区の名称を押すと、その区の記事に移動します | ||||||
板橋 | 北 | 足立 | 葛飾 | |||
練馬 | ||||||
豊島 | 文京 | 荒川 | ||||
台東 | 墨田 | 江 戸 川 | ||||
杉並 | 中野 | 新宿 | 千代田 | |||
中央 | 江東 | |||||
世田谷 | 渋谷 | 港 | ||||
目黒 | 品川 | |||||
大田 | ||||||
今回は、前回の「大田区の歴史探訪」の北側位置する世田谷区をテーマにした。世田谷区は大田区、目黒区、渋谷区、杉並区、狛江市、川崎市と隣接している。人口は23区内では1位で、面積は大田区に次いで2位になる。
千代田、中央、港、渋谷、新宿などを都心区とすれば、勝手に名付けたが「衛星区」の代表的な区部が、大田、世田谷、杉並、練馬板橋、北、足立、葛飾、江戸川といった隣県または都下に接する区だろう。
衛星区の中でも世田谷区は、海岸寄りの大田区に次いで、都市化が進んだ町だといって差し支えないだろう。
江戸時代は品川「荏原郡」のうち、世田谷領8村を彦根藩世田谷代官(大場家)が、世田ヶ谷村、弦巻村、用賀村、野良田村、小山 村、上野毛村、瀬田村と馬引沢村の彦根藩領部分を治めていた。
東急世田谷線、上町駅でボロ市の開かれる通りに面して代官屋敷が残っている。
江戸時代の区内域には、その他幕府領や寺社領として、松原村、赤堤村、経堂在家村、代田村、池尻村、三宿村、下北沢村、若林村、上馬引沢村、中馬引沢村、下馬引沢村、奥沢本村、等々力村、太子堂村、下野毛村、上北沢村があった。
明治11年(1878年)、郡区町村編制法により、品川宿を核とした地域が「荏原郡」として再編成され、駒沢村、世田ヶ谷村、玉川村、松沢村の4村になった。この時、神奈川県北多摩郡に砧村と千歳村が再編された。昭和11年(1936年)砧村、千歳村が東京市に編入されて世田谷区の一部となった。
江戸の庶民は大山詣が盛んで、その大山道の一本が「矢倉沢往還 」(現在の246号線)であった。この大山道から鶴川、町田方面に向かう「登戸道」(現在の世田谷通り)が分岐する、荏原郡中馬引沢村 に信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋という三軒の茶屋が並んでいた。文化文政の時代には「三軒茶屋」の名は広く知られるようになったようだ。
一方、江戸五街道の内、日本橋から内藤新宿と甲府柳町宿を結ぶ「甲州街道」に近接する、大原、松原、桜上水、上北沢、烏山が世田谷区の北端に接する。
さかのぼって明治26年(1893年)に「東京府及び神奈川県境域変更に関する法律案」が可決され、多摩川以北の千歳村と砧村も、神奈川県から東京府北多摩郡に移管された。
昭和11年(1936年)になってから、北多摩郡から千歳村と砧村が世田谷区に編入され、これにより世田谷区は、ほぼ現在の広さになった。
世田谷区の中央部は大山詣の矢倉沢往還 (現在の246号線)に沿って、明治40年(1907年)玉川電気鉄道が玉川と渋谷の間に、多摩川の砂利を運搬するために敷設された。
大正4年(1915年)に開業した武蔵野鉄道の武蔵野線(現在の西武池袋線)も同様に砂利やセメントなどの運搬が主目的だった。
玉川電気鉄道は、渋谷で東京市電と接続され、砂利運搬とともに旅客輸送も行うようになり、住宅化が進んだ世田谷地域を貫く一大動脈となった。
大正11年(1922年)渋谷から天現寺線が延伸され、一方で砂利の採取場所が上流に移って行ったため玉川と砧本村を結ぶ砧線が大正13年(1925年)に開業した。大正14年(1925年)には、三軒茶屋から下高井戸間(現在の世田谷線)を開設した。玉川電気鉄道(通称「ジャリ電」)は、大正12年(1923年)の関東大震災で、復興資材の運搬に貢献した。
世田谷区の北部には、大正2年(1913年)京王電気軌道が笹塚と調布の間に開業し、開業と同時に区内では、代田村の代田橋駅、松原村の火薬庫前駅(現在の明大前駅)と下高井戸駅、松沢村の上北沢駅が開設された。
昭和2年(1927年)小田原急行鉄道が新宿と小田原の間に開通し、この時、東北沢駅、下北沢駅、世田ヶ谷中原駅(現在の世田谷代田駅)、豪徳寺駅、経堂駅、千歳船橋駅、祖師ヶ谷大蔵駅、成城学園前駅、喜多見駅が区内に開設された。
世田谷区の東端をかずめるように、東京横浜電鉄が神奈川駅から丸子多摩川駅(現在の多摩川駅)についで、昭和2年(1927年)に渋谷と丸子多摩川駅の間が開通した。なぜか世田谷区内を避けるように駅が設置され、九品仏駅(現在の自由が丘駅)の出入り口が世田谷区域になっている程度だ。
世田谷区南部の不便を解消するように目黒蒲田電鉄が、大井町駅と大岡山駅間に続いて、昭和4年(1929年)自由ケ丘駅(現在の自由が丘駅)と二子玉川駅を二子玉川線として開通し、その年に大井町駅と二子玉川駅が直通運転を開始した。区域では開業時、九品仏駅、等々力駅、上野毛駅、二子玉川駅が開設された。
昭和8年(1933年)区域北部に井の頭線が渋谷と井の頭公園間に開業した。帝都電鉄の開業時、世田谷区域にあった駅は、池ノ上駅、下北沢駅、代田二丁目駅(現在の新代田駅)、東松原駅、西松原駅(現在の明大前駅)である。
世田谷区の北部には小田急線、京王線、井の頭線の3線が折り重なるように敷かれている。こうして北部一帯は、渋谷、新宿に直結し、下北沢を中核として発展を遂げた。また南部は東横線と大井町線で、自由が丘を中心に商業が発展した。一方、三軒茶屋を中心とする世田谷区の中央は、玉川電気鉄道(玉電)に依存していたため、自動車交通量の増加と共に路面電車が大きな障害となった。
次第に三軒茶屋から渋谷の間の交通渋滞は激しくなり、玉電もバスも自動車も利便性が損なわれた。そして世田谷は「陸の孤島」とまで揶揄されていた。昭和52年(1977年)に「新玉川線」が開通したことで、世田谷線を除く東急玉川線(玉電)が廃止され、交通渋滞も徐々に解消に向かった。
下図は裏辺研究所さんの「地名保存委員会&古地図」から世田谷区にあたる場所を合成した画像です。
昭和7年(1932年)当時の線路や道路、名所旧跡などが載っている。また世田谷区にお住まいだったり、知人のお宅や勤め先など、現在との違いを楽しんでください。
大画像でご覧になる方は、グーグルドライブから閲覧とダウンロードできますので、ご利用ください。
以下は観光案内のようになってしまうが、246号線(玉川通り)、世田谷通り、駒沢通り、赤堤通りなど主要道路に面した飲食店や商業施設は他のブログに譲って、歴史から暮らしぶりが伝わる場所を選んでみた。
東急の実質的な創始者、五島慶太の美術コレクションを保存展示するために、昭和35年(1960年)開設した五島美術館は上野毛の高台にある。国宝「源氏物語絵巻」を始め一級の美術品を鑑賞できる。美術館の庭園も美しく、日本文化に興味のある外国人の方を案内しても良いかもせいれない。
豪徳寺は寛永10年(1633年)、彦根藩主の井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍 を創建し整備した。小田急線の豪徳寺駅近くで、彦根藩所領の荏原郡世田谷8村のシンボルでもある。。
都心とは思えない渓谷が等々力渓谷である。渓流は一級河川の谷沢川で多摩川と合流する。世田谷区桜丘の武蔵野台地の湧水などを源流とし、等々力渓谷まではほぼ暗渠(地下トンネル)になっている。
日本初の女性プロ漫画家の長谷川町子で、「サザエさん」、「意地悪ばあさん」などは誰でも知っているだろう。桜新町にあった自宅アトリエを活かして敷地に長谷川町子美術館が作られてた。桜新町の魚屋さんや酒屋さんなどは、度々漫画に登場している。
かつて東映フライヤーズ(現在の日本ハムファイターズ)が本拠地としていた駒沢球場は、水原監督の下で「日本一」も果たした。大下弘、尾崎行雄、張本勲、大杉勝男、山本八郎、毒島章一、西園寺昭夫など個性豊かな選手が揃っていた。駒沢球場はグランドと観客の距離が近かったので、選手とファンが口喧嘩で罵り合うのも日常茶飯事だった。1960年東京オリンピックで競技場に建替えられて、現在は駒沢オリンピック公園になり往時の跡形もない。
砧緑地の一角にある世田谷美術館で、世田谷区が昭和61年(1986年)に設立した。リベラル志向の強い区民性からか、多少毛色の変わった作品の展示も多いようだ。
昭和7年(1932年)に仙川沿いに完成した東宝撮影所は、映画撮影スタジオを中心に、録音スタジオ、現像所も併設された。これが切っ掛けで黒澤明監督を始め、多くの芸能人が成城の街に住んだ。小田急線成城学園前駅が最寄り駅だが、世田谷通りから一歩入ったところに正面ゲートがある。
馬事公苑は、昭和15年(1940年)に向けて馬事普及の拠点として作られた。現在でも、運が良ければ馬場で迫力のある障害レースなど楽しむことができる。馬事公苑の周辺には東京農業大学があり、弦巻寄りにはJRA(日本中央競馬会)の職員住宅が集まっている。
砧の世田谷通り沿いにあるNHK放送技術研究所は開所90年を迎えたようだ。年1回の「技研公開」では、最新のテクノロジーを体験できる。最近は、本来の革新技術の公開より、IOTや高解像度画像などの一般受けを狙っている展示が興味をそがれる。
かつては世田谷区の中で「陸の孤島」といわれた地域も、交通が整備されて暮らしやすくなった。近年は戸建て住宅中心から、マンションなど集合住宅が増えてきましたね。サザエさん一家ではないですが、人と人の温もりは失いたくないと思います。
■ ほかの区の歴史探訪は「こちら」をクリックしてください。■