東野圭吾さんの小説「宿命」の解説にあった。最後の一行を書きたくて書いた話だと。
文庫本一冊の長さだ。腐れ縁の二人の男の長い年月の物語だ。それがその一行に集約され、幕を閉じる。
初めて読んだのは相当昔なので、当時の自分の詳しい感想は覚えていないが、その意外性に切なくもホッとしたように思う。
宮部みゆきさんも、話は決まっていないラストのストックがいくつかあるという。山崎豊子さんの最後が決まらないと書けない、との一言も見かけた。
これらのことは、自分が物語の創作を始めてみてからとても身に染みるようになり、よく思い返す。
最後の一行じゃなくてもいい。物語の結末でなくても。こういうシーン、この一言、その一行を書きたい。そういうひらめき、思いが、物語を書ききるための勢いというかエンジンみたいなものになる。自分みたいな物書き見習いにでも、そこへ向かうことですべての神経が研ぎ澄まされる感じはわかる。
これまでいくつもの物語を書いてきたが、それがなかったものは大抵失敗している。途中であちこち脱線し、迷走し、放り投げた物も数知れず。何とかエンドマークをつけることができても、自分自身読み返したいと思わないほどに思い入れがない。
本当に少ないのだが、これという最後の一行を書きたくて書き始めた物が、自分にもあった。これは強かった。
調べものが面倒だったり登場人物に嫌気がさしたり途中もたもたする展開に整理ができない自分の頭を恨んだりと、必ずどこかで突っかかるのは他の作品と変わらなかったのだが。
とにかく「その一行」が書きたくて、そこに向かって働く復元力や推進力がものすごいのだ。最後にその一行が来るのだからそれを際立たせる伏線をこっちにもあっちにも入れて。それを言わせる人物はこういう性格にして。だからこういうことが起こって脇にはこういう人が必要で。
といった具合に、ただ漫然と結果もわからず書いているよりずっとクリア。ものすごく張りがある。
自分の場合、「その一行」「そのシーン」はずっと頭にだけ置いておいて、そこに辿り着くまではわざと書かない。すぐに萎えて挫けてしまう自分に、人参としてちらつかせるのだ。そしていよいよそこに到着した時の達成感といったら……!!
脳内再生でヨダレが出てしまった。
何せ、そうそうできないのだ、これが。書きたくなりそうな景色、言葉、イメージ、ニュースなど、ガンガン羅列してはみるのだが、自分の度量と推し量り、膨らんでいかないものも多い。……というか、ほぼ8割方ダメじゃん……、と、ネタ出しの時点で嫌になることが多い。
それでも残り2割を求め、「その一行」を探して、今日もあちこち目をこらしている。あの超強力エンジンの中毒患者なのである。
(了)