高橋いさをの徒然草 -9ページ目

少年の犯罪~「43回の殺意」

「43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層」(石井光太著/双葉社)を読む。川崎の中学一年殺害事件を描くノンフィクション。この事件は、2015年に川崎市内の河川敷で、中学一年の男の子が、友人関係にあった先輩の少年三人にカッターナイフで切りつけられて死亡した事件である。タイトルにある「43回」とは、加害少年が被害少年に切りつけたナイフの回数を示している。

著者の案内で、凶行があった三年前のあの日へ誘われる。目を背けたくなるような悲惨な事件だが、興味深いのは、被害少年の家族関係である。両親はすでに離婚していて、少年は母親と妹と共に川崎で暮らしていたが、事件にともない地方で漁師の仕事をする父親も上京して、葬式や裁判に参加する。しかし、母親との関係が友好的ではないことから、葬式では一般弔問者のように扱われ、裁判においても離婚した妻と顔を合わせないように遮蔽処理で証人尋問が行われたという。事件の本質とは関係がないかもしれないが、こういう細部が少年が置かれた家庭環境をよく語っている。

著者がインタビューしたのは、専ら被害少年の父親(本の中で母親は一切発言していない)だが、ハッキリと次のように発言しているのが印象的だった。

「三人が刑務所から出てくるのを待って、個人的に復讐するしかないと考えているんです。絞首刑みたいにいっぺんに殺したいわけじゃない。あの三人に遼太と同じ思いを味わわせたいんです」(原文ママ)

さもありなん。我が子を無残に殺された父親は、そのように思って当然だと思う。それを行動に移すか否かは当人次第だが、多くの犯罪被害者の人たちは、加害者への殺意を何とか圧し殺して生きているにちがいない。「そんなことをして死んだ我が子が喜ぶだろうか?」「復讐に手を染めるとは、犯人と同じレベルに自らを貶める行為ではないのか?」ーーそういう自問自答を繰り返しながら。

※同書。 

目の悦び~「るろうに剣心」

新橋演舞場で「るろうに剣心」を見る。和月伸宏の原作漫画を小池修一郎の脚本・演出で舞台化。わたしの関心の外にある舞台だが、出演している女優さんに誘っていただき、観劇した。新橋演舞場へ足を運ぶのは、実に数十年ぶりである。わたしの記憶だと、中村勘三郎(十七代目)主演の「藪原検校」以来ではないか。

時は幕末から明治維新の時代。剣を人を斬るためではなく生かすために使いたいと思う主人公の緋村剣心は、仲間たちとともにアヘンを使って人々を操ることを目論む元新撰組隊士・加納惣三郎と対決する。

わたしは漫画原作の舞台をほとんど見たことがない。なぜかと言うとそういう試みに否定的だからである。だから、2・5次元と呼ばれる舞台にもなかなか足を運ぶ気にならない。つまり、食わず嫌いなのである。今回の舞台は、若いイケメンはたくさん出演しているが、主演の早霧せいなを初め、宝塚歌劇団系の女優さんが中心軸を担っていて、2・5次元の雰囲気よりも、宝塚の雰囲気が強い舞台のように(ともに詳しくないが)感じた。歌あり、踊りあり、剣殺陣ありのエンターテイメント感が満載の舞台で、上演時間2時間30分、二幕三十三場を一気に見せる。目を見張るのは豪華な舞台装置の数々と転換(回り舞台と昇降装置)の鮮やかさで、日本の商業演劇の最先端の技術を見せられた気になる。もちろん、最先端などと驚いているのは、とんと大劇場の芝居を見なくなった小劇場演劇の貧乏演出家だけかもしれないが、次から次へと場面が変わり、にもかかわらずその場面がきちんと美術的に造形されている様は、観客の目の悦びを刺激して余りある。同時にコスチュームプレイとしての華やかさも。ここでは小劇場演劇などとは比べ物に為らないくらいの桁外れのお金がかかっているのだ。

この芝居を見に来る観客はどんな人たちなのだろう?   原作の愛読者?   宝塚ファン?   イケメン好きのオバサマ?    どちらにせよ、ここには、「皿洗いの老夫婦をガッカリさせる映画は絶対に撮らないんだ」と宣言した映画監督のアルフレッド・ヒッチコックと共通する飽くなきエンターテイメント精神が息づいている。

※新橋演舞場の前で。

決起会

先日、ISAWO BOOKSTORE「好男子の行方」の決起会を行った。残念ながら全員参加ではなかったが、関係者が集まって酒を飲んだ。決起会と呼ぶのはちょっと大袈裟かもしれないが、気分的には「この舞台を成功させたい!」という思いが人々の中心にある会なので、そう呼ぶのが相応しい会である。

ところで、人間は様々な状況下において、いろんな会を催す。わたしが今までに出席した会はざっと次のようなものである。

○送別会/誰かを送別する。
○壮行会/誰かを異国へ送り出す。
○歓迎会/誰かを歓迎する。
○慰労会/誰かを慰労する。
○祝賀会/誰かを祝賀する。
○祝勝会/勝利を祝う。
○忘年会/年を忘れる。
○新年会/新年を祝う。
○同窓会/同窓生と再会する。
○謝恩会/恩師に感謝する。
○励ます会/誰かを励ます。

どの会も、基本的には人間が集まって酒を酌み交わしているに過ぎない。しかし、一見、同じように見えるそれぞれの会に集った人々の心に流れている感情はみな違う。思うに、会の初めに主催者の開催意図を聞かないでその会に出席して、人々の会話からそれが何の会か当てることができる人は、相当に人生の機微に通じている人と言えるのではないか。あるいは、ここに二つの○○会があり、それをきちんと区別する能力は、人間にしか与えられていない能力であると思う。その人が宇宙人であった場合、それを見極めるのはほとんど不可能であると思うからである。宇宙人が関西弁を使えるるならこう言うにちがいない。

「どれもこれも、みんな同じやないかい!」

人間は状況に応じていろんな会をする。そして、その会に名前をつけることで、そのように会の目的を明快にする。そう言えば、演劇関係者は、ことある毎に飲み会をしたがる。「初日打ち上げ」や「中日打ち上げ」や「千秋楽打ち上げ」があり、場合によっては「稽古場打ち上げ」なんてものもある。要するに飲む理由を無理やり作って、酒を飲んでいるのである。この度の決起会も、ある意味でそういう演劇人の酒好きの延長にある飲み会だったかもしれないが、ここに集った人々の思いは、みな同じものだと信じたい。

※「好男子の行方」の関係者たちと。

【公式HP】

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以下のURLよりチケットを承ります。

新香好き

お新香が好きである。居酒屋で酒のツマミを頼む時も、わたしのセレクションだと必ずと言っていいほどお新香を注文するし、丼もの(鰻丼やカツ丼)を食べる時もお新香がついていないとひどくガッカリする。家でご飯を食べる時も、漬物の専門店で白菜の漬物を買ってきて食べることも多い。そして、やはりわたしは日本人なのだと再認識する。お新香は、漬物とも言うが、もっと上品に言うと「香の物」である。

わたしがなぜお新香が好きかは正確に説明できないのだが、思い起こせば、わたしの父の影響であるように思う。父がお新香好きだったので、幼少期のわたしの家の食卓にはしばしばお新香があった。だから、そういう環境のせいで、わたしもいつしかお新香好きになったのだと思う。そういう食べ物はもう一つあって、それはわさび漬けである。初めてわさび漬けを食べたのがいつだったか、まったく覚えていないが、これも我が家の食卓によく並んでいた。子供の味覚の好みから言うと、とても美味しいとは思えない食べ物だと思うが、こちらもいつしか好物になった。

子供というものは、どんな時代も父親から大きな影響を受けて育つ。それは生き方のような大問題において顕著に表れるはずだが、このような味覚におけるそれも同じであると思う。基本的に父の好物をわたしも好むのだから。だから、アナタの好物の源泉を辿っていくと、それは幼少期のアナタの家の食卓へ行き着くはずである。

ところで、わたしの知り合いのとある芸能マネージャーの男性は、寿司屋で出てくる新生姜の甘酢漬け(ガリ)が好物だと聞き、驚いたことがある。聞けば、幼少期からオヤツ代わりに新生姜を食べていたゆえに、そのようになったらしい。まったく、他人の食べ物の好みは様々である。

※漬物。(「TENKI.jp」より)

遺言

すべての書物は、それを書いた人の遺言のようなものだと思う。もちろん、ほとんどの作者は遺言のつもりで本を書いていないと思うが、人間はいつか必ず死ぬわけだから、結果としてその本は作者の遺言のようなものになる。例えば、図書館の本棚に並ぶ様々な本の著者のほとんどはすでに鬼籍に入られた人ばかりである。それらの人々が書いた著作を手に取ってページをめくる度に、この人たちはもうこの世にいないのだと思い知る。そして、目の前にある著者が書いた言葉は、著者からわたしへの遺言であるように思える。

そのように考えて、これは何も書物だけの話ではないと思い至る。世にあるすべての形あるものは、すべからく先人たちが残した遺品であるとも言えるからである。例えば、わたしが歩く道路も、わたしが乗る電車も、わたしが仕事する建物も、わたしが酒を飲む飲み屋も、わたしが公演を行う劇場も、すべてが先人たちがわたしに残してくれた遺品なのである。つまり、世界とは、先人たちが今を生きる我々に残してくれた遺品の集積のことなのだ。

子供を作り、それを育てるという人間の営為も同じような意味合いを持っているように思う。子供とは、未来を担うために先人たちが残した最大の遺品なのだ。そういう意味では、子供とは、親から伝えられた大切なものを次世代へ繋げていく貴重な書物のようなものなのかもしれない。その姿は、レイ・ブラッドベリが書いたSF小説「華氏451」に出てくる"書物人間"に似ている。彼らは書物を読むことが禁じられた未来世界において、書物の内容を丸暗記して、口頭で書物の内容を次世代へ伝えていく。子供とは先人が残した叡知の遺産なのだ。

そのように考えると、遺言とは故人が死後のために遺す民法上の文章だけを指すのではなく、森羅万象、世にあるすべての形あるものは、先人たちが生きている人たちに残した遺言であると言える。

※大学の図書館。

娘への手紙~「ミリオンダラー・ベイビー」

DVDで「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)を再見する。クリント・イーストウッド主演・監督によるボクシング映画。理由があって再び一見に及ぶ。

ロサンゼルスの一角にある寂れたボクシング・ジムに一人の女が現れる。マギーと名乗るそのボクサー志望の女は、トレーナーのフランキーに指導を乞う。フランキーは最初は申し出を断るが、マギーの熱心さにほだされて、いつしか女とコンビを組むことになる。フランキーの指導の元、マギーは本来の才能を開花させ、連戦連勝。ついにチャンピオン戦に臨むことになるが・・・。

本作を見直してみようと思った理由は、F・X・トゥールの原作小説(ハヤカワ文庫NV)を読んだからである。物語展開は原作小説通りだが、映画は、同じ文庫に収められている別の短編「凍らせた水」を本編に組み入れ、全編をその短編の主人公であるスクラップ(モーガン・フリーマン)というジムの雑役夫のナレーションを使って語る。また、フランキーが決別した娘に手紙を何通も出すが戻ってくるというエピソードを盛り込み、フランキーとマギーの関係を擬似的な父娘のように描いている点も映画の味わいを深めている。脚本は、その後、監督業に進出するポール・ハギス。原作者のF・X・トゥールは、元ボクシングのトレーナー(正しくは"カットマン"で、ボクサーが試合中に出血した時の止血係)で、70歳にして小説家デビューした異色の経歴の持ち主であるという。残念ながら本作の公開を待たずして2002年この世を去っている。

2016年7月14日にわたしはこの映画の感想をこのブログに書いているが、今回の感想もそれとほとんど変わらない。しかし、スクラップが淡々と語るナレーションが、実はスクラップがフランキーの娘に宛てた手紙の内容だったというラストのどんでん返しは、今回初めて認識した点だった。また、少なくともここには、人間の最愛の人に対する最大の葛藤が描かれていると感じた。わたしがフランキーの立場なら最後にあのような行動を取ることができるだろうか?   それにしてもこういう内容の映画をきちんと撮るには、やはり長い人生経験が必要なのではないかと思う。

※同作の原作。

霞を食う

霞(かすみ)を食って生きていけたらなあと思う。「いい歳こいたオヤジが何を戯言を!」と思われるかもしれないが、本心である。霞を食って生きていければ、どんなに幸福かと夢想するのである。

お金というものは、生きていく上で必要不可欠なものである。物理的な意味では、人間は食べ物を食べて睡眠さえ確保できれば生きていけるはずだが、睡眠はともかく何を食べるためにはお金が必要である。だから、お金がまったくないということは、究極的にはその人間が餓死することを意味している。だから、この世に生きるほとんどすべての人が、お金を得ようと日々仕事をしてお金を稼いでいるわけだ。町に出て、雑踏を行く人々を眺めると、「この人たちのほとんどすべてが経済活動のためにここにいるのだ!」と深く感じ入ることがある。もちろん、経済活動でなく町を歩いている人もたくさんいるにちがいないが、約半数は仕事の最中であると思う。彼らは食うために仕事をしているのだ。つまり、「霞を食って生きていけたらいいなあ」などとほざいているわたしは「仕事をしたくない」と言っているに等しいわけで、わたしの生来の怠惰な性格をよく語っている。

近松門左衛門の"心中もの"を持ち出すまでもなく、昔からお金は人間を苦境に追い込む大きな要因の一つである。現代においても、借金に苦しむ人々はたくさんいるにちがいない。そんな金銭問題が、時に犯罪に手を染めるという形で人々を追い込んでいく。だからと言って「それならお金をなくしてしまえばいい!」というような問題ではないところがいかんともしがたい点である。それでもなお、わたしは時々「霞を食って生きていけたらなあいいなあ」と思う。霞を食って生きていけたら、お金の心配はしなくていいのだから。

※霞。(「LINEトラベル」より)

カタカナ表記

しばしば泳ぎに行くスポーツ・クラブのプールで、監視員の姿を見かける。大抵は若い男女だが、彼(彼女)らは、胸にカタカナで「プールガード」と書かれたシャツを着ている。その姿を見かける度に「カタカナ表記のシャツはなんで間抜けな感じになるのだろう?」と思う。

前に一度書いたことがあるが、和製パニック映画の傑作「新幹線大爆発」(1975年)の中にヘリコプターが登場する。確か新幹線に爆弾を仕掛けて国鉄当局を脅す犯人たちにヘリコプターに乗って警察官が身代金を届ける場面だったと思う。そのヘリコプターの機体にカタカナで「ヘリコプター」と書いてあるのを目にして、膝が折れた記憶がある。それは紛れもないヘリコプターなのだから、機体に「ヘリコプター」と書いてあって全然おかしくないのだが、何とも奇妙な印象を持ったのだ。例えば、ピカピカのレーシングカーの車体にカタカナで「レーシングカー」と書いてあったら、物凄く格好悪い気がする。スポーツのユニフォームも同じ。ユニフォームに「GIANTS」と書いてあれば違和感はないが、「ジャイアンツ」と書いてあると違和感があるにちがいない。

わたしたちが普段、着ているTシャツには、アルファベットの文字(英語)が書いてある場合が多いと思うが、とんでもない意味の言葉がそこにあっても、それがアルファベットであると、格好よく見えるのが不思議だ。例えば、Tシャツに「LOVE&PEACE」という文字が入っていてもまったく気にならないが、そこに「ラブ&ピース」と入っていたらちょっと違和感があるのではないか?

話をスポーツ・クラブのプールガードに戻せば、カタカナで「プールガード」と書くから奇妙なのであって、「水難救助員」と漢字で書いてあれば、少しは違和感は減るのではないか。いずれにせよ、英語のカタカナ表記はどんな場合も間が抜ける。

※Tシャツ。(「オリジナルプリント.jp」より)

愚か者たち

ここのところわたしは犯罪系のノンフィクションばかり読んでいる。最近も「『毒婦』和歌山カレー事件20年目の真実」(田中ひかる著/ビジネス社)と「昭和・平成日本の凶悪犯罪100」(別冊宝島編集部編/宝島社)を読んだ。このブログにもそういう犯罪ノンフィクションの本の感想を書いている。若い頃は、現実の犯罪事件などにはまったく関心が向かなかった。例えば、豊田商事の永野会長がマスコミの記者たちの目の前で暴漢に襲われて刺殺されたのは1985年だが、その時、わたしの関心は、豊田商事の「と」の字にもいっていなかった。なのになぜ、今のわたしは現実の犯罪事件にこんなにも惹きつけられているのか?

それは、たぶん中年のわたしの関心が、人間の「聡明さ」より「愚かさ」に傾いているからだと思う。人間というものが「いかにすばらしいか」ではなく、「いかに愚かか」という点に興味がいっているのである。例えば、先日読んだ「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」(リチャード・ロイド・パリー著)で描かれる犯人Oを倫理的に非難するのは易しい。(わたしはOを「最低」と評したが)しかし、その行為の愚かさにおいて、わたしはOに強い関心を持つ。どういう環境と精神構造があると、あのような卑劣な犯罪が遂行できるのか、と。そのように考えると、世を騒がせた凶悪な犯罪者たちは、みな一様に興味深い愚か者たちであると言える。愚か者の見本市としての犯罪者たち。

世に名を残した立派な偉人たちの人生もそれなりに面白いとは思うが、やはり、その反対側にいる愚か者たちの人生への興味は尽きない。そこにはたくさんの「なぜ?」が存在するからである。なぜ彼(彼女)は、普通の人間なら思い止まるそのような馬鹿げたことをしでかしたのか?    少なくともわたしは、他人の幸福より不幸の方が、他人の喜びより哀しみの方が探究しがいがあるように思う。

※犯罪ノンフィクションを読む。

とおりゃんせ

都会の横断歩道で、信号が青になると電子音で奏でられる馴染みのメロディが耳に入る。場所によって違うが、そのメロディは童歌(わらべうた)の「とおりゃんせ」であることが多い。

通りゃんせ  通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ 
天神様の細道じゃ
ちっと通してくだしゃんせ
ご用のないもの  通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めに参ります
行きはよいよい  帰りは怖い
怖いながらも  通りゃんせ  通りゃんせ

普段は当たり前のメロディとして聞き流しているが、よくよく考えると、この童歌は横断歩道を渡る際の音楽としては適さないのではないかと思う。もちろん、横断歩道で流れるメロディに歌詞はないけれど、歌詞にすると「行きはよいよい  帰りは怖い」となる部分は、取りようによれば「行きは何事もなく渡れるが、帰りは交通事故にあうかもよ」という風にも聞こえるからである。これは何とも不吉な歌詞ではないか!

歩行者が横断歩道を渡る際に「この童歌をかけてみよう!」と判断したのはいったい誰だろう?   国土交通省のトップ?   いや、場所によってメロディは違うからその地区の行政のお偉いさんである可能性が高い。であるなら、選曲をもう少し考えてもらってもよいのではないか。少なくともこの童歌のように不吉な雰囲気が漂わないもので、歩行者が溌剌と横断歩道を渡れるような行進曲のような曲がよい。

わたしは横断歩道でこのメロディを聞くと思い出す映画がある。長谷川和彦監督の「太陽を盗んだ男」(1979年)である。あの映画のラストシーンは、自らの手で原爆を作り上げた主人公の中学理科教師・木戸誠(沢田研二)が、今にも爆発しそうな原爆の入ったバッグを片手に都会の町を彷徨する場面である。木戸が人に溢れた夕刻の横断歩道を渡る際に「とおりゃんせ」のメロディが聞こえる。この映画におけるこのメロディは効果的で、原爆とともに破滅する主人公と都会の町の終焉をブラック・ユーモアたっぷりに見事に表現していた。まさに「行きはよいよい  帰りは怖い」である。

※横断歩道。(「SPITOPI」より)