石の上にも○○年~物書き志望女のひとりごと -34ページ目

石の上にも○○年~物書き志望女のひとりごと

日常で気になったことや、長い物書き志望歴で思ったことをランダムに綴ります。

 企業ぐるみで何か悪いことをしたというニュースが出ると、会見で偉い人が頭を下げる。

 

 そういうのを見ると、「そうよ、偉い人はこういうことをするために平社員より高いお給料をもらうのよね」と思ってしまう。

 

 なぜこんな発想になるかという理由は、派遣社員だった○十年前まで遡る。

 

 その頃はまだ派遣という働き方が世間にあまり認知されておらず、パートとの違いもよくわかっていない人が多かった。そして、パソコンという機器も会社に導入されているか否かは半々くらいの時代だったと思う。

 

 私の場合、たまたま最初の就職先でパソコンを使ったため、そこを退社した後も「パソコン使えます」とアピールでき、そういう人材が少なかったので派遣先に不自由しなかった。

 

 そんな中の一つの会社でのことである。とてもたくさんのパート女性がいた。彼女達はみな親切で、新しく入った私に仕事の流れとパソコンの使い方を教えてくれた。

 

 といっても、パソコンは在庫の数を入力する、というだけ。彼女達にとってパソコンは数字を打ち込むだけの、つまりフォーマットの決まった用紙に書き込むのと同じ作業だったのだ。

 

 私はエクセルでそれを集計したリ、グラフを作ったりまでが一応仕事の範囲だったはず。でも、どうしてだか忘れたが、そこまで要求されることがほとんどなかった。

 

 というわけで、パートさん達と仕事はあまり変わらない毎日だった。でもあちらは「パート」、こちらは「派遣」。ある日パートさんの1人に、「何が違うのかしら。お給料? 時給いくら?」と、無邪気に尋ねられて詰まった。

 

 パートさんと派遣さんの時給はかなり違う。そうわかっていたので、控えめに「××円です~」と言ったら、その方のみならず、聞こえた全てのパートさんが固まった。その皆さんの顔に「同じ仕事なのにどうしてええ?」という文字が張り付いていた。

 

 そのことで彼女らの親切が悪意に変わったりとかはなかったが、納得いかないという雰囲気はピリピリと感じた。とても肩身が狭くて小さくなった私。

 

 でもあるとき。

 パソコンがフリーズした。データも吹っ飛んだ。そのときキーボードを触っていたパートさんはオロオロ。

 

 私はパソコンを立ち上げ直し、バックアップしてあったデータを全てコピーして元に戻した。パソコンを触ったことがある方なら、そういったリカバーは普通にできると思う。それをやっただけなのだが、パートの皆さんの目がまた変わった。「ああこういうときにこういうことができるからその時給なのね」と。

 

 普段は他と変わりなくても、いざというとき何かするために。そういう義務があるから時給が高いのだ。肩身が狭いとか小さくなっている場合じゃなく、そういう自負と責任感を持つべきだった。それが身に染み、背筋の伸びた一件だった。

 

 だから、役職や肩書だけで高いお給料をもらい、有事の際に収拾も謝罪もしないなんて上司を見ると、脱力してしまう。そしてそういう方、決して少なくはないなあと思う。

 
(了)

 

 
 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 プロ野球ファン歴、〇十年近く。

 応援といえば、その系統しかしたことがない。

 

 その私が、宝塚にハマった場合。

 応援の仕方がわからない。

 

 プロ野球も、〇十年前と今とではだいぶ応援の仕方が変わってきている。

 

 昔は、主にヤジだった。

 

 剛速球を投げて空振りさせてくる敵ピッチャー、この土壇場で逆転打を打ってくるのか、という敵バッター。もう憎たらしいわ、悔しいわで、「おらおらノーコン、ストライクを投げてこいや!」だの「今日は4タコでいけ、空振りしろ~!」だの、えげつない品のないヤジを飛ばしたものだった。

 

 贔屓チームの選手にですら、凡退すると「たまには打てよ、ヘボバッター! 目ついてんのか!」、肝心な時に打たれると「4ボールばっかり出してんじゃねーよ、だから勝利投手になれないんだよ!」とか……感情をむき出しにぶつけたものだった。

 

 今では、そんな口汚いののしりみたいなヤジはあまり聞かない。というか、かなり顰蹙かもしれない。

 

 最近は球団ごとに応援スタイルがあり、拍手で盛り上げたりダジャレや似顔絵の描かれたタオルやグッズを規則正しく振ったりする。また、選手ごとに登場曲や応援歌があったり、誕生日だったら「ハッピーバースデー」が流れたり、チャンスのテーマでジャンプやウエーブを行ったりするのだ。自作のスケッチブックで贔屓の選手への愛を込めたメッセージなどを掲げる人も多い。

 

 まあそれでも、叫ぶわ手をたたくわ、グッズ振り回すわ、プレイに興奮すれば立ち上がり見知らぬ周りの方々とハイタッチを行ったりする。とにかく野球の応援は、今昔を問わず、賑やか、騒がしい、落ち着きがない。

 

 そのノリで、宝塚に誘ってくれた知り合いに尋ねた。


「〇〇さん、ラブ! とか書いた垂れ幕作ってっていい?」

「似顔絵と愛称を描いたうちわを振ってもいい?」

「きゃー、〇〇さん、すてき! と掛け声かけていい?」


 ……すべてやんわりボツをいただいた。

 

 そうよね、お芝居やショーなんだから、その進行を妨げるような応援はだめよね……。しかも野球のノリじゃ、あまりに騒がしく場違いだし。

 

 でも、拍手はいいらしい。


 初心者である今のところ、どのタイミングで手を叩いたらいいのか、まだ慣れていないのでわからないけど、「拍手が起こりかけている?」と感知したらとにかく叩くぞ、というスタンスでいる。

 

 ご贔屓のジェンヌさんに、熱い応援を届けたいのだけれど、やっぱり郷に入っては郷に従え。早くその世界なりの応援を習得し、お芝居やお歌やダンスに感動したことを伝えたい、と思っているのだが、……いつになるかなあ。

 

(了)

 

 
 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 物語にしてもエッセイにしても、何かを書くときにはどうしても調べ物が必要となる。

 

 例えば、物語の主人公を日本語教師にしたいと思った場合、学校の環境とか生徒それぞれの国の事情とか、外国人の間違えやすい言い回しとか。実際の日本語教師の方にお話を聞いたり、いろんな書物から引いてきたりする。

 

 エッセイにしても、例えば映画についての感想でも、当然その映画を観なくては書けないし、出演者や監督のそれ以前の作品と比較したくなることもあるから、その知識も欲しい。

 

 何かの名前や事柄をうろ覚えのまま書いて大間違いというスットコドッコイも、私の場合大いに考えられる。

 

 なので、一応誰かの目に触れる物を書くのなら、やっぱり確認したい、調べておきたい、と思うわけである。

 

 私の場合、調べ物が下手くそなので、とっちらかってまとまらないことが多い。めんどくさくなってしばらく放りっぱなしにしたため、読み終えていたはずの資料の内容をすっかり忘れてしまったこともよくある。

 

 なので、資料として選んだ本は、まずさっと一読、とはやらない。とにかく「使えそう」と思うところを、ページ数とあらましをメモしながらトロトロ読むのである。でもそうなると殆どの内容が「使えそう」な気がして、ほぼ丸写し、なんてこともあり、逆に何が何だかわからないメモ書きになったりもする。

 

 これをどうやって整理して使うか、が、私の永遠の課題なのだろうと思う。

 

 調べたことは使いたくなってしまう。だからたくさん調べたら、もったいなくて全てを、つまりたくさんの説明を並べ立ててしまう状態に陥ってしまう。

 

 読者としての自分を考えた場合、こういう本はなかなか読み進めなくて、大体途中で挫折する。説明が多すぎて、気になるストーリーの展開や人物の感情が、その間止まってしまうからである。あくまで読解力の弱い自分の場合であるが。

 

 そう感じてからは、調べたことの3割くらいを使うのがいいのかな、と思っている。というより、「日本語教師の話を書こう」と思ってそれらについて調べ始めるよりは、「言葉のあやにこだわる話」を目指すためには、主人公の職業が日本語教師だとハマリそうだな、だから調べてみよう、という立ち位置の方が自分の場合いいような気がしている。

 

 そして、最近は昔に比べ、ネットで調べられることが多いのが楽。でも 物足りないこともあるし、紙じゃないと頭に入りにくい気もする。


 だから単純なことはネットでもいいが、もっといろいろ深く、と思ったら図書館へ行ってあれこれ物色し、自分の読みやすい資料を見つけたい。でも欲張って10冊ギリギリまで借りても、相性が悪くて結局ほとんど見ない本もある。

 

 そして、以前も書いた通り、「読書体力」が最近急降下している。資料読みの効率は悪く、書き始めるまでにかかる時間は増える一方。焦る時間も増える一方。


 そうすると、書く意欲もどんどん下がってくるので、調べながらざっくりあらましを作る、ストーリーを書き始めながらまた調べる、とか毎回流れが変わる。この辺の案配は試行錯誤だなあ、と思っている毎日である。


(了)

 

                     

 

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 
大変昔のドラマで恐縮だけれど、「太陽にほえろ!」という、名作があった。

見たことはなくても、マカロニとかジーパンとかゴリさんとか殿下とか、面白いあだ名で呼び合う刑事達のドラマだったことは、よく知られていると思う。

刑事という仕事の誇りと信念。起こる事件を通して人間の強さ弱さ、情や欲などをあぶり出していた優れ物。
 
とても好きだった。毎週欠かさず見ていた。子供の頃は「ボンボン刑事が好き」だから見ていたに過ぎなかったが、今ケーブルなどで再放送されているのを見直してみると、本当に良くできた奥深いドラマだったと感心する。
 
それでも、このドラマで好きじゃなかった点がある。今の時代からすれば袋叩きに遭いそうなことだから、おそらくそう思ったのは私だけじゃなかったのだろう。
 
刑事の仕事に一途な余り、家族が後回しになるという点である。
具体的には、山さんが奥さんの死に目に駆けつけない、長さんが娘の結婚式に間に合おうとしない、など。
どちらも、行こうと思えば行けた。同僚に任せても構わないのに、自分がやらねば、と、仕事場を離れなかったのである。
仕事では代わりはいても、夫や父の代わりはいないのに、である。
 
これが美徳と思われていた時代だった。仕事が第一、家族を愛してはいるが仕事の方が優先。男の美学だったのだろう。
 
が、うちの母や私は女である。いざというときに父が駆けつけてくれないとしたら、と、ブーブー文句の嵐だった。
 
この頃は、世の中の風潮がそんなもんで、モーレツサラリーマンは当たり前、会社が一番家族は二番以降なのが普通の感覚だったように思う。「太陽にほえろ!」の脚本も、そういった感覚の方々が書かれていたのだろう。
 
ドラマも本もマンガもそういうのが多かったので、ずっと違和感があった。
 
私の中でそれが覆されたのが「リング」だった。
ラストで長い髪の貞子がテレビから這い出てくるシーンが有名なあれである。
 
私は映画もドラマもちゃんとは観ていないので同じなのかわからないが、原作小説では、主人公が家族を救うためにある決心をする。他の家族を犠牲にするという、めちゃくちゃ自己チューな決心である。
 
「太陽にほえろ!」では、世の人々を救うために家族は犠牲に、あるいは我慢を強いられていた。が、「リング」では全く逆。この行動に、私は大いにスカッとしたのだった。
 
今となっては、ちょっと自己チュー過ぎないか、ってくらいエスカレートしている部分もある時代になったとも思うが。
集団より個を重んじるという風潮に、この頃から変わってきた……「リング」がその境目だったんじゃない? とは、私の勝手な持論です。
 
(了)

 

 
 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

  ツイッターを眺めていたら、「読書体力」なる言葉が流れてきた。

 

 長文が読めない。目が滑る。内容が頭に入ってこない。元々読書好きだった方々の、本が読めなくなった嘆き。「読書体力」の低下だという。

 産後にそうなった方が多かったが、うつ病や老化でもあるとのこと。

 

 これだ。

 

 私も年々感じていたこと。

 産後でもなく、たぶんうつ病でもないので、おそらく最後のやつ。

 

 若い頃は一晩で1冊などはざらだった。特に学生のときの試験前になると(←×)めっちゃくちゃページが進んだ。漫画なら1日20冊、なんてこともあった。

 

 それが、今や字面を追いかけてはいるものの、どんな話か頭に入ってこないのが常。気付くと10行も20行も読み飛ばしていることもある。しばらくしてから、何でこういう展開になってるのかわからず、前に戻って読み返し、それを一度や二度でない回数繰り返して初めて内容を把握。以前の何倍もの時間がかかるわけで、面倒になって途中で放り出すことも増えた。

 

 私の場合、「読む」ではなく「聞く」ならこういったことは昔からあった。なのであまり深くは考えていなかったが……まさに老化による「読書体力」の低下、というやつではないか?

 

 主人公と一緒に冒険や謎解きや不思議な世界を体験する。物語のそれが好きだったのに、いつのまにかスンナリそっちへ行けなくなっていたのだった。気分転換・癒し・ストレス解消だったはずなのに、そこにたどり着くまでにストレスがたまる。当然、ノンフィクションやハウツー本にしても理解力が相当落ちている。

 

 思い起こせば、海外の映画を観るとき、私は断然字幕派だった。その役者さんの生の声が聞きたいからである。けれど最近は吹き替えばかり。字幕を追っていると画面に集中できないのだ。字を読むことが遅くなっている。字の内容を理解する力が衰えている。

 

 それでも寝る前には本を読まないと落ち着かず、手には取る。必ず章の区切りまで読んで栞を挟んだ昔と違い、12ページで寝落ち。どこまで読んだかもわからなくなって、翌日またさかのぼり、1冊読むのに一体何日かかってるんだか。

 

 読書は大体寝転んで読むスタイルだった。けれど最近はうつ伏せで読み続けるのが辛い。すぐに背中や腰に来る。それで横向けや仰向けで読むのだが、これが危険。こないだなど、ウトウトしたらハードカバーが落ちてきて、危うく顔面打撲するところだった。

 

 そんな読者だというのに、書くときは結構不親切な私かもしれない。なるたけ最小限の言葉で伝えたい。行間からこちらの意図を想像してもらいたい、などというスタンスで書いているのだから。

 

 文字で伝える難しさは痛感していたけれど、読み手の「読書体力」というものにも配慮したいなあ、と思う年頃のようである。

 

                        (了)

 

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 
マイカーをお持ちの男性が、奥さまが運転したときにガガガッと傷して凹ましてくれて、と嘆くのはよく聞く話。

私もそのパターンが何度かあったが、幸いにして(?)いつも車の主が他にもっと大きな傷をつけた後のことで、あまり嘆かれたことはなかった。

しかし、今回はかなり脱力されてしまった。

慣れていたはずの駐車場、バックで入るのもお手のものだったのが、すぐ側で下水道工事をしていていつもの軌道で入れなかった。少し大回りした結果、思わぬオブジェに激しく引っかけ、右後方が哀れなことに。

傷自体は、まあ見栄えは悪いが気にしなければ良い、くらいのもの(←いやいやいやいや……汗)。
が、たまたま何やらセンサーというのが内蔵されている位置で、追い越してくる車両を検知する機能が作動しなくなってしまった。

修理に十万くらいかかると言われ、その機能要る? とか逃げ腰の考え中だったまさにその最中。

出先の駐車場で当て逃げされた。全く同じ位置に、重ね着みたいに。
ディーラーさんに呆れられ、完膚なきまでに壊れたセンサーは取り外されてしまった。

その後、1週間も経っていなかったと思う。
車の主自身がやってくれた。派手にガガガガーッと塀に擦り、左半身がボッコボコに。

こうなったら潔く修理に出すしかない。観念して予約し、その工場に向かっていたときだった。
いきなりパーン! との破裂音がしたかと思うと、前進するごとにガコンガコンガコンとの異音と異常な上下動。

止めて確認してみたら、……パンク!!
何ですと? つい先だっての定期点検で、タイヤに関してはお墨付きをもらったはず。

その工場まであと1キロくらいのところだった。電話して来てもらった……。どうも何かを踏んで穴が開いたらしい……何? 何なの、フツーの道路の真ん中に。←結局確認できず。

で、この車、本当に可哀想な状態で、工場に引き渡し。こんなに傷だらけにしてしまったのは初めてのこと。

修理に2週間かかった。戻ってきたピッカピカの彼(彼女?)を見て、大事にしよう、と新たに誓ったのだった。

(了)


~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 先日、漫画に対する自分の執着が、あんまり一般的じゃないのかな、と思ったことを書いた。

 

 考えてみれば、漫画だけじゃないと気付いた。それは最近ハマッた宝塚の観方で思ったことだった。

 

 DVD、最初は全体の筋を追うのに精一杯だったのが、ご贔屓のジェンヌさんができるとその出番を繰り返し繰り返し観るように。そのうちそのお役の役割だったり気持ちだったりが自分なりにわかってくる。(←一度でわかれよ、って話だが)

 

 そして、表情、目線、言い回し方、指先までの動き。「ここのこれがいい!」といったお気に入りシーンができる。それをまたも5回も10回も観直す私は大丈夫か? と自分でも心配になるほど飽きずに繰り返す。

 

 やがてそのシーンの歌が自動的に暗唱され、無意識にところかまわず(電車の中とか通勤路とか(汗))歌っていたりする……何なら多少振りなどもつけて。ちょっと危ない人に見えること間違いなしである。

 

 宝塚は、結構大人数の場面が多いので、そのお気に入りのシーンを観ているうちに、ご贔屓さんだけではなく、他にも「このジェンヌさん、気になる!」となる。ご贔屓さんばかり見てたときは見過ごしていたこの方はどんなダンスや演技をしているのだろうか、と興味が広がり、別の視点で観たくなる。で、また同じDVDを全体を通して観るところから始まる。はい、スタートへ戻る、なのである。

 

 何度観ても飽きないどころか、次々と発見や発掘を繰り返し、どんどん膨れ上がっていく再視聴の欲求。どれだけ時間があっても足りない……そして家事や睡眠時間が削られていくのである……。

 

 そういえば。ドラマや映画の観方もそうだったと思い出した。

 

 好きな俳優さんの出ているドラマなり映画なり。録画やDVDを繰り返し繰り返し観ていたっけ。そのセリフや動きやBGMを完璧に覚え込んでしまうほど。

 

ドラマなら再放送のときに、映画ならテレビ放送されるときに、カットされる部分がある。それに気付いてしまうのである。また、洋画だったらチャンネルによって吹き替えや字幕のセリフが微妙に違ったりする。で、これはあっちの訳の方が合ってるよね、だとかを思う。

 

 何かもう、嫌がらせかってくらいの域の、重箱の隅人間なのじゃなかろうか、と不安になっている。

 

 ただ、作る側――物語を書く立場で考えると。そういう風に細かく読んでくれる誰かがいたら嬉しいな、と思うのである。セリフの一つ一つ、積み重ねるエピソードの一つ一つをめちゃくちゃ考えて作っているわけなので。読むのは普通一瞬で終わってしまうそういったところに引っかかってくれると、考えた甲斐があるなあ、と。

 

 なんて、自分の執着心がフツーじゃないかもしれない、という不安を、強引に前向きに捉えてみました……。

 

 

(了)

 

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 子供の頃、ある本を求めて一日中町の本屋を探し回ったことがある。


「ドラえもん」最終巻だ。


 と言っても、それは当時の都市伝説に踊らされたもの。「ドラえもんというのは、交通事故で植物状態になったのび太が見ていた夢だった」という、夢のない噂である。


 でも、私はそれがどんなものなのかどうしても確かめたくて、その後1年ほども時間があれば探した。本屋があれば必ず入って探した。とにかく探した。結局はなかったけれど。


 粘着質で諦めの悪い性格なのだ。


 それはその少女時代から大人になってもあまり変わらない。勉強とかジム通いとかはあっという間に飽きるのだが、こと漫画に関してはかなりの執着があった。


 それはそれはたくさんの漫画を読んだけれど、そのほとんどが借りたもの。小遣いやりくりのため、買うのは厳選に厳選を重ねたものだけ。で、それらはお気に入り中のお気に入りであるから、読み返す回数も激しい。ストーリーはもちろんのこと、セリフも頭に入ってしまったし、絵柄はトレーシングペーパーで写して下敷きに挟んだこともある。だから、この場面ではこの人の手の指が6本ある、などと細かい突っ込みもしょっちゅうだった。


 さすがにあまりに読みつくしたので、知り合いに売ったものもある。が、当時の漫画は何十年か後に文庫化という罠をかけてきた。見事ハマッて大人買い……。


 読み直してみて驚いた。覚えているのである。文庫化に当たり、時代に合わせてセリフが直されていたり、当時カットされたページが組み込まれていたりと、さりげない変化があった。それを、「ここが昔と違う!」と、即座にわかってしまう私……。オタクというには修行が足りないけれど、フツーとも言えないのではないか、と悩んでしまった。


 そういえば、子供時代の「厳選」の仕方だが。


 借りて読んだのは大体当時の流行りだった。中で、ストーリー展開も絵柄も好きだと思ったものだけ買った。そして、それを書いた漫画家さんの他の作品を探し回ってはあらかた買い揃えた。つまり、気に入るとその方の書いたもの全てが読みたくなってしまうのだ。


 それは小説も同じだった。音楽もそう。同じ作者のもの、アーチストのものを熱狂的に追う。


 が、最近はもう、そういう激しいお気に入りができなくて、流行りのうわずみだけスルッと通り抜けてすぐ忘れる、ということが増えた。あの頃のようにめちゃくちゃこだわって小遣いと相談、足を棒にして探し回る、といった気力がなくなった。言いたくないが、歳か……。


 と思っていた。けれど、最近宝塚にハマってみて、違うと気付いた。そういう体質は三つ子の魂百まで。「好き」と思えばどうにかしようとする根性が座る。


 そういう努力は疲れもするけど、楽しさは計り知れない。そんなことを思い出している、今日この頃である。


(了)

 

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 書くネタに行き詰まると、昔誰かに言われた言葉を思い出す。

 

「自分が観たい、読みたいと思うものを書けば良いんだよ」

 

その通りだと今は思う。

 

 ほとんど仕事とは言えない頻度でしか実現しなかった漫画原作の経験を思い出すと。


 とにもかくにも「報酬をもらう」ので、自分の読みたいものとか言っていられなかった。掲載雑誌のターゲットとなる年代、性別に向けての発信が大前提。しかもウケないと次回ページがもらえない。

 

 そういうのが窮屈だという方もいらっしゃるが、私の場合、「縛り」とか「課題」みたいなものがある方が書きやすかった。その方が自分の中にこんな思い出があった、こんな気持ちを持っていた、などを思い起こさせられるから。


 ただ、それが自分に合っているジャンルならいいのだが、その頃の私の場合、どうも何かちょっとズレていて、おそらくその雑誌のターゲット層からすれば、あまり興味のない方へない方へと進んでいったような気がする。


 具体的には、主婦がターゲットだってのに、女性自動車整備士の話を書いたりして、それはボツにはならなかったけれど、きっとアンケートはビリッけつに近かったんじゃないかと想像している。

 

 で、そういう制約がなく何でも書いていいとなると、逆に自由すぎて何も出てこない。それで唸っていると思い出すのである。


「自分が観たい、読みたいと思うものを書けば良いんだよ」


 そうだよね、とパソコンに向かい直す。で、思う。さて、私が観たい、読みたいものってどんなの?

 

 ①歳のせいか、またはやたらに雑事に追われる生活をしているせいか、最近は長い物語についていけなくなった。


 ちょっと前は、「3時間の映画は長すぎて疲れる」と思っていたのだが、今は2時間でも長いと感じることが増えた。1時間ドラマですら、やれ「お湯が噴いた」「新聞の集金」とかで中断し、一気に観られず翌日に持ち越したりで、内容が頭に残らない。


 →とすると、30分~1時間くらいで完結する短編を書くのが私の求めるもの? 

 けれど、短編というのは設定や人物像を都度都度新しく作らなくてはならないし、オチがストーンと落ちないとスッキリしない。長編とは違う難しさがある。

 

 ②小説や漫画も、気付くと寝落ちしていてることが増えた。決してつまらなくはなくむしろ先が気になるのに、である。再開したとき何ページも戻らないと筋も人物も忘れている。


 →とすると、キャラをハッキリ印象的に、いつ出てきても「これはあの人だ」と読み手がすぐに思い出せるように書く、とか。

 また、伏線を入れたなら、それが忘れ去られてしまわないよう、何度も繰り返し出してみる、とか。


 →けど、自分の中での目標がひとつある。必要最小限の言葉で伝えたいという。それに反しないかな? しつこくないかな。しゃべりすぎじゃない? とか悩ましい。

 

 ③そしてあまりにも救いようのない結末の話は、近頃は読みたくも観たくもなくなった。悲劇でも何か小さな救いが欲しい。


 →決してハッピーエンドではなくてもほのかな光が見えるものを書こう。



 等々、フンワリ抽象的な感覚ばかりだけど、そんな方向が私の欲しているものなのかな、と。


 が、果たしてこういった感じの話を、私以外に観たい読みたいと思ってくれる方がいるんだろうか……。

 

(了)

 

 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 私の祖父は生前、大の相撲ファンだった。けれど心臓を患ってから、生で観戦することはドクターストップがかかっていた。どうしても観たいとあれば、ニュースなどで勝ち負けがわかってから録画を観るように、とのこと。

 
 その話を聞いたとき、気の毒に思ったものだった。相撲が好きというのは、贔屓力士が勝ってほしいという思いもあるが、どちらが勝つか負けるか、ハラハラドキドキするのを含めて好き、ということだと思うからだ。相撲に限らず、スポーツ好きは、みなそうじゃないだろうか。
 
 けれど、最近祖父の立場が少しわかるような気がしている。
 
 もう何十年にも渡りプロ野球ファンの私だが、贔屓チームは変わった。けれどそのチームの勝ちを願って観ているのは同じ。先発が打たれたり打線が沈黙させられたり、あるいは先制しても逆転されたり、はたまた1点差で薄氷を踏む思いだったりは、かなりストレスがたまる。
 
 一番面白いと言われる「ルーズベルトゲーム」なんかもう。これは8-7とか7-8のシーソーゲームのことだけど、それが面白さを通り越してそれこそ心臓に悪い。逆転に継ぐ逆転のたびに、大喜びをしたり崖から突き落とされたり目が点になったりする。
 
 ……スポーツ観戦って、身体に悪くない?
 
 ハラハラドキドキするのが醍醐味。それはよくわかっている。でも、……言いたくないけど歳のせいなのかなあ。ハラハラドキドキに疲れてしまって夜よく眠れないとか翌日立ち上がれないとか、何かこう、若い頃のように単純に楽しむだけ、それでおしまい、という感じではなくなっている……。
  
 できれば安心して観ていられる試合をやってくれないかな……序盤に3点くらい入って中盤に1、2点の追加、終盤にはダメ押し。そしてピッチャーがピシャリと相手を沈黙させる、みたいな。まあ、いわゆる一方的、というやつ。
 
 そんなの、スポーツファンとしてどうなの、と自分でも思う。
 
 でも、最近のプロ野球、本当に実力が拮抗してきたように思う。どのチームも結構強いし、しつこいし、5,6点ではセーフティリードとは言えない。だから本当に何が起こるかわからないのだ。勝っていても負けていても、最後まで気が抜けない。毎試合毎試合面白すぎる。
 
 そのハラハラドキドキに耐える体力がなく、野球観戦で消耗しすぎて仕事も家事もおろそかに。そんなんでいいのか、私。
 
 スポーツは生でしょ。録画で観るのはつまらないでしょ。とずっと思って生きてきたけれど、そろそろ考える時期にきたのか……要自分ドクターストップ?
 
 いやいや、でもでもやっぱり生観戦はやめられない。
 
 で、心臓に悪くないよう、危うくなったらチャンネルを替えたり片付けものに立ったり、逃げながら観る。
 
 でもこのやり方、観ていない間に贔屓チームがものすごい大逆転をしてくれたりすることもあるんだなあ。それを見逃した悔しさといったら、また身体に悪い。
 
 と、バカバカしい悩みを日々繰り返しておりますが。
 今月久し振りに球場へ行ってきます。
 ……神経、もちますように。
 
(了)
 
 
 

~~以下の小説サイトに投稿しております~~

 ↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。

 

 

  エブリスタ

 

  アルファポリス

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~