その時を待つようで
おはようございますお目覚めはいかがでしょうか?私は昨夜は犬に囲まれて休みましたそうです犬の好きなあのもふもふのマットの上で寝てしまったのです真ん中に私左にジロウ右にこまちこまちが携帯を持っていたら写真を撮られているところでした”もうっ、かあさまったら私たちのお気に入りの場所にどーんと寝て邪魔よね”と、ジロウに愚痴っているところが目に浮かびそうですどこでも眠れるのは私の特技かどうしてもその時を一緒に過ごしたいそのように話される家族は少なくありませんしかしなかなか難しいそれはその時を決めるのも本人だから、だと思うのです誰にも分からない他者の決められることではないそしてあるご家族が話されましたどうしてもその時を一人で逝かせるわけにはいかないなんとしても立ち会うそう言ってずっとずっと付き添っておられました(*コロナ禍の前の話です)付き添い始めて数日が過ぎた時ちょっといいでしょうか、と話された「私はこの人が逝くことを待っているのでしょうか?」「なんだかそんな気がしてきました」「その時を待つようで・・・」「なんだかおかしな気がしてきました」「死ぬのを待っているみたいな感じがしてきました」「よく考えるとおかしいですよね」「長く生きていてほしいのに」「死ぬのを待っている」そういうわけではないと思うしそばに誰かがいるのは安心だと思うけれど・・・容体も決して良いわけではないしもしも、はいつでもあるかも、とお伝えしたうーん、と考えられたあと今日は一度家に帰りますそういってかえっていかれたそしてその夜そっとスタッフが見守るもとで息を引き取った最後の呼吸にはご家族は間に合わなかった「やっぱり」「なんとなくそんな気がしていたんです」「元々家でぽっくり死にたい、一人で死にたいって言っていた人だから」「私がずっと見張っていたから旅立つにも旅立てなかったのかも」その時一緒にいてくださってありがとうございました、と深々とスタッフに頭を下げられた旅立ちの時は自分が決めるきっとそうだと思うそしてその時だけ立ち会えば良いというのではなく生きている間にどれだけ関わるかそれもとても大事だということを改めて思った時だった私には両親はもういないがそれでも大切な人たちと今、話せる時に今、会える時に話をしておこう会っておこうそう思っている死ぬ時は一人でいい苦しむ姿や辛い姿を見せるのは辛いな自分が辛いのは自分が我慢すればいいけど周りの人がどうしていいか分からない、っていう苦しみを見せたくない私が死ぬ時十分な緩和ケアが受けられる世の中にしないと本日のシバコムさて行ってきますね