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品川区は大田区世田谷区と比較すると、人口では世田谷区の半分以下の41万人余、面積でも東京都区部で10位の22.84km²だ。
 
品川は、江戸末期のお台場を皮切に、昭和に入ってから、勝島、八潮、天王洲など、東京湾の埋め立てによって、区の面積を広げてきた。
 
また品川と言えば、新橋、横浜と並ぶ鉄道発祥の地であり、東海道線と山手線の整備の核で、明治の近代化に大きな役割をはたした。
 
東海道の品川宿は、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光、奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿にあげられた。宿場制度が廃止になってからも、昭和33年(1958年)の売春防止法施行まで、北品川一帯では多くの遊郭が営業を続けた。
 

 
品川宿
「五十三次名所図会 二 品川」
御殿山より駅中を見る
品川の歴史は古代に始まり、目黒川河口付近に品川湊しながわみなとがあった。奈良時代、平安時代には既に都と武蔵国の国府(現在の府中市宮町)の中継地点や駅家うまやとして機能していたという記録があり、交通拠点となっていたと考えられる。
 
慶長6年(1601年)に東海道五十三次の宿場として品川宿が設置された。他の宿場と同様に岡場所おかばしょ(色町、遊廓、飯盛旅籠)としてにぎわった。
 
江戸時代の「荏原郡」の中で、品川領は幕府直轄で、北品川宿、品川歩行新宿かちしんしゅく、南品川宿、南品川利田新地の町と、二日五日市村、居木橋村、白金村、戸越村、上蛇窪村、下蛇窪村、大井村、上大崎村、下大崎村、中延村、小山村、谷山村、桐ヶ谷村の13村があった。
 
荏原郡
荏原郡の品川区域 - 明治22年(1889年)【町名と行政境界線は現在(2018年)時点の表記】
 
明治11年(1878年)に郡区町村編制法により、品川宿を中核とした地域が「荏原郡」に再編された。明治22年(1889年)に東京市が発足し、荏原郡は品川町以下、大井村など18村に整理された。品川区域内では品川町、大井村、大崎村、平塚村の1町3村となる。
 

 
品川区
品川区と荏原区の誕生(1932年)
日清、日露の試練を経て、我が国の不平等条約も徐々に解消し、貿易量の増加に呼応して湾岸地域の工業化が一段と進んだ。
 
昭和7年(1932年)東京市の拡大と共に東京35区となった。こうして荏原郡の一部から、品川、大井に加えて、発展めざましい大崎が品川区となり、中原街道に面した荏原地域が荏原区となった。
 
品川区域の近代化は、明治5年(1872年)に官設鉄道により、日本初の鉄道開通に始まった。開業時には新橋(汐留駅)、品川ステーション、横浜(桜木町)のわずか3駅だけだった。
 

 
下図は裏辺研究所さんの「地名保存委員会&古地図」から品川区にあたる場所を合成した画像です。
 
品川区
昭和7年初版、改訂22版の大東京市全図(品川区部分合成)- 裏辺研究所さん
 
昭和7年(1932年)当時の線路や道路、名所旧跡などが載っている。また品川区にお住まいだったり、知人のお宅や勤め先など、現在との違いを楽しんでください。
 
大画像でご覧になる方は、グーグルドライブから閲覧とダウンロードできますので、自由にご利用ください。
 
 

 
品川駅
開業初期の品川駅
京浜線
京浜線電車の試運転(大正3年 1914年)
京急
京浜電気鉄道(大正13年 1924年)
戸越
大井町線戸越公園の被災(昭和20年 1945年)
開業当時の品川駅は海岸線にあり、品川宿の南側に作られた。明治18年(1885年)には上野駅以北に路線を拡大していた日本鉄道品川線(現、山手線)が品川駅に乗り入れた。日本鉄道は、品川駅から渋谷駅、新宿駅、板橋駅、赤羽駅などを開業した。明治31年(1898年)には貨物の取り扱いを開始した。
 
日露戦争の一年後の明治39年(1906年)に鉄道国有法によって国有化され、東海道本線に組み込まれた。
 
大正3年(1914年)、東海道本線の電車線で東京駅から高島町駅の間に京浜線(現在のJR京浜東北線)として運行を開始し、翌年には「大井町駅」が開業した。ちなみに「品川駅」は芝区(現在の港区)になる。
 
明治34年(1901年) 京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が、大森停車場前駅(現在の大森駅)から八幡駅(現在の大森海岸駅)を通り、川崎駅の間が開業。更に明治34年(1901年)には、大崎駅・恵比寿駅(貨物駅)が開設される。明治37年(1904年)には品川区域の品川駅(現在の北品川駅)まで延伸され、区域東部の利便性が向上した。
 
大正11年(1922年)に池上電気鉄道(現在の東急電鉄)が蒲田と池上駅間で開通した。昭和2年(1927年)には雪ヶ谷駅(現、雪が谷大塚駅)から桐ヶ谷駅(廃止)を経由して五反田まで延伸された。
 
五反田と蒲田がつながったことで、品川区域西部における交通動脈となった。この延伸で、品川区域内では、五反田駅、大崎広小路駅、桐ケ谷駅、戸越銀座駅、荏原中延駅、旗ヶ岡駅(現在の旗の台駅)が新設された。
 
目黒蒲田電鉄(現在の東急電鉄)が大井町駅と大岡山駅まで開業して、昭和4年(1929年)には二子玉川駅まで延伸された。品川区域では運転開始と同時に、大井町駅、戸越駅(現在の下神明駅)、蛇窪駅へびくぼえき(現在の戸越公園駅)、中延駅、荏原町駅、東洗足駅(現在の旗の台駅)が開業した。品川南部が大井町と直結し、更に池上線経由で五反田ともつながった。
 

 
品川は、古代から港町、東海道の要所として栄えて、江戸時代には品川宿はすでに都市化が進んでいた。また江戸の市街地に近いことから、数多くの歴史の舞台にもなった。
 
長い時間をかけて歴史が染着いた街には、横文字で飾り立てるなど、余計な小細工は必要ないだろう。
 
東海寺
沢庵禅師の東海寺 世尊殿
(北品川)
鈴ヶ森
鈴ヶ森刑場遺跡
(南大井)
お七
八百屋お七
月岡芳年
広重
双筆五三次 品川
歌川広重
島崎楼
貸座敷「島崎楼」
北品川(昭和4年)
寛永16年(1639年)、品川の「東海寺」は臨済宗の寺院で、徳川家光により寛永16年(1639年)に建立された。家光と親交があり、生涯無欲を貫いたといわれる沢庵宗彭たくあんそうほうが住職を務めた。
 
江戸の北の入口「小塚原刑場」と共に、南の入口(東海道)として慶安4年(1651年)に「鈴ヶ森刑場」が開設される。慶安の変の首謀者「丸橋忠弥」は最初の処刑者、辻斬りで130人もの人を殺した「平井権八」が延宝7年(1679年)、徳川吉宗の御落胤を称して決起を謀った「天一坊」は享保14年(1729年)、恋人に会いたい一心から付火つけびを起こした「八百屋お七」が天和3年(1683年)など、鈴ヶ森で処刑された。
 
品川宿の人気が高まり色町、遊廓、飯盛旅籠が次々と建てられた。明和9年(1772年)、幕府は品川宿の飯盛女の数を500人と定めたが、実効性がなく増加し続けて「北の吉原、南の品川」といわれるほどの遊興地として発達した。
 

 
浜川砲台
浜川砲台の復元
(北品川公園)
土蔵相模
飯売旅籠屋「相模屋」
(北品川)
東禅寺
The Illustrated London News
東禅寺事件の報道(1961)
嘉永6年(1853年)ペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航したときに、土佐藩下屋敷(鮫洲抱屋敷)があり、浜川砲台を築いて海防を強化した。この頃、剣術修行のため江戸へ遊学中であったが、黒船来航を受け、土佐藩下屋敷で沿岸警備の任務に就いている。 仙台藩、越前鯖江藩、薩摩藩の下屋敷も北品川にあった。
 
通称「土蔵相模」は、品川宿の代表的な飯盛旅籠「相模屋」。安政7年(1860年)に「桜田門外の変」で大老の井伊直弼が襲われたが、襲った水戸藩を脱藩した浪士たちは、前日の夕刻に参加する浪士たちが土蔵相模に集結し、襲撃成功を誓って別れの杯を酌み交わした。また土蔵相模は、長州藩士の活動拠点であったとされ、高杉晋作や久坂玄瑞たちが、ここで密議を重ねたといわれている。
 
文久元年(1861年)に起った東禅寺事件は、水戸藩脱藩14名が公使館が置かれていた高輪東禅寺を襲撃した事件である。水戸藩脱藩の攘夷派浪士は、国元を出航して東禅寺門前の浜に上陸すると、品川宿の妓楼「虎屋」で決別の盃を交わした後、イギリス公使オールコックらを襲撃した。その後、文久2年(1862年)にも、東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件が発生した。
 

 
明治以降、品川区は、大田区、川崎市と共に、重工業を中心とした発展がめざましく、これに関連した幾多の町工場が技術を競って下支えをした。周辺地域には田園都市が急増し、商店や遊興施設も発展を遂げた。
 
京栄会
京栄会通り、大雪の翌日(昭和11年)
焼け跡
焼け跡の家族(撮影:別所弥八郎氏)
武蔵小山
武蔵小山商店街の戦災復興(昭和23年)
大井競馬
大井競馬場のパドック 撮影者Gokiさん
オート
大井オートレース場(昭和38年 1963年)
大正12年(1923年)、渋沢栄一による洗足田園都市開発にあわせて、目黒蒲田電鉄が開通し「小山駅」が開業した。翌年、武蔵小山駅と改名され、西側に住宅地域が広がり人口は増加して、商店街は東側(中原街道側)に延びた。現在は「東洋一」の商店街といわれている。
 
同じ大正12年(1923年)の関東大震災で、銀座のレンガ造りの街並みが壊滅的な被害を受けた。大量のレンガ瓦礫の処分に困っているの聞きつけ、水捌けの悪い通りにレンガを敷き詰めてようと銀座からもらい受けたとのことだ。そして「銀座」の名前も頂いて「戸越銀座」商店街が生まれたようだ。
池上電気鉄道(現在の東急電鉄)が、昭和2年(1927年)には雪ヶ谷駅(現、雪が谷大塚駅)から五反田まで延伸され「戸越銀座駅」が開業した。
 
この時代は洗足田園都市開発の一方で、大崎地区と周辺に多くの工場が進出していたため、戸越銀座と武蔵小山は好景気にわいていたようだ。更に昭和2年(1927年)に目黒蒲田電鉄(現在の東急電鉄)が大井町駅と大岡山駅間が開業して地域の利便性が増大した。
 
しかし武蔵小山と戸越銀座の両地域は、大東亜戦争(太平洋戦争)で5月24日に行われた東京大空襲の「山の手空襲」で、街全体が壊滅的な被害を受け、商店街の多くは一面焼け野が原に変貌した。
 
隣接する目黒区では目黒競馬場が昭和8年(1933年)まで競馬が開催されていたが、品川区は昭和25年(1950年)特別区(23区)に対し競馬開催が認可されて、現在はティンクルレースで有名な大井競馬場(東京シティ競馬)を開場した。
 
かつては大井オートレース場も隣接してあったが、美濃部亮吉東京都知事が、耳障り良く「都営ギャンブルの全廃」を宣言したことで、都営のオートレースだけが廃止になり、競馬は都営部分を切り離して継続開催となって現在に至る。
 

 
ねむの木
ねむの木の庭(東五反田)
明電舎
明電舎工場俯瞰図(大正5年)
ニコン
日本光学工業 大井第一工場
東通工
東通工時代の広告(1954年)
美智子上皇后陛下の御実家である正田家の邸宅跡で、プリンセスミチコが咲く庭園「ねむの木の庭」が、静かに時を刻んでいる。五反田の相生坂を望む高台に企業の重鎮が居を構えておられた。
 
品川区域は、戦前から様々な企業が工場を操業していたが、重電機の明電舎は明治45年(1912年)に大崎工場を創設して、東京の電力供給に貢献した。大正12年(1923年)に設立された富士電機も本社拠点が大崎にある。
 
大正元年(912年)ゐのくち式機械事務所(後の荏原製作所)を東京府荏原郡品川町に生産拠点を構えた。/div>
 
大正7年(1918年)に大井第一工場を創設した日本光学工業は、品川インターシティにあるニコンミュージアムで歴史を知ることができる。
 
大崎といえば忘れてならないのが、東京通信工業(後のソニー)だろう。本格的な製造を開始したのが御殿山の工場だ。五反田の駅から、洗濯物をかき分けて会社にたどりついた…とある。東通工の息吹に触れることができた歴史資料館が閉館になったことは誠に残念だ。
 

 
品川は品川湊で開かれ、品川宿で大いに栄えた。遊女と客を扱った落語「品川心中」は、今でも語り継がれている。
 
明治以降、我が国の基幹を支える企業が育まれ、世界に羽ばたいていった。お近くの方は「品川歴史館」をご覧になるのも興味深いと思います。
 
 
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