二年前に「サラリマン物語(昭和3年)梗概」を書いて以来の本シリーズの投稿になります。昭和初期に暮らしたサラリーマン《腰辨こしべん》の生活実態や心情を、東洋経済新報出版部の出版した前田一まえだはじめ著「サラリマン物語」を通して探ってみたい思う。
 

 
昭和初期の背広
昭和初期のサラリマン姿
第一セクションは、腰辨こしべんのデフイニシヨンというタイトルで書かれている。デフイニシヨンは「定義する」の意味で、サラリーマン=腰弁を前田一の視点で分析して定義している。
 
文中の俗謡とは、お座敷などで披露される唄をいう。本格的なお座敷芸と云うよりは、流行歌と捉えたほうが適切だろう。
 
現代はあまり使われなくなった「細民」とは、下層階級の人々(貧民)のことをいう。洋服細民とは、洋服を着て身なりは良く見えるが、つまるところ貧民なのだという意味だ。
 
 
第一 腰辨こしべんのデフイニシヨン
 

 
腰辨こしべん定義わけは、月給取げつきふとり?、洋服細民やうふくさいみん?、精神勞働者せいしんらうどうしや?、知識階級ちしきかいきふ?、安月給取やすげつきふとり?…結局解けつきよくわからぬとはひながら、れほどわかつてないやうである。
 
いや、それよりも巷間こうかんよくうたふところの俗謠ぞくえうがあつて、腰辨こしべん觀念くわんねんをやや適確てきかく説明せつめいしてることを記憶きおくしてる。
 
赤坂春本萬龍
赤坂「春本」の萬龍
なんだかんだの神田橋かんだばし
あさの五時頃じごろわたせば
やぶれた洋服やうふく辨當箱べんたうばこさげて
テク〳〵あるくは月給げつきふゑん

自動車じどうしやばせる紳士しんしては
ホロリ〳〵ときいだす
かみほとけよききたま
天保時代てんぽじだいさむらひ

いまじやあはれなのすがた
うちではやまかみがボタンかがりの手内職てないしよく
十四のむすめ煙草たばこ工場こうば
けむりへどもキザミはへず

どうせおかね内務省ないむしやう
これこそ
まこと
二十世紀せいき腰辨こしべんさん
 
うたはれた腰辨こしべんは、どうせむかしまへ腰辨こしべんであらう。今日こんにち腰辨こしべん今少いますこし、進歩しんぽしてるにちがひない。収入しうにふてんおいても、洋服やうふくてんおいても、辨當箱べんたうばこおいても、女房子供にようぼうこどもたいしても、彼等かれらすくななくとも昭和治下せうわちかのモダンボーイにそむかざらんことをつとめてるやうである。
 
この本が書かれた昭和3年(1928年)から見れば、ふた昔前(明治後期頃)の腰弁を唄った内容で、大正ロマンを経てサラリーマンの暮らしぶりも、少しは進歩している…と言っている。日本全体が好景気に沸いていた時代の話だ。
 
景気が良ければ、経済の好循環を生み、文化芸術が花開き、多くの小説家、画家、音楽家、芸能人が活躍し、こうした風変わりな本も出版された。
 

 
井上準之助
井上準之助 30代大蔵大臣
好景気が続いた中で、昭和4年(1929年)立憲民政党の浜口内閣が成立した。日銀総裁から蔵相になった井上準之助は、金輸出解禁、財政緊縮、非募債と減債を行い、一気にデフレーションが起こった。その結果、中小企業は疲弊し厳しい経営を迫られた。
 
昭和4年の末の大阪毎日新聞は「下る・下る物価 よいお正月ができるとほくそえむサラリーマン」という見出しで、金本位制復帰によるデフレを歓迎した。脳天気は今も健在か?
 
この間にアメリカで起こった大恐慌は、昭和5年(1930年)になると日本経済も危機的な状況に巻き込まれた。デフレ下で起こった不況は戦前日本で最大の「昭和恐慌」といわれる。
 
高橋是清
高橋是清 31代大蔵大臣
昭和6年(1931年)末に立憲政友会の犬養内閣になり、高橋是清が蔵相になると、ただちに金輸出を再禁止し、管理通貨制度へと移行した。さらにデフレ政策を積極財政に転換し、赤字国債発行によるインフレ政策を行った。
 
金輸出の再禁止で円相場は一気に下落し、円安によって輸出が急増した。昭和8年(1933年)には他主要国に先駆けて恐慌前の経済水準に回復し、国内需要も高まり好景気を生んだ。
 
立憲民政党の駄策と立憲政友会の政策運営の違いが、現代と重なって見える。現代の政治家は、もう少し歴史を学んでいただきたいと感じる。
 

 
ところで「サラリマン物語」は、次回「第二  高等遊民の洪水『就職難』」を予定しているが、文字起こしに時間がかかるので、あてにしないでお待ちください。
 
 
 
 
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サラリマン物語 連載リスト
サラリマン物語の梗概     腰辨のデフイニシヨン     高等遊民の洪水『就職難』
  腰辨晴衣『首吊く一著』     腰辨の足『省線電車』     大學出の幼稚園『見習制度』