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杉並 | 中野 | 新宿 | 千代田 | |||
中央 | 江東 | |||||
世田谷 | 渋谷 | 港 | ||||
目黒 | 品川 | |||||
大田 | ||||||
東京湾岸から離れて丘陵地帯に向かって、今回からは「豊多摩郡」の地域に移る。豊多摩郡は、現在の新宿区、渋谷区、中野区、杉並区の一部にあたる。
今回の渋谷区域は、渋谷川とこれに合流する宇田川が区の中央部分を北から南に縦断している。現在はほとんど暗渠(地下トンネル)になっていて、目にできるのは渋谷川の一部だけだ。しかも「下水道」の扱いだ。
渋谷川水系については、「春の小川」に書いていますので、興味のある方はご覧ください。この長閑 な川辺の村が、若者で活気あふれるマンモス・シティに発展したのか…駆け足で探訪します。
旧高旧領取調帳によると、江戸時代は武蔵国豊島郡で、渋谷区域は、上渋谷村、穏田村、原宿村伊賀者上知とあって、伊賀者の給地(土地の支配権)が大半を占めていたようだ。江戸時代のこの地域は、幹線道路の東海道、甲州街道にはさまれ、両街道沿いに比べると都市化の遅れた地域だった。
中でも富士見坂(現在の宮益坂)の一本松は大山道の景勝地で、渋谷宮益町から西へ坂を下ると相模街道の立場 (休憩所、掛け茶屋)には、茶屋や酒亭もあった。
富士見坂の下耕地を隔てて西に登る坂を道玄坂という。建暦3年(1213年)に和田義盛の一族であった大和田氏道玄が滅亡した時、残党が窟中に隠れ住んで山賊を業としてしたことで道玄坂という…とある。(江戸名所図会八)
明治29年(1896年)、南豊島郡と東多摩郡の区域を合併して「豊多摩郡」が発足した。豊多摩郡役所は淀橋町大字淀橋町字二ツ家291に設置された。
旧南豊島郡は内藤新宿町、淀橋町、大久保村、戸塚村、落合村が現在の新宿区、渋谷村、千駄ヶ谷村、代々幡村が現在の渋谷区にあたる。旧東多摩郡は中野村、野方村が現在の中野区、杉並村、和田堀内村、井荻村、高井戸村が現在の杉並区になる。
豊多摩郡の渋谷区域は、渋谷村、千駄ヶ谷村、代々幡 村の3村に精るされた。やがて人口増加に伴い、明治40年(1907年)に千駄ヶ谷村が千駄ヶ谷町、明治42年(1909年)に渋谷村が渋谷町、大正4年(1915年)に代々幡村が代々幡町に町制に昇格した。
昭和7年(1932年)、豊多摩郡渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が東京市に編入され、3町の区域をもって渋谷区が誕生した。
渋谷区の役場は、東京市渋谷区氷川にある渋谷町の町役場がしばらく使われていた。
渋谷区の中央部分は、民有地で茶畑と桑畑が広がっていたが、この地の買収を進めて、明治42年(1909年)に大日本帝国陸軍の代々木練兵場と衛戍 監獄(陸軍刑務所)を設置した。
現在の代々木公園、代々木八幡を含めて、神南のNHK放送センターや宇田川町までの広大な場所であった。明治43年(1910年)に徳川好敏・陸軍大尉がこの地で日本初の飛行に成功している。
二・二六事件の将校15名が昭和11年(1936年)に処刑された陸軍刑務所でもある。
二・二六事件慰霊碑は、当時、陸軍敷地内に建立されたが、現在はその場所が、渋谷公会堂と渋谷区役所の一部になっている。公園通りがNHK放送センターにぶつかる交差点に静かにたたずんでいる。
下図は裏辺研究所さんの「地名保存委員会&古地図」から渋谷にあたる場所を合成した画像だ。画像を拡大してタイムトラベルです。
昭和7年(1932年)当時の線路や道路、名所旧跡などが載っている。また渋谷区にお住まいだったり、知人のお宅や勤め先など、心行くまで楽しんでください。
大画像でご覧になる方は、グーグルドライブからダウンロードできますので、ご利用ください。
渋谷区の中心ともいえる渋谷駅だが、日本初の官営鉄道(汽笛一声新橋を…の鉄道)の品川駅と、日本鉄道(上野駅-熊谷駅間)を官営鉄道と接続するために、明治18年(1885年)に赤羽駅と品川駅の間に品川線が開通した。
この時、板橋駅、新宿駅と共に渋谷駅が開業した。この開業に続いて目黒駅、目白駅も開業。明治34年(1901年)にはこの日本鉄道品川線が「山手線」と名前が付いた。
明治40年(1896年)に玉川電気鉄道(後の東急電鉄玉川線)が道玄坂坂上駅と玉川駅(現在の二子玉川駅)間が開通、昭和2年(1927年)に東京横浜電鉄(現在の東急電鉄東横線)の丸子多摩川駅(現在の多摩川駅)と渋谷駅の間が開通、昭和8年(1933年)帝都電鉄(現在の京王電鉄)により渋谷駅と吉祥寺駅間を開業した。昭和13年(1938年)東京高速鉄道(現在の東京メトロ銀座線)が渋谷駅に接続した。
昭和9年(1934年)には、東横百貨店が開店して、ターミナル駅として整備された。渋谷区には代々木、原宿、渋谷、恵比寿と山手線の4駅があり、それぞれ個性ある駅として発達した。
代々木駅は明治39年(1906年)に甲武鉄道(現在の中央線)の駅として開業し、明治42年(1909年)山手線と中央線が国有化されてから、品川線(後の山手線)が代々木駅に停車を始めた。
明治天皇が崩御し、大正9年(1920年)に明治神宮の鎮座祭が行われた。代々木駅から北参道につながる参拝者の利用も多い。
代々木には「東京鉄道病院」が間近にあるので、お見舞い用とも思える果物屋が駅前にあった。果物屋さんは駅前というよりは、駅中に近かった。右側の小道を進むと日本共産党の本部があったが、何かいわくでもあったのかな?
原宿駅は明治39年(1906年)に開業した。明治神宮の鎮座とともに、表参道が整備され茶店や土産物店などで賑わいを見せた。昭和2年(1927年)同潤会渋谷アパート(後に「青山アパート」と改称)が建設された。
戦後、米軍関係者などの住居として明治通りと表参道の交差点に、昭和33年(1958年)原宿セントラルアパートが建設された。立川や福生と同様に米軍駐留の縮小とともに、文化人や芸術家が暮らすようになった。
竹下通りに若者が集まるようになったのは、表参道で歩行者天国が実施され竹の子族がマスコミで話題になった昭和55年(1980年)前後からである。全国から観光客が集まり、広場や路上で安価な土産品を販売したことが切っ掛けで、竹下口の裏路地が一気に変貌した。
原宿駅から代々木駅寄りに、お召 列車専用の「宮廷ホーム」(皇室専用ホーム)が大正14年(1925年)から設置された。
明治23年(1890年)に日本麦酒は、東京府荏原郡三田村(現在の恵比寿ガーデンプレイス)で「恵比寿麦酒」の製造を開始する。ビールは輸送コストが大きな比重を占めるため、鉄道を引き込む方法を考えた。
恵比寿駅は、明治34年(1901年)に貨物専用駅で始まった。駅名も商品名をそのまま使った。そして恵比寿駅から全国に向けてビールが配送された。
明治39年(1906年)には国有化に移管すると同時に旅客営業を開始した。また昭和2年(1927年)には玉川電気鉄道が渋谷橋から路線を延伸して「恵比寿駅前」電停を開業した。
ヱビスビールの工場は、東口駅前に広がっていたため、渋谷、原宿に比べて駅前の発展が遅れた。平成6年(1994年)に恵比寿ガーデンプレイスができたことで一気に発展した。隣接する港区の広尾、青山、白金と同様にセレブの街として、渋谷、原宿とは一線を隔している。
渋谷は若者の街…と言いたいところだが、実は人知れずディ-プな場所が結構ありますね。
戦前は、円山三業地(花街)に隣接するカフェ、バー、居酒屋、料理店、映画館などが密集していて、百軒店 と呼ばれていた。渋谷周辺には台湾出身者が多かったようで中華風の建物も見られた。
戦時中、鉄道の駅周辺と線路沿いは、首都防空のために強制疎開が行われた。特に渋谷駅周辺は交通の要所であったため、広い防火地帯が設けられた。昭和20年(1945年)5月の空襲で百軒店 は、一面が焼け野が原になった。
戦後に、東急文化会館、東急プラザ、渋谷109の建った場所、更に宇田川町や各鉄道高架下は、終戦直後の混沌の中で、不法占拠の闇市が建ち並び、次第に無法地帯と化した。
宇田川町の闇市の一画には、戦後大陸や半島から流れてきた者も加わって、華僑総本部が作られた。こうした露天には三国人(戦勝国民でも敗戰国民でもないというGHQの定義)の店主も少なくなかった。
昭和21年(1946年)の夏に、ヤクザの落合一家、武田組と万年東一が率いる愚連隊の連合と、在日台湾人の華僑総本部が闇市の利権をめぐって渋谷事件が勃発した。GHQから拳銃携帯を禁止された警察官は、武器を持って暴れる三国人の制圧が困難であった。この時、ヤクザの連合が三国人と対峙した。
戦後の百軒店 は、大半が露天で始まった。やがて本国に帰還する米兵の放出品も目立つようになった。ここで養父が扇風機を買ったのを憶えている。
昭和40年頃でも、バー、居酒屋、中華料理、喫茶店などの飲食店や、映画館、ストリップ劇場から、間口の狭い古着屋、食料品、化粧品、洋服仕立、文房具から貴金属やカメラ店などの店が軒を並べていた。
終戦当時、渦中にいた在日台湾人(同級生の母親)の方から、「安藤組は日本人と同じように多くの三国人を守ってくれた」と話して頂いた。また武器を持って暴れまわる三国人から安藤組の大幹部・花形敬 を助け出した武勇伝も聞かされた。
昭和60年頃から平成4年にかけて、渋谷区桜丘町に自分の事務所を持っていた時期に、さくら坂上のマンションに安藤昇氏がお住まいで、その1階の喫茶店でお目にかかる機会があった。
友人の紹介で、恐るおそる在日台湾人の方の話を伺うと、うなづいてから「よく覚えてる」と気さくに答えて下さった。
渋谷のディープなスポットというと、名の通った場所や名店を引合いに出すことも多い。しかし本当にディープな隠れ家は、今でもひっそりと店を開いている。久しぶりに顔を出しても黙って好みの酒とグラスを差出してくれる…これが渋谷だ。
昭和39年(1964年)の東京オリンピックを境に、渋谷の街は大きく変貌を遂げた。そして、営団地下鉄(現在の東京メトロ)銀座線周辺の闇市は東急文化会館に変わり、百軒店 もビルの隙間にわずかに残る程度で大半が消滅した。
同じように井の頭線高架周辺の居酒屋や、焼肉屋などもわずかに残る程度だ。武漢コロナのお蔭で、こうした店も息絶えるのかな?…と心配しています。
東京オリンピック国際放送センターを機にNHKが大手町から渋谷の神南に順次移設され始めた。渋谷駅からNHKにつながる公園通りに、若者の音楽、演劇などの発信基地として昭和44年(1969年)ジァン・ジァンが作られ、昭和48年(1973年)に先端ファッションを集めた渋谷PARCOPart1が開業した。
渋谷桜丘に本社をかまえる東急は、昭和53年(1978年)旗艦店として渋谷宇田川町に東急ハンズ、昭和54年(1979年)に道玄坂と東急本店通り(現在の文化村通り)にはさまれた三角地帯に、渋谷109を相次いで開業した。
猥雑だった渋谷の街は、すっかりロンダリングされて、今は若者が主役の街になっている。原宿、恵比寿も変貌した。そこが活力のある街であれば当然だろう。
少しキザな言い回しになるが、いつか若者は大きく羽ばたき、この街を振り返った時に、ご自分の歴史がよみがえることを、心から祈念します。
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