離れた人間同士のコミュニケーション(通信)を軸にして、肉声、手紙、のろしなどのプリミティブな手段の後に、人間の知恵によって生まれ、何らかの道具を使った通信の方法を羅列してみた。
  通信技術の歴史(上) 16世紀末 ~ 1922年(大正11年)
  通信技術の歴史(中) 1923年(大正12年) ~ 1945年(昭和20年)
  通信技術の歴史(下) 1946年(昭和21年) ~ 2012年(平成24年)
通信技術の歴史(まとめ) 400年前からの世界と日本の関わり
このリストに日本が多く含まれている事は、情報量からご容赦頂きたい。そして今回は16世紀末から現代までを一気に振返ってみよう。

               
一般的に学校の教育やメディアなどでは「日本は『文明開化』によって、欧の力で近代化が一斉に始まり、第二次世界大戦中に徹底的な搾取がなされ、戦後再び欧米依存のコピーで『戦後復興』が果たされた」…に教えられたと云っても過言ではないだろう。

では鎖国からわずか30~40年足らずで世界の列強に肩を並べ、敗戰から短期間で高度成長を遂げて「Japan as Number One」と云われるまでになったのは何故だろうか?
日本人と数学史」、そして「通信技術の歴史」の上、中、下をご覧頂いた方には、江戸時代以前から培われてきた探求心がご理解いただけることでしょう。

モールスの電信機(1837)
 
ダニエル電池における亜鉛の酸化反応
天保3年(1832年)米国サミュエル・モールスが電信の原理を発明すると、鎖国中にも拘わらずオランダから長崎経由の書籍で、わずか17年後の嘉永2年(1846年)に松代藩士で兵学者の佐久間象山が、ダニエル電池を使って電信の実験を行ったようだ。
一時(いっとき)ごとに鐘を打つため御使者屋と鐘楼堂の間で70mの通信に成功したと、象山の門人であった五明静雄が大正10年に「像山の電信実験が嘉永2年2月だった。」と語っている。

旧松代藩鐘楼敷地内の石碑
電話局写真館さん
実験の時期について疑う向きも有る様で、安政3年(1856年)島津藩の宇宿彦左衛門らが製造(鹿児島県史誌)、安政5年(1858年)大洲藩の古学堂医師であった三瀬諸渕の実験(愛媛先賢叢所)などの説もある。
何れにしても、これが当時の日本人の知識水準だったのだろう。これらの日本国内での装置は、エーセルテレグラフ(欧州の船舶内通信で使われていた)を職人が和風に作り上げた指字電信機であった。

ペリー提督献上の電信機 郵政博物館所蔵
嘉永7年(1854年)に、米国マシュー・ペリー提督が徳川幕府に献上された「エンボッシング・モールス電信機」が比較的有名だが、日本で作られていた指字電信機とは異なっていた。エンボッシングはモールス符号をそのまま印字する方式で解読を要した。

諫早市所蔵の文化財ヱーセルテレカラフ 発見者:吉田幸男さん
元治元年(1864年)には、指字電信機(ヱーセルテレカラフ)を佐賀藩精煉方の中村奇輔が考案して製作させていた。現存する最古(2017年時点)の指字電信機で、発見者は一級無線通信士の吉田幸男さん。詳細は「エーセルテレグラフ・佐賀藩精煉方製作」を参照。
江戸時代の人々は武士、町民の貴賤無く、積極的に世界の情報を取入れ、更に様々な知恵や技巧を盛り込んで自文化に昇華していたことが伝わってくる。

やがて電線を使った電信から、無線を使う時代に移行する。この無線通信は戦時での情報伝達手段として、欧米列強各国が競っていた。そんな中に日本の技術も見逃す事ができない。
明治30年(1897年)05月にグリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)は、イギリスのソールズベリー平野で約6kmの距離でモールス符号を火花式送信機と鉱石受信機で伝送する実験に成功した。

月島における無線電信実験装置(1897年) 横須賀リサーチパーク
実は、同じ明治30年(1897年)に逓信省電気試験所の通信技師になった松代松之助が、独自に開発した無線機を使って、品川沖で無線通信実験に成功している。
更に明治28年(1895年)、ロシアのアレクサンドル・ポポフは、マルコーニより早く無線通信に成功していたが、ロシア海軍は艦船に搭載しなかった。
一方、日本海軍は明治33年(1900年)から各軍艦に火花式無線電信機を搭載した。日露戦争海戦では、哨戒艦「信濃丸」から東郷平八郎司令長官への「敵艦見ゆ」の打電は名高いが、情報戦略の差も大きかったと云われている。
この点からも、世界的な無線の黎明期に西欧と遜色のない技術が我が国に存在していたことは紛れもない。無線電信と云う軍事技術が、いち早く「電報」や汽車、汽船の運行情報など、一般生活の向上にもつながっていった。


私設放送局 8XK QST-September,1920
やがて音声を電波に乗せる無線電話が開発されて、真空管が発明されるとに世界各地で軍用無線施設やマチュア無線家が、実験的に放送を行うようになった。ウェスティングハウス社フランク・コンラッド(Frank Conrad)は8SK局で活躍した。
大正9年(1920年)11月には、ウェスティングハウス社がペンシルベニア州ピッツバーグに本格的なKDKA局を開局した。世界で初めて商用のラジオ放送が開始される。
我が国も早期の開局を目指していたが、大正12年(1923年)関東大震災が発災し、米国から遅れること5年の大正14年(1925年)03月に、社団法人東京放送局(NHK東京放送局)が東京・芝浦の東京高等工芸学校(現、東京工業大学)内に設けた仮送信所から放送が始った。
10万人以上の犠牲を出した震災の教訓を踏まえて、愛宕山に建設した施設とアンテナから、同年07月に本放送を開始し「全国鉱石化」で受信機の普及に努めた。
開局当初は、国内に有った既存の送信機、ウェスタン・エレクトリック社製やゼネラル・エレクトリック社製を放送に使用したが、間もなく国産送信機や国産のマイクロフォンなどに置き換えられていった。

東京放送局 1933年後頃

ラジオ番組表(1925年}
朝9時に放送が始まり、実用的な株式や商品の相場情報が中心で、合間に気象予報と新聞記事を読上げる程度で、夕方から講演のほか、音楽、演芸などの娯楽番組が流された。番組は切れ目なく流れていた訳ではなく、一旦休止して時間が来ると始まっていたようだ。無論、レコード録音盤も貴重な時代で、殆んどが生の声、生演奏が主流であった。

昭和に入ると軍事技術では、我が国も世界の先端を走るようになり、様々なテクノロジーが生み出された。特に各国がレーダー開発を競う中で、八木秀次、宇田新太郎の八木アンテナと、岡部金治郎の大阪管(高出力マグネトロン)の発明は、電波探信儀(レーダー)を生み出し、精度の向上に役立った。

駆逐艦「春月」に搭載された22号電波探信儀

空母「瑞鶴」に搭載された21号電波探信儀

八木アンテナを装備しレーダーを搭載した月光一一型

ソ連邦の対空レーダー
 
八木アンテナとレーダーを搭載したメッサーシュミット
八木秀次、宇田新太郎の発明したアンテナに指向性を持たせた八木・宇田アンテナは、昭和元年(1926年)08月に特許が取られ、その後、軍事面で世界のレーダー技術に多用された。
昭和2年(1927年)岡部金治郎が分割陽極型マグネトロン(大阪管)を開発し、世界に先駆けてマイクロ波(波長3cm、周波数10GHz)を達成した。これ以降、レーダー技術は革新的な進歩をした。
当初レーダーは、夜間の爆撃機を発見する防空だけが目的だったが、次第に精度が増して射撃目標を検出するようになった。
PPIスコープ
イギリスでは昭和17年(1942年)平面座標指示画面(PPIスコープ)を採用した。ドイツではパラボラアンテナを開発し受信部を高速回転させたが、列車を使わないと運べないほどの重量で実用的ではなかった。
日本の技術力が「欧米各国より遅れていた」と思われがちだが、少なくとも通信エレクトロニクスでは「世界標準」の技術を備えていた訳だ。

昭和に入って軍事面ではレーダーが戦闘を変えたが、文化的にはラジオからテレビジョンへと、メディアが変化する兆しを見せていた。
昭和元年(1926年)01月、ジョン・ロジー・ベアード(John Logie Baird)はロンドンの王立研究所で、世界初の機械式テレビ放送公開実験、動く物体の送受信の公開実験に成功。

テレビ伝送実験装置の再現展示(NHK放送博物館
ベアードは受像機も機械式だったが、同じ年の12月に高柳健次郎が電子式テレビ受像機(ブラウン管テレビ)を開発した。
高柳も撮像機(カメラ)には機械式のニプコー円板を使ったが、受像にはブラウン管を電子走査方法を考案して、見事に「イ」の字をブラウン管に表示させた。その後、テレビを走査線で読み取ったり表示する基本となった。
高柳の電子式ブラウン管の成功を切っ掛けに、撮像装置の電子化が次の目標になった。わが国では昭和15年(1940年)年の東京オリンピック(実際は日支事変の拡大で中止)開催が取り立たされ、NHK放送技術研究所は、高柳健次郎を招聘してテレビの開発に注力した。
同じ昭和元年(1926年)にフィロ・ファーンズワース(Philo Taylor Farnsworth)が、電子走査式の撮像管「イメージディセクタ」による映像撮影に成功しブラウン管に「$$」を表示。1933年、ウラジミール・ツヴォルキン(Vladimir Kozmich Zworykin)が画像を電気信号に変換するアイコノスコープを開発。野外の景色を撮像することに成功。
昭和12年(1937年)、高柳はアイコノスコープを独自に開発試作して、走査線441本毎秒30コマという撮像機(カメラ)とブラウン管によって全電子式テレビジョンを完成。
完成したアイコノスコープの撮像輝と高柳健次郎
アナログ時代の白黒テレビジョン相当の解像度である。昭和14年(1939年)05月には、NHK放送技術研究所による公開実験が行われた。
テレビ放送の夢は日米開戦でもろくも崩れた。一方、電報電話とラジオの普及は「戦前のIT時代」と云われたが、一般庶民に至るまで様々な最新テクノロジーを享受していたことがうかがえる。

ラジオ、無線機、電話機からレーダーなどの軍事に関連する通信技術は、真空管によって大きく前進した。、そして昭和21年(1948年)06月にAT&Tベル研究所が発明したトランジスタは、更に可能性を広げようとしていた。
当時のトランジスタは量産が困難で真空管より高価であった。アメリカでは小型軽量に作れることを生かして、付加価値の高い補聴器への応用が有望だと考えられていた。
国内の電気業界では後発で、テープレコーダだけで他に得意分野もなかった東京通信工業(現・ソニー)は、真空管に代わるトランジスタに着目した。盛田昭夫らがアメリカで「ラジオを作りたい」と云うと、一応に冷淡な反応であったようだ。
通産省の協力もあり、ようやく特許の使用権を得て手探りでトランジスタの製造に取りかかった。しかし歩留まりが極端に悪く、ラジオに使えるトランジスタは殆んどなかった。
更にラジオを小型化するために今まで真空管式で使っていた部品が使えない。部品メーカーと相談して、完成まで多くの時間が費やされた。

TR-55の部品マウント

リージェンシー社「TR-1」
昭和29年(1954年)10月、テキサス・インスツルメンツ製のトランジスタを使った世界初のトランジスタラジオ「TR-1」をリージェンシー社が発表した。
テキサスインスツルメンツが自社製トランジスタを民生用電子機器へ販売するために見本として製造した試作品のトランジスタラジオを基に製品化された。
先に開発に着手した東京通信工業(現・ソニー)だが、自社でトランジスタ自体から開発したため、米社より半年遅れの昭和30年(1955年)08月に「TR-55」を18,900円で発売した。
パンチド・メタルを使い高級感を出したが日本では高価(大卒初任給11,000円)だった。
一方、1$=360円で輸出したアメリカでは安価で、若者受けして全米で大ヒットした。この事で「Made in Japan」に対するアメリカ人の偏見を一新する結果になった。

東京通信工業(現・ソニー)「TR-55」

真空管式携帯ラジオ SR-370
従来の真空管式携帯ラジオは高圧積層乾電池(67.5V)と普通乾電池(1.5V)の2種を必要とした。
トランジスタ・ラジオは小型乾電池(3~9V)1種で済むため、小型軽量化(重量560g)で高音量が評判となった。実際は単三乾電池3本(4.5V)で動作したため、ランニングコストも大幅に改善した。
戦後は「欧米のコピーで経済復興を果たした」ような言い方も散見される。一部はあたっているかも知れないが、物作りの魂あるいは職人魂は「江戸時代から脈々と息づいていた」結果なのだろう。
因みに、ソニーの創業者である井深大は軍需企業の経営者で、海軍技官の盛田昭夫は軍民共同の科学技術研究会で「誘導爆弾」を共同研究していたようだ。

通信分野では、第二次世界大戦で多用された可搬型無線電話機だが、日米とも真空管式で写真のアメリカ軍の「ハンディトーキー」はVHF(超短波)帯を使ったバッテリー式の短距離用で、同じ様に日本軍は背負い式の「地三号」など短波帯の中距離用で発電機など外部電源を使っていた。
戦後、トランジスタの普及で車載無線機が生み出され、警察無線、タクシー無線、列車無線が、一般向けでは市民無線などが普及した。アマチュア無線も個人の手作りからメーカー製無線機が主流になって行った。

マイコンIC Z80_CPU(Zilog)BRN
やがて時代はトランジスタを更に集積したIC(集積回路)が登場する。電子機器が一段と小型化し、カリキュレータ(計算機)が発展して、手軽に使えるマイコンが実用化していった。
一方、高周波を取扱うテレビ、ラジオや無線機器は、処理速度の点から集積化(IC化)が極めて困難だった。
そこで日本の半導体技術が世界に貢献するようになった。そして国内各メーカーは競ってICの高速化に取組み、世界を席巻するまでになった。
高周波専用ICが通信で使われたのはポケット・ベルで、次いで移動式電話の開発に使われた。移動式電話機は人々の生活を一変させた。
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  TZ-801形             100型       TZ-802型  TZ-803型    ムーバP  ムーバF
IC技術が進歩すると、昭和54年(1979年)12月に、民間向けの実用的な移動電話としては世界初となる自動車電話サービス(TZ-801)を日本電信電話公社が開始する。昭和60年(1985年)09月ショルダーホン(100)発売される。昭和62年(1987年)04月にはハンディ形(TZ-802、TZ-803)、平成3年(1991年)04月にはポケットサイズ(ムーバ)が発売される。800MHz帯を用いたアナログ大都市方式で第一世代(1G)。
平成5年(1993年)以降、ムーバ(MOVA)は1.5GHz帯のデジタル方式に移行し第二世代(2G)に区分される。
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FOMA P2101V  FOMA N2001     iPhone        GALAXY S
平成13年(2001年)には、世界に先駆け日本でFOMAなどのW-CDMA方式のサービスが始まり、テレビ電話が可能となったほか、パソコンと接続して高速なデータ通信が行えるようになった。これが第三世代(3G)である。
国内メーカーが圧倒的な市場を独占していたが、一人一台時代に入り価格競争が激化し利益率が激減した。
平成19年(2007年)01月にアップル(Apple)は、3Gとは全く異なる新製品「iPhone」を発表し、スマートフォンで世界を席巻した。これが第四世代(4G)の始まりである。日本のメーカーは、キャリアー(通信回線業者)主導の価格設定で利益率が上がらず、徐々にスマーフォン市場から撤退を始めた。
平成22年(2010年)10月に、サムソン(Samsung)は、同様のスマートフォンとしてギャラクシーシリーズ最初の「GALAXY S」を発売した。

現代でも、多くの技術者や科学者の方々が、先進の技術や発見、発明、開発、製造に取組んでいると思われる。通信技術の世界だけ見ても、日本人のDNAに刻み込まれた科学探求の意欲は、未だ衰えることはないものだと確信する次第だ。

  通信技術の歴史(上) 16世紀末 ~ 1922年(大正11年)
  通信技術の歴史(中) 1923年(大正12年) ~ 1945年(昭和20年)
  通信技術の歴史(下) 1946年(昭和21年) ~ 2012年(平成24年)
通信技術の歴史(まとめ) 400年前からの世界と日本の関わり