区の名称を押すと、その区の記事に移動します | ||||||
板橋 | 北 | 足立 | 葛飾 | |||
練馬 | ||||||
豊島 | 文京 | 荒川 | ||||
台東 | 墨田 | 江 戸 川 | ||||
杉並 | 中野 | 新宿 | 千代田 | |||
中央 | 江東 | |||||
世田谷 | 渋谷 | 港 | ||||
目黒 | 品川 | |||||
大田 | ||||||
今回の杉並区は、世田谷区、練馬区、足立区などと同様に、都内23区内では最後まで田園地帯が残った地域と言えるでしょう。
言い換えれば、都心周辺の人口が増えるに従って市街地が拡大して、鉄道が郊外に延伸されて昭和初期までに主要な交通網が整備された。
武蔵野は農地や山林が宅地開発によって区画整理された田園都市が形成され、駅周辺や団地周辺には商店が立ち並ぶようになり、商店街も形成された。
杉並区域は、明治22年(1889年)に甲武鉄道(現在の中央線)が 新宿駅と立川駅の間に開通した。明治37年(1904年)には都心部から電化が進み、明治39年(1906年)に国有化され「中央東線」となった。
大正10年に(1921年)に西武軌道線(後の都電杉並線)が淀橋駅と荻窪駅の青梅街道上に軌道を敷設した電気鉄道として開業し、翌年角筈駅(新宿大ガード下)まで延伸した。
関東大震災の復興事業に合わせて、昭和2年(1927年)に西武鉄道村山線(現在の西武新宿線)村山線高田馬場(仮)駅と東村山駅の間に開業、昭和8年(1933年)に帝都電鉄(現在の京王井の頭線)が渋谷駅と井の頭公園駅の間に開通した。
杉並区から三鷹市の平地に広がった中島飛行機は、大東亜戦争の終結まで東洋最大で、世界でも有数の航空機メーカーであり、周辺には部品供給のための工場も存在した。
戦後はGHQにより航空機の製造が禁止され、多くの技術者はスバル、プリンス、トヨタなど自動車の開発に従事した。このことから、富士重工(元の中島飛行機)、プリンス自動車工業(後に日産自動車)、トヨタ自動車工業などの工場と、それぞれの系列工場が集中した。
江戸時代の初期、徳川家康が江戸城築城の資材運搬で整備した成木往還 (現在の青梅街道)沿いに、成宗・田端両村の領主であった岡部氏が植えた杉並木があった。この杉並木は明治前になくなったが、「杉並」は村名となって残った。
慶長7年(1602年)、甲州街道に「高井戸宿」が設けられ、慶長9年(1604年)に上高井戸宿、下高井戸宿に分けられる。杉並区内に宿場(宿駅)はなかったが、妙法寺の門前は「立場 」として江戸時代後期からにぎわいをみせ、落語「堀之内」の舞台ともなった。
明治元年(1868年)「旧高旧領取調帳」に記載された東多摩郡の幕府領の内、高円寺村、馬橋村、久我山村、上高井戸村、中高井戸村、下高井戸村、田端村、成宗村、和泉村、大宮前新田、松庵村、和田村、上井草村、下井草村、永福寺村、上荻窪村、寺社領が下荻窪村、天沼村、阿佐ヶ谷村、堀之内村であった。
明治22年(1889年)町村制の施行により、高円寺村、馬橋村、阿佐ヶ谷村、天沼村、田端村、成宗村が合併し「東京府東多摩郡杉並村」が発足した。更に明治29年(1896年)に「東多摩郡」が「南豊島郡」と合併して豊多摩郡となる。
豊多摩郡(現在の新宿区の一部、渋谷区、中野区、杉並区)の内、和田堀内村、杉並村、井荻村、高井戸村が現在の杉並区にあたる。
大正12年(1923年)の関東大震災以降、中央線(省線)を利用して都心に通勤する住民が、杉並、井荻などに急増した。こうした需要に、武蔵野の田畑、山林が宅地開発で整備され、庭付きの分譲住宅に変化していった。
更に駅周辺には下宿やアパートが建ち、荻窪には1930(昭和5)に洋間にベッド、クローゼットなどを備え、内線電話も設置されたモダンな「西郊 ロッヂング」という高級下宿が作られた。
大正13年(1924年)、杉並村が町制施行して杉並町となり、大正15年(1926年)に和田堀内村、井荻村、高井戸村がそれぞれ町制施行し、和田堀町、井荻町、高井戸町となる。
昭和7年(1932年)東京市の区部が15区から東京35区に拡張した。豊多摩郡の杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町が、昭和7年(1932年)に東京府豊多摩郡から東京市に編入されて同時に「杉並区」となった。
隣接する中野区、渋谷区、練馬区、世田谷区も東京市の区に編入された。昭和11年(1936年)には砧村と千歳村が東京市に編入され「世田谷区」の一部になった。
明治22年(1889年)に甲武鉄道(現在の中央線)が開通し、明治44年(1911年)に蠶絲 試驗場が高円寺に設置された。次いで大正13年(1924年)井荻町に「中島飛行機」が東京工場を建設し、同年に「東京女子大学」が豊多摩郡井荻村に移転して、昭和9年(1934年)には和田堀町和泉新田旧火薬庫跡地に「明治大学予科」(現在の明治大学和泉キャンパス)が移転して、杉並区域は大きく変貌した。
下図は裏辺研究所さんの「地名保存委員会&古地図」から杉並にあたる場所を合成した画像だ。画像を拡大してタイムトラベルです。
昭和7年(1932年)当時の線路や道路、名所旧跡などが載っている。また杉並区にお住まいだったり、知人のお宅や勤め先など、心行くまで楽しんでください。
大画像でご覧になる方は、グーグルドライブからダウンロードできますので、ご利用ください。
明治22年(1889年)に開業した甲武鉄道(現在のJR中央線)は柏木駅(現在の東中野駅)から立川駅付近の約27・4キロに渡って長い直線になっている。
杉並区は、武蔵野台地の高台で、起伏の少ない平地であったため、縄文時代から生活の痕跡が見られる。そうした点で平安時代には、数多くの神社が建立 され、現代につながるパワースポットになっている。
平安時代末期(1100年代)、春日神 を祀って建立 された。文治5年(1189年)に奥州征伐で源頼朝が起請して八幡神を合祀し、戦の神として井草八幡宮となった。JR中央線「西荻窪」駅と西武新宿線「上井草」駅の中間にあり、善福寺公園に隣接していて森に囲まれている。
文治5年(1189年)、源頼朝は当地にも立ち寄り、側近の安達盛長 に命じて氷川神社を建立させた。当社の境内には、大日本帝国陸軍の陸軍気象部員が、出勤時に気象予報の的中を祈願して八意思兼命 を祀った「気象神社」がある。JR中央線「高円寺」駅にほど近い。
元和年間(1615年~1624年)日逕 上人が、母の日圓法尼の菩提のため日蓮宗に改宗し日蓮の祖師像を祀り妙法寺を建立した。江戸期から「除厄 けのお祖師様 」として名高い。JR中央線「高円寺」駅と東京メトロ丸ノ内線「方南町」駅の中間で、環七通りの外側に境内が広がる。
青梅街道と環状八号線が交差する四面道 交差点。ここを通るたびに「四面道」という道路はどこにあるのか?…と思っていました。
以下は「弁理士の日々」さんのブログ「四面道と四面燈」からの引用です。
https://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/e985582856b075cfe5597b22d283d928
https://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/e985582856b075cfe5597b22d283d928
- 江戸時代、ここは青梅街道と地元農道の交差点でした。そして、天沼・下井草・上荻窪・下荻窪の4ケ村が接する地点でもあり、それが「四面道」の語源である、という説です。
- この場所には、秋葉神社という神社が祀られていました。そして周囲の4ケ村に向けて、四方を照らす高さ1間あまりの常夜燈があり、これが「
四面燈 」と呼ばれていた、とされます。 - 荻寺光明院のお堂が四方に面していたから四面堂になったという説です。
いずれも興味深い考察だが、定説には至っていないようです。
江戸末期の村落で、天沼村と下荻窪村は寺社領で、下井草村と上荻窪村は天領(幕府直轄領)だったようです。見事に四面道付近で交差していますね。ちなみに明治初期の地図には天沼村に「四面道」という部落名が書き込まれています。
この2チームは関東大震災により解散となった。その後、昭和9年(1934年)に大日本東京野球倶楽部「東京巨人軍」(現在の読売ジャイアンツ)が産声を上げ、翌年には大阪野球倶楽部「大阪タイガース」(現在の阪神タイガース)が発足した。
更に翌、昭和11年(1936年)に大日本野球連盟名古屋協会「名古屋軍」(現在の中日ドラゴンズ)、東京野球協会「東京セネタース」、名古屋野球倶楽部「名古屋金鯱軍」、大阪阪急野球協会「阪急軍」(現在のオリックス・バファローズ)、大日本野球連盟東京協会「大東京軍」が名乗りを上げ、日本職業野球連盟が設立された。
戦後直後の昭和20年、東京セネターズは「翼軍 、セネターズ」として結成したが、資金不足から1年でチームを東急電鉄に売却して「東急フライヤーズ」になった。更に昭和23年(1948年)には、人気上昇中の映画業界から大映が経営に加わり「急映 フライヤーズ」と球団名を変えた。
昭和28年(1953年)に世田谷区駒沢公園の駒澤野球場を完成して本拠地として東急は球団経営から外れた。昭和29年(1954年)には東映が球団を買取り「東映フライヤーズ」となる。
昭和36年(1961年)前巨人の水原茂を監督を迎えてパリーグAクラス入りを果たし、翌年には念願のリーグ初優勝を果たす。
昭和45年(1970年)には「黒い霧事件」の疑惑で主力選手が球界から追放された。
昭和48年(1973年)、球団を日拓 ホームが買取り「日拓ホームフライヤーズ」となり、同年にオーナーが日本ハムに変わり「日本ハムファイターズ」となった。
平成15年(2003年)には本拠地を札幌ドーム球場に移して「北海道日本ハムファイターズ」となって、生まれ変わったように常勝球団に変貌した。
話題は横道にそれてしまったが、杉並区は他の隣接する区市と同様に、縄文時代から住環境に適した地域であった。そして住民のおおらかさは、神社仏閣を大切に継承してきた。
近代産業では、大正14年(1925年)中島飛行機の工場移転、昭和12年(1937年)には、農林省蚕糸 試験場が高円寺に開設された。
関東大震災の影響もあり、大正13年(1924年)東京女子大学の善福寺への移転、昭和9年(1934年)明治大学予科(現在の明治大学和泉キャンパス)の和泉への移転、昭和10年(1935年)女子美術専門学校(現在の女子美術大学)の和田本町への移転などが行われた。
こうして杉並区は、一面の田園地帯が住宅、学園都市に大きく様変わりした。今の「筑波研究学園都市」のような感じですかね。
これには明治22年(1889年)の甲武鉄道(現在のJR中央線)開通に始まり、大正10年(1921年)の西武軌道線(後の都電杉並線)、昭和2年(1927年)西武鉄道村山線(現在の西武新宿線)、昭和8年(1933年)帝都電鉄(現在の京王井の頭線)などの公共交通機関が大きく貢献していたことも間違いないでしょう。
江戸時代からの甲州街道、青梅街道が横ぐしとなった幹線道路に加えて、戦後、環状七号線、環状八号線が縦ぐしとなって全通したことも、交通インフラとして大きいと思います。
それにしても、部分的とはいえ環状八号線の工事が戦前から始まっていたとは驚きです。本格的には昭和21年(1946年)の「戦災地復興計画方針」において都市計画決定されたようです。
関東大震災で都心に集中していた人口が郊外に分散し、そこに先人の知恵と努力で新たな産業が花開いた。更に大東亜戦争の空襲で壊滅的な損傷から奇跡的な復興を果たした。
東京というマンモス都市の形成過程を、杉並区の探訪を通して見えた気がしました。
■ ほかの区の歴史探訪は「こちら」をクリックしてください。■