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一大ターミナル「池袋駅」を中心に、歴史、文化、芸術、学究から、危険で猥雑な世界まで、都会の正邪曲直 を混ぜ合わせた街がある。今回は、そんな「豊島区」を取り上げてみました。
定量分析した訳ではないが、細く曲がりくねった道に小さなアパートがひしめいている。印象的には「独身者」が多く暮らす街だと感じた。元豊島区議会議員の沓澤亮治氏によると「独居老人の人口比は豊島区が日本一」だそうだ。
そのためか世界各国の外国人居住者も多く、特に池袋駅北口の一帯は中国語だけで生活できるエリアもあるほどだ。
その一方で、学習院の森に囲まれた目白駅周辺と雑司ヶ谷の一部は別格と云えよう。それでも最近は広い邸宅が、徐々に高級マンションに変貌してるようだ。
ところで豊島区の区章だが、天皇御紋(十六八重菊花紋章)に似ているが、八重ではない12弁の菊花紋章を使っている。
ちなみにパスポートは天皇御紋と同じ16弁だが八重ではない。衆議院・参議院の議員バッジ(記章)は11弁の菊花紋章で、自由民主党の党旗は14弁菊花紋章である。日本より他国を優先する議員がバッジをつけているのは何とも不思議…。
ちなみにパスポートは天皇御紋と同じ16弁だが八重ではない。衆議院・参議院の議員バッジ(記章)は11弁の菊花紋章で、自由民主党の党旗は14弁菊花紋章である。日本より他国を優先する議員がバッジをつけているのは何とも不思議…。
豊島氏は神社仏閣を領内各地に建立していたこともあり「豊島」の名前は引き継がれ、500年余の時を経ても豊島区に名前が残った。江古田原合戦の詳細は「中野区の歴史探訪」にも記載してあるので、お時間があればご一読ください。
日本橋を起点に中山道の板橋宿の平尾追分(現在の板橋三丁目交差点)で分岐して、武蔵国入間郡の川越に至る「川越街道」が豊島区の巣鴨を通ている。室町時代の長禄元年(1457年)、太田道灌が江戸城(千代田城)と川越城(河越城)を築き、それまで分断されていた古道を繋いで二城を結ぶ道を作ったのが始まり。
江戸時代に入ると重要な交易路として大層賑わったようで、人馬の通行量が多過ぎるため沿道の村々から悲鳴があがったと、各地の記録に残されている。豊島区内で巣鴨周辺が最も最初に繫栄を極めた。文化年間(1804年以降)になると、川越の焼き芋が人気になり「九里(栗)よりうまい十三里」の言い回しが生まれた。江戸と川越の距離は、実際に十一里未満だったようだが…。
神田川に架かる江戸川橋(現在の文京区関口付近)から武蔵国多摩郡清戸(現在の清瀬市)をつなぐ生活道路で約6里(24Km)の道を、練馬大根など新鮮な農産物を江戸まで運んでいた。
上図「北豊島郡」の中で、4町村の現在町名表記で北大塚、南大塚、西池袋、目白の一部は当時と境界が異なる。北大塚と南大塚は、当時、巣鴨町と巣鴨村に分割されている。また、西池袋と目白の一部は、当時、長崎村の領域にあった。
大正7年(1918年)、巣鴨村が町制施行し、西巣鴨町となり、大正9年(1920年)に高田村、ついで大正15年(1926年)長崎村が町制施行によりし、高田町、長崎町となる。
昭和7年(1932年)東京市の区部が15区から東京35区に拡張した。北豊島郡の巣鴨町、西巣鴨町、高田町、長崎町が、昭和7年(1932年)に東京府豊多摩郡から東京市に編入されて、その時に4町によって「豊島区」が誕生した。
隣接する地域は、明治22年(1889年)時点で東京市に編入していた本郷区、小石川区に、新たに滝野川区、淀橋区、板橋区も東京市の区部に編入され、東京35区になった。
東京都区部が35区から23区に再編されのは、昭和22年(1947年)になる。この時、区域の合併や分離が行われtが、豊島区は35区と変わらず区域を保った。
下図は裏辺研究所さんの「地名保存委員会&古地図」から豊島にあたる場所を合成した画像だ。画像を拡大してタイムトラベルです。
昭和7年(1932年)当時の線路や道路、名所旧跡などが載っている。また豊島区にお住まいだったり、知人のお宅や勤め先など、心行くまで楽しんでください。
大画像でご覧になる方は、グーグルドライブからダウンロードできますので、ご利用ください。
ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラを交雑して生まれ、接ぎ木によって繁殖された。日本統治時代の台湾、朝鮮にもソメイヨシノは広がり、明治45年(1912年)には日米親善として米国ワシントンのポトマック河畔に桜並木が植えられた。
ソメイヨシノの故郷である染井村は、江戸時代から興隆著しい川越街道に隣接し、明治時代に入り駒込染井村から駒込染井町となり、巣鴨町に合併した。
明治18年(1902年)日本鉄道「品川線」が品川駅と赤羽駅間で開通して池袋信号所が開設された。翌明治36年(1903年)旅客駅として池袋駅が開設された。
明治39年(1906年)鉄道国有法により品川線が国有化し、明治42年(1909年)線路名称制定により池袋駅は「山手線」管轄となった。
明治39年(1906年)鉄道国有法により品川線が国有化し、明治42年(1909年)線路名称制定により池袋駅は「山手線」管轄となった。
大正3年(1914年)東上鉄道線(現在の東武東上本線)の池袋駅から田面沢駅(現在の川越市駅)が開業した。
ついで大正4年(1915年)武蔵野鉄道線(現在の西武池袋線)の池袋駅から飯能駅の間が開業した。
ついで大正4年(1915年)武蔵野鉄道線(現在の西武池袋線)の池袋駅から飯能駅の間が開業した。
こうして国有鉄道(省線)山手線、東條鉄道線、武蔵野鉄道線の3線が池袋駅に乗り入れることで、渋谷駅、新宿駅と並んで、都心と郊外を結ぶターミナル駅となった。また他のターミナル駅と同様に、沿線沿いに郊外型の宅地開発が進んだ。
豊島区と周辺地域の交通を担っていた西武鉄道は、駅に他の交通機関を寄せ付けるのを嫌ったので、駅周辺の道路は狭く駅周辺の開発が遅れた。最近になって一部改善は見られるものの、今でも西武池袋線の椎名町駅、東長崎駅、江古田駅は。路線バスが直結していない。
これが、冒頭に書いた狭い道路や小さなアパートであり、独身者や外国人が多く暮らす町並みの印象につながっているのだろう。またそうした環境が、後述の池袋モンパルナスを生み、トキワ荘を育んだのかも知れない。
当時、前衛的な芸術家が集まり池袋モンパルナスは、芸術家様(もどきも含めて)独特の自己肯定観に満ちて、左翼的傾向の強い芸術家も多く含まれていたようだ。
西池袋、椎名町、千早町、長崎、南長崎、要町など池袋周辺に存在したアトリエ村(貸し住居付きアトリエ群)は、本物の貧乏人と貧乏人にあこがれる人々が暮らしやすい環境だったのだろう。
アトリエ村に関係した人々は、詩人、小説家、漫画原作者、画家小熊秀雄、フォービズムの画家熊谷守一、イラストレーター、水彩画家、デザイナー、エッセイスト、ファッション評論家、映画評論家の長沢節、洋画家丸木俊、画家山下菊二、画家今井繁三郎、シュールレアリズム風や宋元画風など特異な画風の洋画家靉光 、洋画家寺田政明、洋画家、歌人の長谷川利行、武蔵野美術大学名誉教授麻生三郎、洋画家松本竣介、版画家、彫刻家浜田知明、コラージュの世界的第一人者の洋画家若松光一郎、洋画家、前衛美術家の古沢岩美、洋画家で戦後「二科会」会長を務めた北川民次、洋画家。日本にシュルレアリスム福沢一郎、画家、詩人の竹久夢二、童画画家川上四郎、小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家で、日本演出者協会初代理事長村山知義、洋画家、漫画家、童画家、美術評論家まつやまふみお、美術家、画家、デザイナー、舞台美術家柳瀬正夢など、今風にいえばマルチタレントが多く、口先が達者で戦後もテレビなどに出て自論を捲し立てていた方も見受ける。
戦後は池袋駅周辺も、ご多分に漏れずヤミ市が林立したようだ。昭和21年(1946年)に「森田組東口マーケット」が開設した。これは都内初のヤミ市のようだ。ヤミ市は飲食に限らず、生活用品、旧日本軍や米軍の流出物資まで売られていた。
東口ついで池袋西口にもヤミ市ができて、通称「ブラックマーケット」として賑わいをみせた。戦後の物資不足の中でカストリを振舞う飲み屋も多かった。
昭和24年(1949年)なると池袋駅東口に西武百貨店の池袋本店ができて、行政が主導して駅近くのヤミ市の排除に努めた。さらに昭和37年(1962年)には、西口に東武百貨店の池袋本店が建設され、駅周辺の雰囲気が改善に向かった。
そうした街の美化を目指す中で他の駅周辺と同様に、池袋西口、東口周辺の片隅や裏通りには、当時の猥雑な雰囲気がたくましく生き残っていました。
極東国際軍事裁判(東京裁判)において、明らかな事後法「平和に対する罪」で被告にされたA級戦犯は巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)拘留されていた。
終戦冷めやらぬ昭和23年(1948年)帝銀事件が発生した。帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店において、行員らを騙して12名を毒殺し、現金と小切手を奪った銀行強盗殺人事件。当時の椎名町支店は、西武池袋線「椎名町駅」近くの豊島区長崎(現在の豊島区長崎1-7-15)にあった。
約7ヶ月後に北海道小樽市で、テンペラ画家の平沢貞通が逮捕された。捜査本部の地道な捜査で、具体的な事実に基づく容疑事実を28箇条にまとめて捜査報告がなされた。
事件当時の作家やマスコミを中心に、GHQ犯行説、旧軍関与説、三国人犯行説など様々な陰謀論が渦巻いたが、犯行をくつがえす検証に耐えうる証拠は出てこなかった。マスコミの攻撃を恐れた歴代法務大臣は、死刑執行命令に署名しないまま、昭和62年(1987年)八王子医療刑務所で肺炎を患い病死した。
昭和30年(19595年)の第6回大会に日本共産党は「武装闘争を放棄」と宣言するまでは、殺人、暴力、銀行強盗など非合法な事件を起こしていたようだ。この帝銀事件につても日本共産党が関与しているのでは…という共産党関与説まであったと聞いている。
ここで戦後の明るい文化の話題をしよう。昭和31年(1956年)頃から昭和35年(1960年)にかけて「貸本屋」の漫画本が一世を風靡した。子供たちは駄菓子屋と同じように、10円あれば1日漫画を楽しめた。一方で少年月刊雑誌には何冊もの付録(読み切り漫画)がついていた。鉄腕アトム、鉄人28号、赤胴鈴之助、矢車剣之介など、このとき幾多の名作が生まれた。昭和34年(1959年)に「週刊少年マガジン」と「週刊少年サンデー」が相次いで創刊され、少年向け週刊漫画雑誌が貸本屋にとって代わった。時流に乗った漫画家は引く手あまただった。
昭和27年(1952年)から昭和57年(1982年)の間、豊島区椎名町5丁目2253番地(豊島区南長崎3-16-6)に漫画家が暮らす木造アパート「トキワ荘」があった。
漫画の神様と云われる手塚治虫は新築間もないトキワ荘に約2年間暮らした。約1年遅れでスポーツマン金太郎など野球漫画で人気の寺田ヒロオが入居した。寺田は最後までトキワ荘で暮らし、漫画仲間のリーダー的存在だったようだ。その後、ドラえもん、忍者ハットリくん、オバケのQ太郎のビッグヒット放った藤子・F・不二雄(藤本弘)と藤子不二雄A(安孫子素雄)、アニメーション作家監督の鈴木伸一、後に数奇な運命を送った森安なおや、サイボーグ009、仮面ライダーを始め500作品を世に送り出した石ノ森章太郎、おそ松くん、ひみつのアッコちゃん、天才バカボンなどギャグ漫画の天才と呼ばれた赤塚不二夫、学習漫画の第一人者のよこたとくお、女性少女漫画家の草分け的存在の水野英子、石森章太郎や赤塚不二夫のアシスタントを経て絵本、広告、デザインの分野で活動した山内ジョージなど著名漫画家たちが順次入居した。
いかにも行政がらみの企画で安易だとは思うが、令和2年(2020年)には「トキワ荘マンガミュージアム」まで作ってしまった。
ツタの絡まる立教大学の池袋キャンパス、かつて池袋にあった自由学園など個性あふれる話題も豊富なうえに、巣鴨プリズンの跡地に作られた60階建て超高層ビルを含むサンシャインシティ、オーケストラの演奏に適したコンサートホールを備える東京芸術劇場、区役所、立教大学、東武百貨店、周辺の公園に美術を展示空間とする池袋モンパルナス回遊美術館など、多彩な豊島区は語りつくせません。
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