石の上にも○○年~物書き志望女のひとりごと -38ページ目

石の上にも○○年~物書き志望女のひとりごと

日常で気になったことや、長い物書き志望歴で思ったことをランダムに綴ります。

マイカーをお持ちの男性が、奥さまが運転したときにガガガッと傷して凹ましてくれて、と嘆くのはよく聞く話。

私もそのパターンが何度かあったが、幸いにして(?)いつも車の主が他にもっと大きな傷をつけた後のことで、あまり嘆かれたことはなかった。

しかし、今回はかなり脱力されてしまった。

慣れていたはずの駐車場、バックで入るのもお手のものだったのが、すぐ側で下水道工事をしていていつもの軌道で入れなかった。少し大回りした結果、思わぬオブジェに激しく引っかけ、右後方が哀れなことに。

傷自体は、まあ見栄えは悪いが気にしなければ良い、くらいのもの(←いやいやいやいや……汗)。
が、たまたま何やらセンサーというのが内蔵されている位置で、追い越してくる車両を検知する機能が作動しなくなってしまった。

修理に十万くらいかかると言われ、その機能要る? とか逃げ腰の考え中だったまさにその最中。

出先の駐車場で当て逃げされた。全く同じ位置に、重ね着みたいに。
ディーラーさんに呆れられ、完膚なきまでに壊れたセンサーは取り外されてしまった。

その後、1週間も経っていなかったと思う。
車の主自身がやってくれた。派手にガガガガーッと塀に擦り、左半身がボッコボコに。

こうなったら潔く修理に出すしかない。観念して予約し、その工場に向かっていたときだった。
いきなりパーン! との破裂音がしたかと思うと、前進するごとにガコンガコンガコンとの異音と異常な上下動。

止めて確認してみたら、……パンク!!
何ですと? つい先だっての定期点検で、タイヤに関してはお墨付きをもらったはず。

その工場まであと1キロくらいのところだった。電話して来てもらった……。どうも何かを踏んで穴が開いたらしい……何? 何なの、フツーの道路の真ん中に。←結局確認できず。

で、この車、本当に可哀想な状態で、工場に引き渡し。こんなに傷だらけにしてしまったのは初めてのこと。

修理に2週間かかった。戻ってきたピッカピカの彼(彼女?)を見て、大事にしよう、と新たに誓ったのだった。

(了)


~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 先日、漫画に対する自分の執着が、あんまり一般的じゃないのかな、と思ったことを書いた。

 

 考えてみれば、漫画だけじゃないと気付いた。それは最近ハマッた宝塚の観方で思ったことだった。

 

 DVD、最初は全体の筋を追うのに精一杯だったのが、ご贔屓のジェンヌさんができるとその出番を繰り返し繰り返し観るように。そのうちそのお役の役割だったり気持ちだったりが自分なりにわかってくる。(←一度でわかれよ、って話だが)

 

 そして、表情、目線、言い回し方、指先までの動き。「ここのこれがいい!」といったお気に入りシーンができる。それをまたも5回も10回も観直す私は大丈夫か? と自分でも心配になるほど飽きずに繰り返す。

 

 やがてそのシーンの歌が自動的に暗唱され、無意識にところかまわず(電車の中とか通勤路とか(汗))歌っていたりする……何なら多少振りなどもつけて。ちょっと危ない人に見えること間違いなしである。

 

 宝塚は、結構大人数の場面が多いので、そのお気に入りのシーンを観ているうちに、ご贔屓さんだけではなく、他にも「このジェンヌさん、気になる!」となる。ご贔屓さんばかり見てたときは見過ごしていたこの方はどんなダンスや演技をしているのだろうか、と興味が広がり、別の視点で観たくなる。で、また同じDVDを全体を通して観るところから始まる。はい、スタートへ戻る、なのである。

 

 何度観ても飽きないどころか、次々と発見や発掘を繰り返し、どんどん膨れ上がっていく再視聴の欲求。どれだけ時間があっても足りない……そして家事や睡眠時間が削られていくのである……。

 

 そういえば。ドラマや映画の観方もそうだったと思い出した。

 

 好きな俳優さんの出ているドラマなり映画なり。録画やDVDを繰り返し繰り返し観ていたっけ。そのセリフや動きやBGMを完璧に覚え込んでしまうほど。

 

ドラマなら再放送のときに、映画ならテレビ放送されるときに、カットされる部分がある。それに気付いてしまうのである。また、洋画だったらチャンネルによって吹き替えや字幕のセリフが微妙に違ったりする。で、これはあっちの訳の方が合ってるよね、だとかを思う。

 

 何かもう、嫌がらせかってくらいの域の、重箱の隅人間なのじゃなかろうか、と不安になっている。

 

 ただ、作る側――物語を書く立場で考えると。そういう風に細かく読んでくれる誰かがいたら嬉しいな、と思うのである。セリフの一つ一つ、積み重ねるエピソードの一つ一つをめちゃくちゃ考えて作っているわけなので。読むのは普通一瞬で終わってしまうそういったところに引っかかってくれると、考えた甲斐があるなあ、と。

 

 なんて、自分の執着心がフツーじゃないかもしれない、という不安を、強引に前向きに捉えてみました……。

 

 

(了)

 

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 子供の頃、ある本を求めて一日中町の本屋を探し回ったことがある。


「ドラえもん」最終巻だ。


 と言っても、それは当時の都市伝説に踊らされたもの。「ドラえもんというのは、交通事故で植物状態になったのび太が見ていた夢だった」という、夢のない噂である。


 でも、私はそれがどんなものなのかどうしても確かめたくて、その後1年ほども時間があれば探した。本屋があれば必ず入って探した。とにかく探した。結局はなかったけれど。


 粘着質で諦めの悪い性格なのだ。


 それはその少女時代から大人になってもあまり変わらない。勉強とかジム通いとかはあっという間に飽きるのだが、こと漫画に関してはかなりの執着があった。


 それはそれはたくさんの漫画を読んだけれど、そのほとんどが借りたもの。小遣いやりくりのため、買うのは厳選に厳選を重ねたものだけ。で、それらはお気に入り中のお気に入りであるから、読み返す回数も激しい。ストーリーはもちろんのこと、セリフも頭に入ってしまったし、絵柄はトレーシングペーパーで写して下敷きに挟んだこともある。だから、この場面ではこの人の手の指が6本ある、などと細かい突っ込みもしょっちゅうだった。


 さすがにあまりに読みつくしたので、知り合いに売ったものもある。が、当時の漫画は何十年か後に文庫化という罠をかけてきた。見事ハマッて大人買い……。


 読み直してみて驚いた。覚えているのである。文庫化に当たり、時代に合わせてセリフが直されていたり、当時カットされたページが組み込まれていたりと、さりげない変化があった。それを、「ここが昔と違う!」と、即座にわかってしまう私……。オタクというには修行が足りないけれど、フツーとも言えないのではないか、と悩んでしまった。


 そういえば、子供時代の「厳選」の仕方だが。


 借りて読んだのは大体当時の流行りだった。中で、ストーリー展開も絵柄も好きだと思ったものだけ買った。そして、それを書いた漫画家さんの他の作品を探し回ってはあらかた買い揃えた。つまり、気に入るとその方の書いたもの全てが読みたくなってしまうのだ。


 それは小説も同じだった。音楽もそう。同じ作者のもの、アーチストのものを熱狂的に追う。


 が、最近はもう、そういう激しいお気に入りができなくて、流行りのうわずみだけスルッと通り抜けてすぐ忘れる、ということが増えた。あの頃のようにめちゃくちゃこだわって小遣いと相談、足を棒にして探し回る、といった気力がなくなった。言いたくないが、歳か……。


 と思っていた。けれど、最近宝塚にハマってみて、違うと気付いた。そういう体質は三つ子の魂百まで。「好き」と思えばどうにかしようとする根性が座る。


 そういう努力は疲れもするけど、楽しさは計り知れない。そんなことを思い出している、今日この頃である。


(了)

 

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 書くネタに行き詰まると、昔誰かに言われた言葉を思い出す。

 

「自分が観たい、読みたいと思うものを書けば良いんだよ」

 

その通りだと今は思う。

 

 ほとんど仕事とは言えない頻度でしか実現しなかった漫画原作の経験を思い出すと。


 とにもかくにも「報酬をもらう」ので、自分の読みたいものとか言っていられなかった。掲載雑誌のターゲットとなる年代、性別に向けての発信が大前提。しかもウケないと次回ページがもらえない。

 

 そういうのが窮屈だという方もいらっしゃるが、私の場合、「縛り」とか「課題」みたいなものがある方が書きやすかった。その方が自分の中にこんな思い出があった、こんな気持ちを持っていた、などを思い起こさせられるから。


 ただ、それが自分に合っているジャンルならいいのだが、その頃の私の場合、どうも何かちょっとズレていて、おそらくその雑誌のターゲット層からすれば、あまり興味のない方へない方へと進んでいったような気がする。


 具体的には、主婦がターゲットだってのに、女性自動車整備士の話を書いたりして、それはボツにはならなかったけれど、きっとアンケートはビリッけつに近かったんじゃないかと想像している。

 

 で、そういう制約がなく何でも書いていいとなると、逆に自由すぎて何も出てこない。それで唸っていると思い出すのである。


「自分が観たい、読みたいと思うものを書けば良いんだよ」


 そうだよね、とパソコンに向かい直す。で、思う。さて、私が観たい、読みたいものってどんなの?

 

 ①歳のせいか、またはやたらに雑事に追われる生活をしているせいか、最近は長い物語についていけなくなった。


 ちょっと前は、「3時間の映画は長すぎて疲れる」と思っていたのだが、今は2時間でも長いと感じることが増えた。1時間ドラマですら、やれ「お湯が噴いた」「新聞の集金」とかで中断し、一気に観られず翌日に持ち越したりで、内容が頭に残らない。


 →とすると、30分~1時間くらいで完結する短編を書くのが私の求めるもの? 

 けれど、短編というのは設定や人物像を都度都度新しく作らなくてはならないし、オチがストーンと落ちないとスッキリしない。長編とは違う難しさがある。

 

 ②小説や漫画も、気付くと寝落ちしていてることが増えた。決してつまらなくはなくむしろ先が気になるのに、である。再開したとき何ページも戻らないと筋も人物も忘れている。


 →とすると、キャラをハッキリ印象的に、いつ出てきても「これはあの人だ」と読み手がすぐに思い出せるように書く、とか。

 また、伏線を入れたなら、それが忘れ去られてしまわないよう、何度も繰り返し出してみる、とか。


 →けど、自分の中での目標がひとつある。必要最小限の言葉で伝えたいという。それに反しないかな? しつこくないかな。しゃべりすぎじゃない? とか悩ましい。

 

 ③そしてあまりにも救いようのない結末の話は、近頃は読みたくも観たくもなくなった。悲劇でも何か小さな救いが欲しい。


 →決してハッピーエンドではなくてもほのかな光が見えるものを書こう。



 等々、フンワリ抽象的な感覚ばかりだけど、そんな方向が私の欲しているものなのかな、と。


 が、果たしてこういった感じの話を、私以外に観たい読みたいと思ってくれる方がいるんだろうか……。

 

(了)

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 私の祖父は生前、大の相撲ファンだった。けれど心臓を患ってから、生で観戦することはドクターストップがかかっていた。どうしても観たいとあれば、ニュースなどで勝ち負けがわかってから録画を観るように、とのこと。

 
 その話を聞いたとき、気の毒に思ったものだった。相撲が好きというのは、贔屓力士が勝ってほしいという思いもあるが、どちらが勝つか負けるか、ハラハラドキドキするのを含めて好き、ということだと思うからだ。相撲に限らず、スポーツ好きは、みなそうじゃないだろうか。
 
 けれど、最近祖父の立場が少しわかるような気がしている。
 
 もう何十年にも渡りプロ野球ファンの私だが、贔屓チームは変わった。けれどそのチームの勝ちを願って観ているのは同じ。先発が打たれたり打線が沈黙させられたり、あるいは先制しても逆転されたり、はたまた1点差で薄氷を踏む思いだったりは、かなりストレスがたまる。
 
 一番面白いと言われる「ルーズベルトゲーム」なんかもう。これは8-7とか7-8のシーソーゲームのことだけど、それが面白さを通り越してそれこそ心臓に悪い。逆転に継ぐ逆転のたびに、大喜びをしたり崖から突き落とされたり目が点になったりする。
 
 ……スポーツ観戦って、身体に悪くない?
 
 ハラハラドキドキするのが醍醐味。それはよくわかっている。でも、……言いたくないけど歳のせいなのかなあ。ハラハラドキドキに疲れてしまって夜よく眠れないとか翌日立ち上がれないとか、何かこう、若い頃のように単純に楽しむだけ、それでおしまい、という感じではなくなっている……。
  
 できれば安心して観ていられる試合をやってくれないかな……序盤に3点くらい入って中盤に1、2点の追加、終盤にはダメ押し。そしてピッチャーがピシャリと相手を沈黙させる、みたいな。まあ、いわゆる一方的、というやつ。
 
 そんなの、スポーツファンとしてどうなの、と自分でも思う。
 
 でも、最近のプロ野球、本当に実力が拮抗してきたように思う。どのチームも結構強いし、しつこいし、5,6点ではセーフティリードとは言えない。だから本当に何が起こるかわからないのだ。勝っていても負けていても、最後まで気が抜けない。毎試合毎試合面白すぎる。
 
 そのハラハラドキドキに耐える体力がなく、野球観戦で消耗しすぎて仕事も家事もおろそかに。そんなんでいいのか、私。
 
 スポーツは生でしょ。録画で観るのはつまらないでしょ。とずっと思って生きてきたけれど、そろそろ考える時期にきたのか……要自分ドクターストップ?
 
 いやいや、でもでもやっぱり生観戦はやめられない。
 
 で、心臓に悪くないよう、危うくなったらチャンネルを替えたり片付けものに立ったり、逃げながら観る。
 
 でもこのやり方、観ていない間に贔屓チームがものすごい大逆転をしてくれたりすることもあるんだなあ。それを見逃した悔しさといったら、また身体に悪い。
 
 と、バカバカしい悩みを日々繰り返しておりますが。
 今月久し振りに球場へ行ってきます。
 ……神経、もちますように。
 
(了)
 
 
 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 7/24に4時間半にわたって放映していたこの歌番組。


 たまたまオンタイムでダラダラ「ながら見」をしていた。いつもは録画で見たいところだけつまみ食いしていたもので、ここ何年もちゃんとラインナップを追いかけていなかった。

 

で、思った。いつの間に歌謡番組ってこんな風になったのだろう?

 

前は(一体どのくらい前のことか……感覚がない)、人気ドラマ主題歌とかCMとか、流行ったポップスが主流じゃなかったっけ?

 

今回(最近?)、ものすごくミュージカル比率が高かったように思う。舞台慣れしているファンの方には、どれも馴染みのある有名な歌ばかり、の模様だった。


でも、それらはテレビでチャンネルを合わせたら観られるわけじゃなく、どこかの舞台へ出かけていってお金を払ってしかも期間限定。ものぐさな私には敷居が高く、だからこういう企画はとても楽しかった。

 

中でも。何を隠そう、ごく最近宝塚にハマった身としては、雪組の皆さんの出演が、泣き叫ばんばかりに嬉しかった。

 

DA PUMPと一緒に「U.S.A」を踊るジェンヌさん達のきらびやかなこと。驚異的な足の長さ。キレも色気も優美さもあって。彩風咲奈さんの最後の決めの流し目なんか反則的なカッコ良さ……危うく卒倒するところでしたよ。


大勢のジェンヌさんが集まったり捌けたりするときの、その小走りの位置取りや後を託す手つきがまた好きなのだけれど、それも目一杯堪能できたし。

 

 そして、「エリザベート」の「闇が広がる」を披露してくれたのは、雪組トップの望海風斗さんとミュージカル俳優の山崎育三郎さん。

 

 実は私、ルドルフ皇太子が闇の帝王トートに煽られ追い詰められていくこのシーンを、最近繰り返し繰り返し観たばかりだった。私が堕ちたジェンヌさんがこのお役の経験者で、それを観たくてちょうど知り合いからDVDを借りていたところで。

 

なので、ものすごく見入ってしまった。望海山崎のお二人は、この演目のルキーニという別のお役の経験者(山崎さんは現在公演中)だけど、ここでは底冷えのするトートと、純で無垢で今にも崩れそうなルドルフ。演じる方によって同じ役でもだいぶ違うと感じた。それがまた面白くて、望海トートも観てみたい、と熱望してしまったのだった。

 

というわけで、ちょっと前までは出かけなければ観られないものはあまり手が出なかった私であるが、今回のFNS歌謡祭を見て、「天使にラブソングを」もいいなあ、「レ・ミゼラブル」も観てみたいなあ、もちろん宝塚は最優先で出来れば全組を、とか手に負えない欲望が次々沸き立ってしまったのである。正直そういう方、多いのではないか、もしくは最近のFNS歌謡祭はそれが目的の番組なのか? と、うがち見。

 

ちなみに了見の狭い私は、こんなにテレビで大宣伝されたら、ただでさえチケット難なのに、とヤキモキしてしまったのだが、そこはやっぱり初心者。ツイッターなどを見る限り、長年のミュージカルファン&宝塚ファンの方々は、たくさんの人が興味を持つことを喜んでいた。

……真のファンとなるには、まだまだ修行が足りません。

 

(了)

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 応募したコンクールの一次通過者が発表になっていた。見事に落ちていた。

 

 落選の経験は、たぶんギネス並みに多い。そんじょそこらの方々と比べても、おそらく負けることはない。だから、そのショックにはもう慣れっこだ。

 

 ……なんてことはない。毎度毎度、いつものことなんだから長年経験してんだからいい加減慣れろよ、と思う。なのにやっぱりかなり落ち込むのである。傷つくのである。


 才能ないんだ、文章下手なんだ、世の中に訴えるものが足りないんだ。とか、どこどこまでも沈んでいく。物語を作るには結構な時間と体力がかかり、しかも思いを込めれば込めるほど衰弱する。それが読み手の人には全く響かなかった(この場合は一次の審査員)。それをつきつけられるのは、相当打ちのめされるのだ。

 

 「落ちる」というのはつらい。遠い昔の、入試に始まって部活のレギュラーとか、バイトの面接、就活もそうだ。

 

 就活。私の場合、新卒で就職した会社を辞めた後、いい年代になってパートで働こうとしていたときに、そのつらさを味わった。10とか20とか履歴書を郵送したのに、ほぼ全滅。「残念ながらご縁がうんぬん」のお祈り文書が返ってくるのはまだいい。履歴書だけが無言で送り返されたり、ひどいところは全く音沙汰がなかった。

 

 年齢だよね。相性だよね。人間性を否定されたわけじゃないよね。そう言い聞かせつつも、落ち込むのを止められなかった。


 当時は就職氷河期と言われ、若者が新卒で就職できずに鬱になるのが社会現象になっていたし、定年退職した高齢者の再就職も苦戦を強いられた頃。

 否定されることが続くのはものすごくこたえるものである。その気持ちのいくばくかは理解できると思った。

 

 最近ではチケット争奪戦。

 ぴあに抽選を申し込んだものの落選続きで、これは才能とか相性とか人間性とか全く関係ないのだが、やはり落ち込む。元々くじ運が悪いので、そろそろ良くなってくれてもいいんじゃないかと一縷の望みを抱くのだが、やっぱり三つ子の魂百までなのか……。

 

 こういうことから立ち直るにはどうするればいいのか。

 

 そのチケット。抽選に外れた後、気を取り直して先着順の分にトライした。それでゲット成功! 払込手続きを経て申込み画面に戻ってみれば、売り切れ。ものの5分のことだった。それで機嫌が直っている。

 

 パートのお仕事にしても、結局希望に叶わない部分もあったが雇ってくれるところに当たり、かなりの長寿勤務になっている。

 

 シナリオ、小説コンクールにしてもそう。落選から立ち直る一番の薬は当たること。しんどくても続ければそういうこともある。だからいまだ応募をやめないですんでいるのかもしれない、と思う。

 

(了)

 

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ドラマシナリオは、とにかく主人公を困らせるよう困らせるように書いていく。それが、面白くするための基本中の基本だと、シナリオ書きは初級で教わると思う。

 

そういう初心に戻って、不幸のてんこ盛りの状況を書いている。それは別に難しいことじゃない。殺すの殺されるの、ヒーローだの悪の帝王だの、そんなレベルまでいかなくても、身の回りにいくらだって転がっている。誰しも経験するような、共感の沸く不幸な出来事。そういうものを並べているうち、……ああ、交通受難の年というのがあったなあ、と思い出した。

 

何年か前のこと。三が日の最終日に東海道新幹線で出かけようとしていた。帰省ではなく、単にプチ旅をしたくなっただけ。下りの早朝ならラッシュにも巻き込まれないだろうと踏んだのだった。読みは当たり、切符は取れた。

 

ところが、その予約していた新幹線が止まった。悪天候とか車両点検とかではなく、線路すぐ横の建物の火事で出発できなくなってしまったのだった。

私の乗る電車の一つ前はもうそこを通り過ぎ、普通に動いていたというのに、その後は待てども待てども一台も発車せず。

 

東京駅は、飲食店にも地べたにも人が溢れ、大混乱となった。動かなかった電車の最初だった私と連れは、早々に飲食店を確保していたが、飲むしかやることがないのでお酒をかっくらい、「お客さんご機嫌ですね」とか店主に言われたが、ご機嫌であるはずもない。大混雑なのでトイレだって常に行列している状態だったのだ。何とか出発できたのは夕方。くたびれ果てて、こんなこと、もう二度と巻き込まれたくないわ、と思った。

 

が、それから2ヶ月も経っていなかった真冬。飛行機に乗るはずだった。蒲田に一泊して羽田の朝イチの便。

が、宿に入った直後。その機が欠航するとの一報が入った。雪がしんしんと降り始め、がんがん横殴りになってきて、嫌な予感はしていた。結局蒲田の一泊だけで帰宅し、トランクに詰めた荷物はすぐに解くことになった。こんなこと、一年に二度起これば十分だと怒った。

 

ところが二度あることは三度ある。その年は雪の当たり年で、めったに降らないうちの近所にもやたらに降った。大きな川が近く、それを渡る橋の雪かきが追いつかず、通行止めがあちこちに。高速道路のランプも同様。あちこち野暮用があったのだが、車の移動はほぼできない状態となった。

 

その前後か、通勤に使っていた電車が全面的に止まった。設備点検か人身事故かもう忘れてしまったが、何時間という単位でストップ。時給で働いているので、その遅刻分は収入減。もう怒りも起こらず、笑うしかない。

 

……と、こんな実体験があるので、そのうち、次々と交通受難に遭う主人公の話を書けるな、と思っている。


でも、事実なんだけど、ドラマにするとウソっぽくない? 主人公が困るよう困るよう仕向けている感がわざとらしくない?

 

野球で9回2アウトから大量逆転。実際起こっているそういうドラマも現実だから背筋が震える。でも、作り事のなかにそのまま入れると、逆にドラマチックすぎて作りすぎ感がプンプンしてしまう気がする。


同じように、使い方は要注意かも、と思っている交通受難の実体験でした。

 

(了)

 

 

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 好きでなったわけじゃないが、今や立派なマニアの域。


 シナリオ、小説のコンクール投稿歴四半世紀、応募した数延べ100作品超。こんな履歴を持つ私、どの分野だとしても大ベテランと評される身分だと思う。

 

 まあ全然褒められたものではない。もう落ちるの、飽きた。というのが本音。


 これだけの年数、モノになっていないのだからダメなんだろうな。これを友人や知り合いに相談されたとしたら、答えると思う。次行こう、次、と。

 

 けれど、やめられなかった。踏ん切りがつかなかった。

 

 もちろん、どこかで受賞してそこで経験を積んで、今の年頃には、そこそこ何冊かでいいから、世に出るものを書けている心づもりだった。だけどこれだけ投稿して、一次通過が16回、二次通過は3回。受賞したことも6回あるが、その後にうまくつながっていない。世の中にこんなにコスパ悪いものがあるだろうか、ってくらいの確率だ。

 

 ちなみにこの投稿記録はエクセルで表にしてあり、2枚目がもうすぐ終わる。ズラッと並べて悦に入っているわけではなく、以前どこに何を出したかを忘れてしまうため。

 

 気に入った出来だけれど落ちた分は、シナリオから小説、小説からシナリオ、シナリオならテレビ←→ラジオ、あるいは短編小説から長編小説へと書き直して別のどこかへ送る、というようなこともやって来た。その際、巡り巡って同じところへ同じものを出したりしていないだろうか? という、ボケ防止用である。

 

 そんな中での経験則。

 

①ダメなモノは投稿するときに既にわかる。~仕上げたはいいものの、どうも余韻に浸れていない、自分自身が何か冷めた目で「とにかく終わらせただけ」みたいな気分でいるとき。これは確実に一次落ちである。

 

②書いた手応えがある。とても入れ込んで何度でも手を入れたくなる気になるとき。~これは脈あり。ただし、コンクール側の趣旨や好みもあるので、受かるとは限らない。落ちても別のコンクールに応募する価値はあり。

 

③①の部類のモノは決して受からない。けれど②だって受かるとは限らない。ただ、受かるモノは、②の中にしかない。

 

 コンクールのために書いているわけじゃないが、つまりそういうこと。自分自身に手応えを感じるようなモノを書きたいと思い続けている。

 

 今や、コンクール応募の第一目的は受賞ではなく、「そこまでに書き上げる」という、とにかく作品ひとつ仕上げるための締切とさせてもらっている。もちろん受賞できたらいい。受賞できると、次また書きたいというモチベーションがいっそう強くなるから。

 

 そんなこんなで習作を書きためている日々である。

 

 投稿マニア。そう言ってもいいのかも。

 

 近々このブログ、そういうタイトルに変えて、その迷走ぶりを顧みてみようかと思案中であります。

 

(了)

 

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 日経新聞で気になったエッセイがあった。河合香織さんというノンフィクション作家の方が書かれたものである。

 

「行間を読まない幸せ」というタイトルの、「過剰に行間を読む行為は信頼と自信の欠如ではないかと思う」、というところ。


 その例として、知り合いのお別れの回に、「平服で」と言われたにも関わらず、黒いワンピースで出かけた、とある。でも、多くの参加者は黒でなく思い思いの色を着ていた。故人に対する思いを自分の心のこもった言葉で捧げていた。そのように、平服でとあれば平服でいい。行間を読む必要なんてない、と。

 

 ああイタイ、と思ったのだった。私も、お葬式に「平服で」と言われて迷い、失敗した経験があるのだ。

 

 私の場合は、そう言われたんだからそうしなければならないのだろうと、逆に困った。その一言がなければ、当然喪服を選んだろう。アラフィフにもなると、いつそういうお知らせがくるかわからないものだから、シーズンを通して着られる喪服、バッグ、数珠、靴、パールなどをセットでスタンバイしている。


 ところがそれを着るなと言われると、クローゼットをひっくり返すことになる。黒っぽくてくだけすぎず、それでいて平服っぽいもの……って、どうすんだっ!

 

 結局、古~い白いブラウスに、もしや毛羽立ってないか? 的な黒のタイトスカート。ファッションセンスのかけらもないおばちゃんスタイルで出かけたのだった。

 

 ところが。


 その「平服で」とおっしゃったご本人が喪服だったのである。そして他の方も、殆どきちんとした喪服。そんなちんちくりんな間に合わせの恰好をしていたのは私一人だった。喪服を持ってないわけじゃないのよ~! と声を大にして言いたかった(泣)。

 

 河合さんは「自由な精神の基底には他者への信頼があるのだろう」と書かれていたが、私はこの件で「平服で」とおっしゃる方への信頼をなくした。その後何度か言われたことがあったが、決して平服で行かなかった。というか、そう言われるときは、イコール「平服で行ってはいけない」と変換して受け取るようになってしまったのである。


 まさに行間読みまくり。信頼というのはどこでどう培われ失われるのかわからない。油断大敵である。

 

 ところで、「平服で」の話になると思い出すのが、昔の「キャンディ・キャンディ」というマンガである。


 主人公のキャンディが、イギリスの学園に留学したてのとき。礼拝時には黒の制服を着なければならないのに、意地悪なイライザに、授業用の灰色の制服を着ていくようハメられる場面があるのだ。

 

「平服で」の一言は、キャンディのように嫌がらせに取られてしまうこともあるんじゃないかと思う。もちろん招待客のことを思いやっているからこその一言なのだろうが、私みたいな思慮の浅い人間は、かえってひねくれてしまうこともあるのである……。

 

(了)

 

 
 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~