どうもTVの話が続きますが、この間は一週間遅れだったので、
今度はもそっと早めに前回のTV東京「美の巨人たち」 のお話を(笑)。
取り上げられていたのは濱田庄司、陶芸家でありますね。
近頃になってようやっと「焼きもの 」にも幾分の興味を持って
目を注ぐようにはなってきたものの、訳知りなわけでは全くないものですから、
濱田庄司という名前を聞けば「ああ、民藝運動 の…」というくらい。
たまたまにもせよ民藝に関わる展示があるところで名前を見かけたからですが、
「民藝運動の…」という含みは「民藝運動で見出された」普段遣いの品を手掛ける陶工のひとり
てなふうに思ってしまっていたわけです。
ところがところが「見出された」どころか「見出す側」と言いますか、
柳宗悦らとともに運動を展開した側。
濱田本人は歴とした陶芸家であって、しかも人間国宝だったのですなあ。
(蛇足ながら、徒にそれを有難がるわけではありませんが)
とまれ、このときの「美の巨人たち」は
その濱田庄司が1970年、大阪万博に出品した大皿のお話でありましたよ。
民藝運動を展開する中で各地の焼き物に触れ、その地に独特な手法なども取り入れていく。
8枚出品された大皿の中には沖縄仕込みの、染め物でいえば「ろうけつ染め」のような形で
蝋が釉薬をはじくことを使って造られたものがあるのだそうで。
ですが、大皿を飾る絵柄の多くは、濱田お得意の「流し掛け」による絵付け。
昔のVTRで実際に濱田が大皿にひしゃくで釉薬を掛け流すようすも紹介されていたですよ。
と、それを見て「?!」とは誰しも思うところであろうかと。
まして「自然のままがいい」と「流し掛け」によって生じた絵柄に
後から手を加えることが無かったのが濱田庄司と聞けばなおのこと。
偶然を大事にしている点はもとより、
その技法のほどはどうしたってジャクソン・ポロックを思い出してしまうわけです。
ポーリングやドリッピングといった描き方です。
ポロック作品はその手法によって画面が埋め尽くされており、
濱田の流し掛けには日本風といっていいのか、余白を活かす感覚がありますので、
もしかしてポロックと濱田に似たものを感じるのは極めて個人的な受け止め方かもですが、
それはそれとして(笑)。
似たものを感じると言ったそばから、最も異なるのは…と言い出すのも妙ながら、
ともするとジャクソン・ポロックの作品は厳然たる抽象であって、難解だとか
何を描いているのか分からないとかいう話になりがちな反面、
濱田作品も描かれたものをそのままに見る限りでは抽象的であるのに
これを難解だとか分からないとかいうふうには語らない。これが大きな違いではなかろうかと。
おそらくはキャンバスに描かれたものであるか、皿に描かれたものであるかの違いというのが
受け止める側の感覚の違いに働きかけているのではありませんですかね。
キャンバスという本来的に絵が描かれるために存在するものは
そこに作品が描かれるとそれはすでにキャンバスというものの存在は意識されることなく
ひとえに絵画作品として向き合われることになる。
ところが、皿の場合は絵付けされても皿は皿であって、
皿という認識可能なものに付されたデザイン(絵付け)がいかようなものであっても
皿が難しいとか分からないとか言われることは無いわけですね。
このあたり、実用品に付されたデザインはどんなに抽象的な図柄であろうとも
結構違和感なく受け止めてしまうことはあるわけでして、
改めて自らの普段遣いの品々に目を向けてみると
「なんだ、これ?」という絵付けがされていたりする。
普段はそれを何とも思わず使っているわけなのですなあ。
仮にポロック作品をマグカップかなんかにプリントしてあったとすると、
その図柄を見て分かる、分からないという考えも無しに使ったりするのではないですかね。
同じようなことは、例えばカンディンスキーなどの幾何学的な作品も実用品に転写されたなら、
おそらくはその品物を前にして頭を捻ったりすることなく受け入れるんではないでしょうか。
音楽の世界に「絶対音楽」という用語がありますけれど、
「標題音楽」に対置される言葉で要するに言葉で説明を要するようなのではなくして
純粋に「音楽」で表現される芸術てなことかと思いますけれど、
それに擬えるならばタブローは「絶対美術」あるいは「絶対絵画」とでも言いましょうか。
もちろん主として抽象画の話ではありますけれど。
決して「絶対美術」「絶対絵画」とそうではないもののうち、
どちらが優り、どちらが劣るということではないのですけれど、
受け止め方に及ぼす作用の違いを考えると、そうした区分けで考えてみてもいいのかなと。
結局のところ何が言いたいのか、だんだんとまとまりがつかなくなりつつありますので、
このへんにしときますが、そんなことを考えることになった濱田庄司の流し掛けでありました。