通信技術の歴史(上) 16世紀末 ~ 1922年(大正11年)
通信技術の歴史(中) 1923年(大正12年) ~ 1945年(昭和20年)
  通信技術の歴史(下) 1946年(昭和21年) ~ 2012年(平成24年)
  通信技術の歴史(まとめ) 400年前からの世界と日本の関わり

           
1923年09月 日本 日本 関東大震災が発生して死者・行方不明者は約14万人と云う未曽有の被害をもたらした。この震災を機会にラジオ放送の必要性が叫ばれ、公的放送の設置と鉱石ラジオの普及が一気に高まった。
1924年04月 ドイツ ドイツ ドイチェ・ヴェレ(eutsche Welle GmbH)放送機関はベルリンを本拠地として設立。した。設立当初は、全てのドイツの地域放送の共通有限会社であったが、1933年から再開局する1953年5月までの記録(ナチス・ドイツ時代と終戦後の混乱期)は極めて少ない。
1924年 イタリア イタリア イタリア放送協会はURI(Unione Radiofonica Italiana)として設立してラジオ放送を開始。1954年からRAI(Radio Audizioni Italiane)呼称している。
1924年01月 日本 日本 大阪朝日新聞による皇太子(昭和天皇)御成婚奉祝式典や大阪毎日新聞による第15回衆議院議員総選挙開票の中継をはじめ、数多くの実験的要素の強い中継が行われている)。
1925年03月 日本 日本 社団法人東京放送局(NHK東京放送局)が東京・芝浦の東京高等工芸学校(現在の東京工業大学)内に設けた仮送信所から発した京田武男アナウンサーによる第一声。「アーアー、聞こえますか。(間)JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します」が最初の一声。

1925年04月 日本 日本 逓信省岩槻無線局(J1AA)、80m(3.5MHz)電信でU6RW(アメリカ)と交信。日本と外国との最初の短波通信。
1925年07月 日本 日本 愛宕山に建設した施設からラジオの本放送を開始した。
1925年 イギリス イギリス スコットランドのジョン・ロジー・ベアード、機械式テレビの開発。撮像と受像に機械式のニプコー円板を用いた。見分けられる程度の人間の顔を送受信することに成功。
1925年 アメリカ アメリカ チャールズ・フランシス・ジェンキンス(Charles Francis Jenkins)が機械式テレビの画像を8km離れた地点間で無線送受信する公開実験を行う。
1926年01月 イギリス イギリス ジョン・ロジー・ベアード、ロンドンの王立研究所で動く物体の送受信の公開実験に成功。世界初のテレビ放送公開実験に成功。
1926年04月 イギリス イギリス ロンドンからの電送写真がニューヨークの新聞紙面を飾る。
1926年06月 日本 日本 日本素人無線聯盟(現在の日本アマチュア無線連盟)を設立。設立宣言文として、“We have the honor of informing that we amateurs in Japan have organized today the Japanese Amateur Radio League, Please QST to all stations.”が全世界に打電される。
1926年08月 日本 日本 東北帝国大学工学部の八木秀次、宇田新太郎の両氏が八木・宇田アンテナを発明。自国の電探装置に活用された。後に同盟国になるドイツだけでなく、アメリカやイギリス、ソビエトにまでレーダー(電探)技術に利用されてしまった。
 
1926年12月 日本 日本 浜松高等工業学校の高柳健次郎が電子式テレビ受像機(ブラウン管テレビ)の開発。撮像に機械式のニプコー円板を、受像に電子式のブラウン管を用い「イ」の字を表示させた。
  https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/a/ae/Early_TV_experiment_by_Takayanagi.jpg
1926年 日本 日本 社団法人東京・大阪・名古屋放送局は翌年の1926年に「社団法人日本放送協会」として統合された。「全国鉱石化」を目標に日本各地に放送局を開設したほか、当時日本領だった南樺太(豊原放送局)や南洋群島(パラオ放送局)にも置局した。さらに、朝鮮には朝鮮放送協会、台湾には台湾放送協会が設立され、日本放送協会の番組を多く中継した。
 
1927年01月 アメリカ アメリカ アメリカン電話電信会社(AT&T)の太平洋横断無線電話サービス開始(3分間75ドル)。
1927年03月 日本 日本 逓信省・電業第579号「短波長無線電信無線電話実験施設に関する件」という通達で、一般のものの短波受信を禁止。
1927年11月 オランダ オランダ 極長距離を伝送できる短波ラジオ放送を最初に行ったのはオランダの国営放送で、1927年11月から海外植民地向けに試験放送を開始、翌1928年には当時オランダ領だったインドネシア・ジャワ島での受信に成功。
1927年 アメリカ アメリカ フィロ・ファーンズワース(Philo Taylor Farnsworth)が、電子式テレビ撮像機の開発。電子走査式の撮像管「イメージディセクタ」による映像撮影に成功。ブラウン管に「$$」を表示。同年、撮像・受像の全電子化が達成される。
1928年03月 日本 日本 浜松高等工業学校教授・高柳健次郎氏がブラウン管を用いたテレビ実験に成功。
1928年05月 アメリカ アメリカ ニューヨークでテレビ放映スタート。週3回、1回30分。
1928年 イギリス イギリス ジョン・ロジー・ベアード(John Logie Baird)、カラーテレビの公開実験に成功。
1929年03月 オランダ 第1回CCIR(国際無線通信諮問委員会)がオランダのヘーグで開催。
1929年 イギリス イギリス 英国放送協会(BBC)がテレビ実験放送開始。
1931年 日本 日本 1940年開催予定の東京オリンピック(中止)に向けて、NHK技術研究所が高柳健次郎の協力を得てテレビの研究開始。 1933中継車
1932年08月 イギリス イギリス 世界初の定期試験放送(機械式、週4日)開始。
1933年 アメリカ アメリカ ウラジミール・ツヴォルキン(Vladimir Kozmich Zworykin)が画像を電気信号に変換するアイコノスコープを開発。野外の景色を撮像することに成功。
1934年 ドイツ ドイツ 海軍司令官エーリヒ・レーダー(Erich Johann Albert Raeder)の提案で、海軍の通信手段試験場に於いてルドルフ・キューンホルト(Rudolf Kühnhold)博士の研究班が実用的なレーダーの開発に着手し、GEMAの技術者テオドール・シュルテス(Theodor Schultes)とともに実験が行われ、12kmの距離から目標となった艦を探知し、試験場から700m離れた位置を飛行していた航空機の探知にも成功した。
1935年 ドイツ ドイツ ドイツで定期試験放送開始。ベルリンオリンピックのテレビ中継が行われる。
1935年12月 日本 日本 大日本帝国陸軍が開発した車輌用無線機「九四式四号丙無線機」許可。1939年のノモンハン事件に参加した戦車第三連隊、戦車第四連隊の戦車73輌に全車無線機搭載。
1935年 日本 日本 岡部金治郎は大阪管(マグネトロン)を発明。マイクロ波発生装置の開発とその機構解明を通して電波探信儀(レーダー)の性能向上に多大な貢献。
1937年 ソビエト ソビエト モスクワ放送局、テレビ放送開始。
1937年 日本 日本 高柳健次郎は、アイコノスコープを独自に試作して、走査線441本毎秒30コマというの全電子式テレビ受像機を完成。(アナログ白黒相当の解像度)
1937年 日本 日本 野戦の降下部隊、小規模な航空基地、辺地、離島等で使用する汎用機材として、背負い式「陸軍地三號無線機」を採用した。短波帯の無線電信、無線電話で、交信距離は電信で100Kmまで。
1939年02月 日本 日本 陸軍科学研究所において航空機探知(防空)を目的とする研究を促進しレーダー受信実験の成功。
1939年03月 日本 日本 日本でテレビ実験放送開始。
1939年05月 日本 日本 NHK放送技術研究所による公開実験の成功。
1939年公開実験
1940年 アメリカ アメリカ ガルビン社(後のモトローラ社)が開発した最初の背負い式送受信機SCR-300は愛称が「ウォーキートーキー」で、FM周波数採用を発案したダン・ノーベルほか主任電波技術者のヘンリック・マグヌスキ、マリオン・ボンド、ロイド・モリス、ビリー・ヴォーガルが開発チームメンバーである。
1941年03月 アメリカ アメリカ 米国でNTSC方式(戦後の日米アナログ・テレビの標準方式)の白黒テレビ放送開始。
1941年 イギリス イギリス マグネトロンを用いたマイクロ波レーダーの開発に成功、ドイツ空軍の空襲に対する迎撃戦闘で大々的に使用し、ドイツのイギリス侵攻の阻止に役立った。イギリス空軍はレーダーを使った防空システムの整備により有効に対処することができ、夜間攻撃に対する戦局の分水嶺となった。
1941年 ドイツ ドイツ ウルツブルグレーダーD型は、円錐走査式でパラボラの焦点からわずかにオフセットさせたアンテナを内蔵したカール(Quirl)と呼ばれる受信部を25 Hzで高速回転させ、最も電波が強いポイントを検出できた。またD型と同じ装置を用い、パラボラアンテナを7.4mの大きさに変え送信出力をより高くしたもので、索敵距離は70kmに達した。水平軸の精度は0.2度、上下方向は0.1度であり、照準には十分な精度だった。装置は大きすぎたため鉄道で移動可能なウルツブルグ・リーゼ・Eが開発され、1,500基が生産された。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/02/Wurzburg_type_D_diagram.jpg/800px-Wurzburg_type_D_diagram.jpg
1941年10月 日本 日本 陸上設置の対空監視用メートル波レーダーとして「一号一型」を開発。現在の通常のレーダーと同じ反射した電波の返ってくる時間を測定する方式となった。波長3m、尖頭出力10kW、測定は最大感度法。捕捉性能は単機の艦上攻撃機で70kmであった。千葉県勝浦、横須賀市衣笠に設置された。翌年2月までに30基を生産、主に南方の占領地域各地に設置された。
1942年 イギリス イギリス 世界初の平面座標指示画面(PPIスコープ)を採用した航空機用の爆撃照準レーダーH2Sの開発に成功する。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/H2S_Display_Cologne.jpg
1942年10月 アメリカ アメリカ ガダルカナル島周辺「サボ島沖海戦」以降、イギリスからの技術供与で実用化したマイクロ波レーダーをアメリカ海軍が活用して日本海軍を相手に勝利。これ以降、レーダーは防衛、防空だけでなく、戦術、戦略上でも重要な兵器であることを実証した。
1943年 日本 日本 日本海軍の開発した陸上設置用の対空警戒レーダー「三式一号電波探信儀三型」は、八木・宇田アンテナを4段積み上げた形で使用波長2m尖頭出力10kW、測定は最大感度法、重量110kgと軽量になった。2000台製造され、陸上だけでなく艦艇にも搭載された。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/22-GO_and_13-GO_radar_on_forward_mast_of_japanese_destroyer_Harutsuki.jpg
1945年09月 日本 日本 終戦を迎え、閣議決定で国民の短波受信の禁止が解除。今迄の中波専用ラジオに「短波コンバータ」を取付けて短波放送を聞く人が増えてきた。また生活が落着いてくると2バンドラジオも普及した。
 
1945年 日本 日本 高柳健次郎らによって戦前より始められていた日本のテレビ研究や放送実験が、敗戦直後にGHQにより禁止される。

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