現実を変える勇気はないし、行動を起こすパワーもないけれど、劣等感はどうにかしたい。


自分は何もしたくないけれど、劣等感はどうにかしたい。


どうすればいいんだ。


そうか、他人を貶めればいいのか。


自分が上がるのではなく、他人が下がって来たらいいんだ。


俺のところまで堕ちて来い。


そうやって始まるのが、ネット上の悪口です。


彼らは押し並べて、強い劣等感に苦しみ、その劣等感を少しでも癒すために他人を貶めようとしてしまいます。


貶める対象は別に誰でも良いのです。ただし、「人生上手くいっている人」に限定されますが。


自分自身の「上手くいっていない」という劣等感がその人によって刺激されてしまい、その劣等感を癒したいと感じる。


自分を癒すことが目的。


「貶めたい」という無差別な気持ちが先にある。


貶めるべき対象が先にあるというよりも、貶めたい、自分を癒したいという気持ちが先にある。


で、それができる「ほころび」が見えたら徹底的に叩きたくなってしまう。


そういう心理状態になっているわけですね。


そして、そういう人の言葉を鵜呑みにしてしまうほど情報リテラシーが低い人も現実に存在する、ということもまた問題です。(もちろん、彼らの意見が全て間違っているわけではありません。ただ上記のようなことを知った上で「判断する」ことは必要だ、ということです)


ただ、彼らが「悪」だというよりも、彼らはただ傷ついてるんです。


自分に価値を感じられない。自分に自信が持てない。


そんな自分を救いたい。


自分を癒したい。


その最後の手段として、他者を攻撃する、という行為に出てしまった。


私がそれを見て感じることは、彼らの悲しみです。


彼らのつらさ、悲しみがその言葉、その行為には込められています。


彼らもまた、つらい経験をし、苦しい日々を生きているのだと思います。


自分のことを認められなくて苦しんでいます。


もし、彼ら自身が自分のことを認め、自分を愛するようになればそういうことをしようとは思わなくなります。


自分の人生を生きよう、と思うようになります。


人を許し、人を愛することを学び始めます。


大事なことは自分を愛し、自分を認めることです。


それができれば、変わるから。


それができたとき、彼らもまた愛のある人に変わっていきます。


今は大事なことは何なのか、を見失っているだけです。


人はいつからでも変われるから。


話を戻して、


劣等感+言い訳は、人の人生を向上させません。


前に進みません。


進まないどころか、自分の人生に何の関係もない他人を邪魔する、という精神状態にまで発展する可能性を持っています。


大事なことは、劣等感は主観的な思い込みであるとまずは知ること。


今感じている「価値」は社会が勝手に作り上げたものであると知ること。


自分には何もなくても価値があると信じること。


自分のままで価値があると信じること。


人の価値は比較では決まらないと知ること。


自分には現実を変える力があると知ること。


人生はいつからだって良くできると知ること。


いつだって自分の現実を創り上げているのは自分であると知ること。


他人に勝つことではなく、自分が生きたい人生を生きることの方が何千倍も大事なことだと気づくこと。


こういったことを感じられるように、自分と向き合っていくこと。


です。


長くなりましたが、今回伝えたいことは以上です。


参考になれば幸いです。

昨日はあまり寝ていなかったのであまり書けないかなと思っていた、想像以上に執筆が進みました。


締め切りも迫ってきて、少し焦りモードになっていますが、この本に自分のベストを尽くします。


書いていて、なかなか良い内容になっていると感じてます。


今ここで自分のベストを尽くすことが結果的に誰かのためにもなれると思っているので。


自分自身の成長は、誰かの役に立ってる。自然に。無意識のうちに。


だから、どんどん自分を成長させていったらいいんですよね。


例えば受験勉強をしていて虚しさを感じてしまったとします。


一人で黙々と勉強を続ける日々に嫌になってしまったとします。


そういうときに考えて欲しいことは、そうやって今自分が受験勉強をして、


行きたい大学に行って、やりたいことをやる人生を送ることが、結果的に誰かのためにもなっているということ。


自分の喜びは自分だけのものではなく、自分の幸せは誰かの幸せにもつながっている。


誰かのためになりたいと思うなら、自分を幸せにする。


自分をとことん幸せにすること。


その状態は心に余裕がありますから、人にも優しくできるんですね。自然に。


自分を満たしていくと、自分のことがあまりどうでもよくなってきて、誰かに視点が向いたりもします。


自然に。


まずは自分です。人を好きになりたいなら、自分を好きになることが大事ですしね。


「好き」っていうキーワードが出たので思いついてしまったのですが、


最近は恋愛の相談を受ける事も本当に多くなりました。


「自己愛」のこととか書くこともあるので、そこからそういう相談が増えましたね。


恋愛で大事なのも、相手の問題ではなく自分の問題。自分に目を向けること。


自分を愛することです。


それができれば、どんどん上手くいくようになります。本当に。


全く違う世界を見ることができるようになりますよ。


ただ、頭で理解するのではなく、感覚で理解することが必要なのですが。


今は執筆があるのでできないのですが、セミナーをやって、そこで「体感」してもらうというのもやりたいと思っています。


こっちが一方的に話す形じゃなくて、体感を大事にしたもの。


一回やったのですが、さらに進化させていきたい。


オリジナルで色々ゲームを考えてて。


本の執筆が終わったらそっちの方も力を入れていこうかな、なんてことも考えています。


とにかく私も、私がやりたいと感じたことをやっていきます。


色々、お楽しみに。


今日も、エネルギーを高くして過ごしていきましょう!

昨日は「Self Training Program」の大阪オフ会。


いや、ホントに素晴らしい時間となりました。


このプログラムが多くの人の力になっているんだと実感できる時間で、みんながどんどん変わって来ているのを実感。


あまりにもみんな仲良くなったので、飯食って、カラオケ行って、その後も朝まで一部の人とは一緒にいました。笑


ホント、良い時間だった。


ネットを通じて出会い、それがリアルのつながりになって。


もう何年もの付き合いになる子もいます。


ネットがなければなかった出会いで、こうやって日々ブログを書くことで出会えた人たち。


ブログ書いてて良かったなーと思う瞬間です。


今週は東京なんで、そちらも楽しみ。


最近、プログラムに参加してくれている子に会いまくってます。


では、今日の本題へ。


勉強でも何でもそうですが、なぜかやる気を失ったり、やってやる!という高揚感の中で行動できなくなってしまうことがあります。


大体そういうときというのは、自分のことを信じられなくなったとき。


「自分はダメなのではないか」と心の中で思ってしまったときです。


そう思ったとき、人はビビるし、ひるむし、何かを頑張る気になれなくなってしまう。


これは、普段は「自分はできる」と思っている人でもそうなってしまうので、


普段から「自分はダメなのではないか」と思っている人は、自分に何かを期待したり、


大きなビジョンを描くことはなかなか難しくなります。


こじんまりとしたことしか自分に期待できなくなってしまう。


自分が何かに対して意欲を持ったとしても、


「できるか、できないか」で考える。


しかも、自分に対する自信がないので、「できない」方に流れてしまうんですね。


結果、何もやろうとしない。自分の内側にある意欲を認めない。


行動しないから成長もなく、結果的に「本当にできない」という状況を自ら作り出してしまうわけです。


逆に、「できるかもしれない」という思いのパワーはものすごいものがあります。


できるかもしれない、自分にならできる。


そう思うだけで元気が出てきます。


自分がやりたいと思ったこと、そう感じていることを「できるんだ」と一旦思ってみてください。


そのときの感覚を感じてみてください。


あなたが理想としていること、心の中で実現したいと考えることは実現できます。


そう根拠なく一旦信じてみてください。


ワクワクして、高揚感もあって、良い気持ちになると思います。


その気持ち、その感覚が大事なんです。


その感覚があれば、人は前を向いて行動を起こすことができます。


そして、前を向いて行動を起こすからこそ、本当に実現できる。


しかし、時に人はその感覚を忘れます。で、その感覚を忘れたときにスランプがやってくる。笑


できると信じるかできないと信じるか。


それは、その人次第であって、根拠なんかありません。根拠は必要ない。


ただ自分が何を信じるか、なんですよね。


私は「できる」を選択するし、「自分には価値がある」という選択をします。


だって、その方が楽しいから。人生に楽しみが増えるから。そのときを幸せに生きられるから。


自分を疑って、信じないで、という状態は今この瞬間を不幸にしてしまうから。


今を幸せに、前向きにするためにも、自分を信じるんですよね。


事実がどうか、ということではなくて、自分が何を選ぶか、です。


どういう気持ちでいたいのか、どういう行動を取りたいのか。今、どう在りたいのか。


そのためにふさわしい感覚は何なのか。


それを選択するんです。


人は、「できる」を選択したことしか実現できません。


逆に言えば、「できる」を選択したことは実現できます。


大事なことは、結局は自分次第だということ。


何を信じようが、どう在ろうが、自由。


誰のせいにも、何のせいにもできません。


自分の人生は自分で創っている。


そのことを素直に認められたときに、また一歩前に進んでいるのだと思います。

変わりたいけど変われないとか、やる気が出ないとか、そういう状態になってしまうとき。


大体、そこには「強烈な思い」や「鮮明なイメージ」というものがありません。


それらがないから、やる気も出ないし、体が勝手に動かない。


思いやイメージがあったら、しかもそれが強烈で、自分の心を震わせるものであったなら、


人は勝手にそちらに向かっています。


なぜそこに強烈さや鮮明さがないかというと、結局、自分の内側から生まれたものじゃないから。


「言わされている」「思わされている」だけだから。


夢を持たなければならない、という思い込みが先にあって、


別に持ちたいと思ってないのだけど何となく持つべきだと思っているから、何となく探す。


頭で考えて、これがいいかな、あれがいいかな、と探す。


で、その選択肢は他人が良いと言っているものや、他人から認められそうなもの。


「何となくこれ、かっこいいかもー」とか思うもの。


でも、本当は別にそうなりたいとはそこまで思わない。


その「そこまで思わなさ」は全部、行動に出るわけですね。


結局、何もしていない。動いていない。というのは、別にやりたくはないからです。


「夢を持つべきだ」という考え。しかも、そこに含まれる「夢なるもの」は、かなり固定的です。


つまり、大体「こんなものがいいよ」というのが予め決められるいる。暗黙のうちに。


で、その固定化された選択肢の中から「選ぶ」ようになっている。


純粋な自分の思いから生まれるものではなくて、外側にある選択肢の中から自分に合ってそうなものを「選ぶ」という形になっている。


センター試験のマークみたいな感じで。


ア~オまでの選択肢の中から選びなさい、と。


そこで、「いや、俺は『マ』で!」「私は『ン』だな」とは誰も言わない。


「ア~オの中にはしっくり来るものがないんで。てか、そんな与えられたものの中から選ぶ人生なんて嫌なんで。さいなら」


と言う人はなかなかいない。


みんな、探してる。当てはめようとしてる。自分を。固定化された選択肢の中に。


でもそんなのは所詮「外側」のものだから、いつまで経ってもやる気なんか出ないし、行動もできない。


できたとしても、楽しくなんかないし、突き抜けることもできない。


逆に、自分の内側から生まれたものだったら突き抜けられる。


だって、放っておいてもやってしまうから。時間があればそのことを考えてしまうから。


そうなったら、モチベーションで悩まない。


何度も言いますが、大事なことは自分を取り戻すこと。


自分を当てはめようとしないこと。


自分を答えにすること。


でなければ、誰かや何かの奴隷になってしまう。縛られ、抑圧され、最高の感情を感じられないまま生きることになってしまう。


もう、そんなのは終わり。


自分を大事に。自分の感情を大事にして、生きて欲しいと思います。

昔から、大体、人生が上手くいく人には共通点があるもので、それはやはり普遍の法則みたいなものなのだと思うのですが、


インターネットやソーシャルメディアがこれだけ発達した現代社会では、その傾向がより増してきているように思います。


多くの人は成功したい、何かを手に入れることで幸せになりたい、認められたい、愛されたい、と思っています。


そのために努力します。そのために勉強します。


しかし、現代社会は生きていくには何の問題もない社会であって、自分の欲はある程度満たされてしまっている。


だから、自分のために、何かを我慢して必死に努力して、という在り方が難しくなってきています。


また、自分のためだけ、ということのエネルギーは応援者を生まないので、孤独にもなっていきます。


人生が上手く人の共通点というのは、「他者を想える」ということです。


他者の気持ちになって物事を考え、他者の痛みや苦しさ、そして喜びや愛を感じられるということ。


生きる軸は自分にありながらも、他者への想いを持っている。そういう人ほど人生は上手くいっている。


この「他者を想える人が上手くいく」というのは、先ほども言った通り、ソーシャルメディアが発達した現代社会ではより顕著になってきています。


自分のことだけを考え、他者への想いがない人の元には人は集まりません。当たり前ですよね。


でも、その人は、「集客法が足りない!」とか「テクニックが必要!」と思う。確かにそういう部分もあります。


しかし、根本的に他者を想える自分でなければ人は一時的に集まったとしても、結局は離れていくでしょう。


私は、成功とはするものではなく、させてもらうものだと思っています。


自分一人の力では絶対に無理です。誰かの役に立ち、誰かに喜んでもらうことで、自分にも返ってくるものがある。


そして、誰かの役に立っているということそれ自体で満足している。


そんな「在り方」こそが、これからさらに大事になってくると思っています。


別に成功目指してやっていたわけではないのに、なぜか成功してしまった。なぜか上手くいっていた。


別に今のままでも幸せなのだけど、どんどん人生のステージが上がっていっている。


そんな「在り方」。それが今の時代の成功法なんじゃないかと思っているんです。


もちろん、昔からそうだったんですけどね。


大事なのは「他者を思える自分になること」です。しかし、同時にここが、多くの人に理解できない部分なのかもしれない、と思います。


多くの人は自分のことで精一杯で、他者になんか関心を持てないと思っています。


私自身はここ何年もなぜそうなるのか、ということを考え続けてきました。


様々な経験をして、考えて、どうすれば「他者を想える自分になれるか」を追求してきました。


私の中での最大の問いは「人は本当に人のことを想えるのか」でもあったんです。


愛ってなんだ。人を想うってなんだ。人を想っているようで、結局俺は自分のことしか考えていないのではないか。


そんなことを色々と考えていました。


でも、結論として人は人を想えるし、その想いこそが人を成功と幸せに導くと確信しています。


大切な誰かを守るため。その人を少しでも喜ばせるため。多くの人が喜びや幸せの中で生きるため。


そのためにできることはないか。


それは自分を犠牲にすることでも何でもなく、そうしたいからそうする。そんな想いが自分の中から生まれてくる。


そういう風に考えられる自分になること。そう思える自分になること。


そんな「在り方」を『思い出す』こと。


それができれば、人生は上手くいくと、私はそう思っています。


それでは、今日はこのへんで。

加藤秀視さんの研修にアシスタントリーダーとして参加していました。熱海での2泊3日の合宿。


参加者の方たちと3日間共に過ごすわけですね。


この3日間の中で本当に多くのことを感じたので、ここで少しだけ書いていこうと思います。


人が変わる際に最も必要なことはやはり、自分と向き合うことだと再確認しました。


今、自分のプログラムでも徹底的に自分と向き合ってもらっています。自分の何が問題だと思っていて、それはどうして起こっているのか。


何を怖れているのか。何を不安に思っているのか。


今の自分の現状がどうして起こり、どうしたら自分に戻れるのか、何が自分の解放を押えつけているのか。


それは自分と向き合っていかなければ分からないわけです。


色んなテクニックを身につけ、知識を身につけて、人は自分を変えようとします。


しかし、多くの不純物が自分の中に存在するので、素直に受け止めることができなかったり、自分以外の何者かになろうとする努力になってしまう。


私自身、これまで「人はどうすれば変われるのか」という問いを持って生きて来ました。


その探求こそが私の人生だったと言っても過言ではありません。過言ではありませんというか、事実そうです。


それしかなかったし、そこに圧倒的な関心があったわけですね。


で、今思うことは、大事なのは『いらないものを手放していくこと』であって、余計なものを捨てることであって、


付け足すことはその後に行われるべきことだ、ということです。


人は本来純粋な存在で、何が本当に大事なのかということを知っています。


知っているのだけど、常識や傷つけられた(と感じている)経験、比較、他人の価値観などによって、不純物が溜まっていきます。


その結果、素直になれなくて、純粋になれなくて、自分を守ろうとします。心を閉ざすようになります。


何が大事なのか、ということが分からなくなります。


自分を守る、つまりは傷つかないことに必死になるので、感情がどんどん鈍感になっていきます。


悲しみやつらさ、苦しさを感じないために、感情を鈍感にさせるのです。感情を無理にコントロールしようとします。


その結果、喜びや楽しさ、愛などさえも感じられないようになっていく。


これは「不感症」の状態です。


感情を感じることができないので、何かに情熱的になることもできません。


本気にもなれないし、人を好きになるという感情も分からなくなっていきます。人との間に壁を作り、距離を取ります。


その結果、さらに感情が鈍感になっていきます。


ロボットみたいな存在になっていく、ということです。人間味がない、という言い方もできるかもしれません。


頭だけ、脳だけが働き、知識だけが付け足され、「感じる」ということができなくなってしまうわけです。


感じることができなければ、人の痛みに寄り添うこともできないし、自分の痛みや、喜びも感じられないようになっていきます。


結果、やりたいことが分からない、なんてことにもなってしまうのです。


だからこそ、自分と向き合い、自分の感じる力を蘇らせること。本来の自分に戻っていくことが大事なんですね。


まだまだ色々と感じたことはあったので、今後のブログでも書いていきます。


今、自分のプログラムでも「向き合う」ということを徹底的にやってもらっていますが、すでに、


『最近潤さんの音声を聴いて向き合って自分を責めなくていいって、思ってから不思議なくらい明るい

自分になってしまいました。


これ自分か?ってくらい笑顔が自然に出てきて、そしたら周りの人も笑顔になってくれてなんか怖くな

ってきました。


こんなに上手くいってもいいのかなってくらい。


だから全然悩まなくなってしまって、体が軽くてしょうがないです。


本当にありがとうございます!(≧∇≦)』


という感想も届いています。


本当に人が変わるって何なのか。その在り方を見せていきたいし、まだまだ探求を続けていきたい。


そして、多くの人の力になれるように精進していきます。