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前回の「杉並区の歴史探訪」は、大正12年(1923年)の関東大震災を経て、田園地帯の市街化が進んだ様子を見ました。今回は江戸時代後期には、すでに市街化が進んでいた港区の地域です。
 
ペリー来航以来、横浜から品川にかけて外国公館が設けられたこともあり、明治以降は港区域には各国の大使館が集まった。その結果、芝、三田、麻布など沿岸地域を中心に、早くから欧米外国人が住みやすい街として発展した。
 
一方で戦前の青山、赤坂、六本木周辺は、市谷と同様に陸軍を中心とした軍施設が設けられた。戦後の占領で、これらの施設はGHQに接収され、周辺は他の駐留軍基地と同様に「米兵の街」に生まれ変わった。
 

 
江戸時代の港区地域は麹町、四谷などと同様に、おおむね幕府の御家人、各藩の江戸屋敷とそこに勤務する武家の屋敷が多かった。また江戸市中と同様に神社仏閣が多く、一部には商家もあり、青山、白金などの西部、三田、麻布などの南部地域には田畑が残っていた。
 
赤坂
赤坂御門
虎之
虎之御門
幸橋
幸橋御門
大山道のひとつであった「矢倉沢往還やぐらざわおうかん」(現、国道246号線=青山通り)から江戸城内につながる場所には「赤坂御門」があり、北側に外堀と南側に溜池が境界になっていた。赤坂見附から永田町に登る富士見坂の途中には、赤坂御門の石垣が今でも残っている。
 
江戸時代の港区域と千代田区域の境界には、「赤坂御門」の溜池ためいけから流れる汐留川に架かる「虎之御門とらのごもん」(虎の門=現、桜田通り)、更に汐留川の下流に新シ橋(現、祝田通り)、「幸橋さいわいばし御門」(山手線内側周辺=現、日比谷通り)があった。その川下は主に町屋で、江戸末期には土橋、難波橋、芝口橋(後の新橋)、汐留橋があった。
 
麻布は、農村や寺社の門前町であったが、江戸時代初期に武家屋敷が建ち並ぶようになり、江戸の人口増加・拡大につれ都市化し代官支配から町方支配にうつる。馬場が享保14年(1729年)に芝から麻布に移転、十番馬場と呼ばれた。馬場移転に伴い馬市が立ち麻布十番は栄える。
 
 
赤坂は永禄10年(1567年)人継村(ひとつぎむら)が開拓されたのが始まり。江戸幕府の開闢で、町屋、武家屋敷が造られたのを皮切りに次第に市街化が進んだ。外堀通りの赤坂見附交差点から新宿通り(国道20号)四谷(四谷見附)方面に上る紀伊国坂を通称「赤坂」と呼ばれていた。
 
徳川家康の老中であった青山忠成ただなりは、家康が江戸に移ると慶長6年(1601年)に江戸町奉行に任命され5,000石の領地を与えられた。広大な下屋敷に付近一帯の町名に青山を冠した。
 
寛文2年(1662年)、豊島郡柴村、荏原郡金杉町、三田村の一部、上高輪村が町奉行支配となり、元禄9年(1696年)には組屋敷のあった虎ノ門に隣接して神谷町ができ、西久保車坂町・西久保新下谷町・西久保同朋町が成立し町奉行支配になる。宝永7年(1710年)芝口一から四丁目・源助町などが町屋として成立し、続いて正徳3年(1713年)白金台町と白金猿町、荏原郡下高輪村が町奉行支配になる。
 

 
明治11年(1878年)郡区町村編制法により「東京15区」が設けられ、現在の港区域は、東京府赤坂区」、同「麻布区」、同「芝区」が設置される。
 
1899年
東京府の港区域 - 明治11年(1878年)【町名と行政境界線は現在(2018年)時点の表記】
 
この時、荏原郡の下高輪町・芝田町・芝通新町・芝伊皿子町・芝松坂町・三田四丁目・白金台町が芝区に編入される。
 

 
15区
東京府15区の成立 明治11年(1878年)
明治22年(1889年)東京府は府下に東京市を設け、東京15区の区域をもって東京市とした。
 
麹町区神田区(現、千代田区)
日本橋区京橋区(現、中央区)
芝区麻布区赤坂区(現、港区)
四谷区牛込区+後、淀橋区(現、新宿区)
小石川区本郷区(現、文京区)
下谷区浅草区(現、台東区)
本所区+後、向島区(現、墨田区)
深川区+後、城東区(現、江東区)
 
昭和7年(1932年)に東京市35区制になり、淀橋区、向島区、城東区が区に昇格し、昭和22年(1947年)に23区制で、新宿区、墨田区、江東区に編入された。
 

 
下図は裏辺研究所さんの「地名保存委員会&古地図」から港にあたる場所を合成した画像だ。画像を拡大してタイムトラベルです。
 
1932年
昭和7年初版、改訂22版の大東京市全図(港区部分合成)- 裏辺研究所さん
 
昭和7年(1932年)当時の線路や道路、名所旧跡などが載っている。また港区にお住まいだったり、知人のお宅や勤め先など、心行くまで楽しんでください。
 
大画像でご覧になる方は、グーグルドライブからダウンロードできますので、ご利用ください。
 
 

 
港区は千代田区、中央区とともに「都心三区」と言われ、民放キー局(NTV、TBS、フジ、TV朝日、TV東京)は現在すべて港区域にある。また開国以来、外国人の多く住む町で、在日外国大使館も95か国(2019年現在)が港区にあるようです。
 
東禅寺
英國総領事館(高輪中町)
東禪寺(1860年代)
米國
米國大使館(赤坂區榎坂町)
ともゑ商會「東京府名勝圖繪」(1912年)
和蘭
和蘭公使館(芝區榮町)
ともゑ商會「東京府名勝圖繪」(1912年)
幕末の安政6年(1859年)、イギリスは高輪中町の東禅寺に「英国総領事館」、アメリカは麻布の善福寺に「米国公使館」、フランスは三田の済海寺に「佛国領事館」を設けた。同じ年に西洋で唯一国交のあったオランダは芝の西應寺に「和蘭オランダ公使館」を設けた。
 
明治に入るとアメリカは一旦、築地居留区(現、聖路加病院周辺)に移り、明治23年(1890年)に赤坂区溜池榎坂町(現在の赤坂一丁目)に移た。オランダは明治16年(1883年)に芝区栄町(現在の芝公園)に和蘭公使館を建て、イギリスは明治17年(1884年)に麹町区五番町(現在地)、フランスは明治10年(1877年)には麹町区永田町、更に麹町区飯田町に移転し、昭和32年(1957年)南麻布(現在地)にフランス大使館を設けている。
 
幕藩体制で大名家の江戸屋敷や御家人の屋敷などの広大な敷地が、明治に入って政府や軍の施設、学校になり、同時に各国の領事館や大使館に割り振られた。
 
USA
アメリカ合衆国大使館
赤坂 靈南坂
CAN
カナダ大使館
赤坂 青山通り
FR
フランス共和国大使館
南麻布 天現寺
DL
ドイツ連邦共和国大使館
南麻布 南部坂
IT
イタリア共和国大使館
三田 綱坂
NDL
オランダ王国大使館
芝公園 神谷町
CCP
中華人民共和国大使館
元麻布 テレ朝通り
ROS
ロシア連邦大使館
麻布台 狸穴
こうして明治以降、港区、千代田区の区域に多くの大使館が集まった。現在では国の数が増えたので、ビルの一室を大使館にしている国や、周辺の渋谷区、目黒区、品川区まで大使館が広がっている。
 
大使館は国の威信を象徴する建物なので、特徴あるデザインも多く、散歩がてらに大使館巡りをするのも興味深いと思います。ただし紛争地域などの大使館の周辺は要注意ですね。
 

 
GHQ
GHQが置かれた日比谷、第一生命ビル
明治以来の各国大使館の集中とともに、大東亜戦争に敗戦して、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領が、千代田、中央、港の「都心三区」は、大きな影響を受けた。
 
大手町、丸の内、日比谷などのビルの多くは接収され、戦前、軍施設が比較的集まっていた青山、六本木地区の用地に進駐軍の施設が作られた。
 
無論、都心だけでなく、軍港や飛行場、練兵場などのあった地域も同様であったが、兵士や士官が居住する周辺には、進駐軍向けの商店ができ、飲食店や娼館が繁盛した。
 
商店としては、衣料品や家具類が多かったが、将校向けには高価な骨董品が人気で、銀座、赤坂、六本木、青山、原宿には古美術、骨董品店が軒を連ねていた。青山の「骨董通り」は往時の名残だろう。
 
歩兵三連隊
陸軍 歩兵第三聯隊(昭和3年)
HB
ハーディー・バラックスのヘリポート
六本木龍土町から青山墓地下に抜ける麻布台には、陸軍歩兵第三連隊が駐屯していた。
 
戦後、GHQに接収されて「ハーディー・バラックス」(Hardy Barracks)が作られた。バラックは「兵舎」をさすようだが、今でも兵員宿舎と米軍準機関紙「星条旗新聞」(Stars and Stripes)の赤坂プレスセンター、ヘリポートが併設されている。現在でもエアバンドでハーディー・バラックスの気象情報が24時間流れている。
 
1964年東京オリンピックのしばらく後まで、アメリカ式のカウンターにクォーター(25¢)コインを置いて酒を飲ませるバアが、六本木の裏道にあった。
 

 
赤坂花街
赤坂の花街(戦前)
赤坂は日清戦争以降の花街だったので、一ツ木通りの裏道になるみすじ通り、赤坂田町通りや周辺には、高級割烹の黒塀くろべいが並建ち並ぶ独特の地域であった。
 
赤坂は国会議事堂と議員宿舎、官公庁などに隣接した地域でもあり、政官財界と陸軍の夜の舞台となった。海軍は新橋、柳橋界隈だったようだ。
 
昭和39年(1964年)東京オリンピックの頃まで、赤坂や柳橋では芸者さんの送迎用に人力車が黒塀に沿って並んでいた。
 
山王ホテル
山王ホテル(米軍接収中)
昭和11年(1936年)に二・二六事件の舞台になった「山王ホテル」は、戦後GHQに接収されアメリカ軍関係者のホテルや家族宿舎となった。
 
同じく反乱軍のたてこもった日本料理「幸楽」は大東亜戦争にB-29が墜落して焼失した。戦後の昭和28年(1953年)、幸楽跡地に米軍兵の慰安用ナイトクラブ「ラテンクォーター」が建てられた。
 
ラテンクォーターは昭和31年(1956年)に再び焼失し、跡地に昭和35年(1960年)「ホテルニュージャパン」が建設され、地下に「ニューラテンクォーター」と隣地に「月世界」が開業した。
 
ラテンクォータ
ニューラテンクォーター
ゴールデン赤坂
ゴールデン赤坂
ミカド
レストランシアター「ミカド」
赤坂のニューラテンクォーターは、E・H・エリックが専属司会者で、ルイ・アームストロング、ナット・キング・コール、ダイアナ・ロス、パティ・ペイジ、サミー・デイヴィス・ジュニアなど、世界のエンターテイナーが公演している。
 
昭和36年(1961年)頃から高度成長が加速して「ミカド」、「コパカバーナ」、「ゴールデン赤坂」(後のゴールデン月世界)などのクラブやキャバレーが繁盛した。
 
昭和57年(1982年)ホテルニュージャパンは火災で死者33人を出す惨事となり、ホテルは閉鎖されたがニューラテンクォーターは昭和64年(1989年)まで営業が続けられた。
 
平成に入ると赤坂の街の様子は一変し、一時は裏道がコリアンタウン化したが、現在は老舗の割烹が伝統の味と技を活かした割烹レストランとして復活してきている。
 

 
港区域でも青山通り(246号線)沿いは、赤坂御所、神宮外苑、青山墓地などの緑があふれ、周辺には外国公館や在日外交官の居宅も多い。そうした外国人向けに、戦後早い時期から欧米風のスーパーマーケットが作られた。
 
青山、六本木が、いかにも「バタ臭い」街になったのは、ここに所以ゆえんしているのかも知れない。
 
紀伊国屋開業
紀伊国屋、果物商として創業(1910年)
紀伊国屋
紀伊国屋クラフト紙製バッグ(1953年)
ユアーズ
深夜のユアーズ(1964年)
ピーコック
大丸ピーコック青山店(1964年)
キディランド
表参道のキデイランド(1974年)
明治43年(1910年)に果物商として「紀伊国屋きのくにや 」は開業した。同じ年に「西村」(現、渋谷西村總本店)も小石川区駕籠町で開業。天保5年(1834年)創業の「千疋屋せんびきや」、明治18年(1885年)創業の「新宿高野」、明治36年(1903年)創業の明治屋につぐ果物店の老舗である。
 
紀伊国屋は昭和28年(1953年)にセルフサービス方式による日本初の食料品スーパーマーケットを青山通りに開店する。店内カートとレジによる清算、ロゴの入った紙袋が洋画の風景そのままで、日本人にも人気となった。
 
老舗の明治屋も昭和34年(1959年)にスーパーマーケット「六本木ストアー」を開店した。
 
1960年代、平凡パンチのIVYルックの「みゆき族」が人気があり、男性はボタンダウンシャツにコットンパンツ、女性はポニーテールにウエストリボンスカートでVANの紙袋を小脇に挟んでいた。
 
昭和39年(1964年)に「ユアーズ」が青山通りに開店した。奥に細長い店(現在のコンビニに近い)で、紀伊国屋、明治屋より若い層を対象にしていたようだ。深夜まで営業していたので「ジャイアント馬場がレジに手を置いたらスッポリ隠れた」との逸話(真偽不明)も聞いた。
 
同じ年の10月にピーコックストア青山店が関東進出1号店としてオープンした。こうしたマーケットには、芸能人やスポーツ選手が外車で乗り付けることも多く、これらの店の周辺は若者たちのステータスとなっていた。
 
昭和25年(1950年)に、表参道に橋立書店が出店して、周辺に居住していた外国人向けの雑貨・玩具などを取り扱うようになる。昭和33年(1958年)に米軍関係者などを対象とした原宿セントラルアパート、昭和40年(1965年)に完成したコープオリンピアには外国人が多く居住した。
 
1960年代には、橋立書店はおもに欧米製の玩具やボードゲームを販売する「キデイランド」となって、外国人だけではなく次第に若者たちの人気を集めるようになった。
 

 
ドラマ
テレビドラマ(Donna Reed Show)
戦後の学校では、歴史の事実をよそに徹底した「自虐史観」を植え付けられ、洋画とテレビドラマで欧米の「個人主義」の素晴らしさを見せつけられる。親が子供に「きみ」とか言ったりする。
 
さらに街に出れば、横文字文化に頭からかって青春を過ごしていた。無論、欧米の文化を否定するつもりなど毛頭もうとうない。むしろあこがれは今でも残っている。
 
ただ結果として無国籍、無関心、無宗教な個人が生まれ、「自分が何者か?」さえ見失ってしまったように感じた。幸いなことに昭和の会社組織や地域には戦前教育を受けた先輩が多くいて、仕事の厳しさや社会のルールを教えてくれた。また海外に行けばいやおうにも「日本人」として見られるので、それなりに順応してきた。
 
こうした経験の積み重ねで、徐々にみずからの軌道修正が行われたと思う。しかし、つぶさにかえりみると、学校教育で植え付けられた歴史観との整合性が取れなくなっていった。
 
この違和感こそが、当ブログで歴史の事実を掘り起こす切っ掛けとなりました。
 
 
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