私たちはどうしても、何かが起こると「判断」をしようとします。「仕分け」と言ってもいいかもしれません。
「良いこと」と「悪いこと」に分けて考えて、わざわざ自分を苦しめてしまったり。
でも、本当は全てのことは中立で、そこに意味付けをしている人間がそこにいるだけなんですよね。
例えば受験勉強で言えば、できない問題が見つかることは素晴らしいことであり、本来の目的からすれば「喜び」なんです。
だって、できないことをできるようにしていくからこそ成績は上がっていくわけですよね。
できることはできるのだから、できることをやり続けてもそれは現状維持以外の何物でもなくて。
でも、「できるが良いこと」「できないが悪いこと」と私たちは刷り込まれてきている。
だから、できないことがあったときに、そういう問題に出会ったときに、「悪いことが起こった」と捉えて落ち込むわけです。
ホントは、それで成績が上がっていくのに。本来の目的は達成されているのに。
過去のデータから「良いこととは何か」「悪いこととは何か」を決められてきた。その結果、物事の本来の姿を見失っているわけです。
これは受験勉強の話だけではありません。
あなたが嫌っている自分のある部分は、本当に嫌うべきものなのでしょうか?本当にそれはダメなんでしょうか?
なぜそれがダメで、なぜそんな自分を嫌ってしまったのでしょうか?
いつからか、そういった自分を嫌うように刷り込まれてきてしまっただけなのでは?
あなたが「あれがなければ」とネガティブに捉えていることは、「あれがあったからこそ」とポジティブに捉えることができるのではないでしょうか?
事実は事実でしかなく、そこには意味はありません。私たちが勝手な意味付けをし、勝手に苦しんでいるだけなんです。
そのことが分かるだけで、世界は変わって見えるはず。
受験勉強だって、もっと難しい問題に挑んでいこうと思えたり、できない問題に出会ったときにいちいち落ち込まないはず。
その姿勢、その心の「在り方」が、成績を上げることにもつながっていくわけです。
私がやりたいことは、そんなことを伝えていくことだったりします。
物の見方を変えることで、人生はどんどん良くなっていきます。