高橋いさをの徒然草 -10ページ目

クロロホルム

わたしが、この世には"クロロホルム"という名前の薬品があることを知ったのは、確か楳図かずおの漫画を通してだったように思う。人に吸引させると、瞬く間に相手を眠らせてしまうことができる魔法の薬品。その後、わたしはその薬品名を現実の犯罪事件を通して再確認する。1980年に仙台で起こった連続暴行魔事件である。この事件は、この薬品を使って若い女性を昏睡させ、性的暴行を働いた男の事件である。この事件を元に作られたのが内田裕也主演の映画「水のないプール」(1982年)である。

それからしばらくして、わたしは映画を通して"クロロホルム"に再び出会う。一本は「失踪」(1993年)であり、一本は「スリーピングタイト 白肌の美女の異常な夜」(2011年)である。前者は誘拐犯が女性を拉致する際に、後者は性的な異常者が片思いの女の部屋に侵入する際に使用する。ともに若い女性を拉致したり、性的な暴行を行う目的でその薬品を使っている点から考えると、"クロロホルム"は性犯罪者たちにとって御用達の便利な薬品であると言えるか。

わたしがこの薬品名を久しぶりに目にしたのは、先日、読んだ「黒い迷宮 ルーシーブラックマン事件15年目の真実」(リチャード・ロイド・パリー著)においてである。主に外国人女性を言葉巧みに自室へ誘い込み、睡眠薬入りの酒を飲ませて心神を喪失させ、暴行に及んだ犯人は、暴行の最中に何度も被害者に"クロロホルム"を嗅がせて事に及んだという。まったくもって卑劣な犯行だが、この本を通して"クロロホルム"は、使い方を誤ると吸引した人間の肝機能を破壊して死に至らしめることを知った。件のルーシーさんも、ルーシーさん以前に同じように絶命した別の外国人女性も、"クロロホルム"を吸引したことがきっかけで死亡したらしいことが本書に描かれている。"便利な薬品"などとふざけている場合ではない。"クロロホルム"は、使い方によれば、実は恐ろしい劇薬なのだ。

※クロロホルム。(「ニッポン・ジーン」より)

呼び捨て

わたしは、普段、他人から「いさをさん」と呼ばれることが多い。そもそも、会う人に対して自ら「高橋さんではなく、いさをさんと呼んでほしい」と頼みさえする。そう呼ばれると相手との関係が安定するからである。わたしのことを「高橋!」と呼び捨てで呼ぶ人間は、高校か大学の同級生のみである。

とある犯罪関係の本を読んでいたら、刑務所では刑務官は、囚人のことを名字で呼び捨てにすることを知り、なるほどと思った。わたしは何となく刑務官は囚人を番号で呼んでいるようなイメージを持っていたからである。つまり、もしわたしが何らかの犯罪を犯し、有罪となって刑務所に服役した場合、わたしは刑務官から呼び捨てで呼ばれるわけだ。

刑務官「出房しろ、高橋!」
わたし「ハイ。何でしょうか」
刑務官「面会だ」
わたし「わかりました!」

このようなやり取りが刑務官とわたしの間で行われるにちがいない。呼び捨てで名前を呼ばれるばかりか、刑務官は基本的にすべて命令口調でわたしに接すると思う。刑務官がわたしよりずっと年下であったとしても、刑務官の口調は変わらないはずである。こんなやり取りをしながら送る刑務所生活に慣れるには、相当に時間がかかるように思う。だからと言って、刑務官とわたしのやり取りが以下のようになると、権力が権力として成立しないのもよくわかる。

刑務官「部屋から出てもらえますか、高橋さん」
わたし「何だよ」
刑務官「面会の方がいらしてます」
わたし「そうか」

囚人のわたしが刑務官に対してこんな風に答えたら、警棒で叩かれて、すぐに懲罰房へ送り込まれそうに思う。つまり、言葉は、対話する二人の主従関係を雄弁に語っているわけである。このようなことから、犯罪者は犯罪を犯した時点で敬称を国家によって剥奪されるということを再認識する。

※刑務官と囚人。(「アクセス進学」より)

それぞれの座組

東京都内で一つの重大な犯罪事件(殺人事件のような)が起こると、事件が起こった所轄の警察署内に「捜査本部」と銘打たれた場所が設けられ、警視庁から出向く捜査官と所轄の捜査官が共同で捜査を行う。(本部長と呼ばれる統括者は、その警察署の署長が務めることが多い)例えば、世田谷区で発生した殺人事件の場合、捜査本部は世田谷警察署内に作られ、世田谷警察署の担当捜査官が警視庁から出向く捜査官とともに事件の捜査に当たる。だいたいの場合、所轄の捜査官と警視庁の捜査官は初対面であると思う。それぞれの捜査官たちは協力しあいながら犯人を追跡し、犯人の検挙に至れば捜査本部は解散する。そして、その事件に携わった捜査官たちは、散り散りになり、次なる事件の捜査に向かう。

わたしは警察の人間ではないので、正しく記述できていないかもしれないが、一つの重大な事件発生に伴う警察当局の捜査方法は、そのようなものだと認識している。そして、このような捜査方法は、演劇におけるプロデュース公演の在り方によく似ていると思う。

一つの作品がある。それは劇作家が書いた戯曲である。その戯曲を上演するためにプロデューサーが人々を集める。演出家、スタッフ、俳優たちである。こうして一つの座組(カンパニー)が生まれる。彼らはある一定の期間、その戯曲を上演するための稽古をして、本番を迎える。本番が終わると、そこに集った人々はそれぞれに次なる公演に取り組むために散り散りに解散する。

【犯罪事件】
●一つの重大事件が起こる。
●捜査官たちが集まる。
●初対面の人々が協力しあい事件を追う。
●犯人を検挙し、チームは解散する。

【演劇公演】
●一つの作品がある。
●出演者やスタッフが集まる。
●初対面の人々が協力しあい稽古する。
●本番が終わり、チームは解散する。

両者の構造はとても似通っている。ある一つの目的のために人間と人間が出会い、同じ時間を共有して、解散していく。その様は人間の人生そのものを思わせる。演劇の場合、人々を集めるのはプロデューサーだが、犯罪事件の場合、プロデューサーに当たるのは事件を起こした犯人ということになろうか。

※世田谷警察署。(「世田谷警察署」より)

戯曲の読書会

先日、大学の教え子であるIくんが主宰する読書会にゲストとして呼ばれて参加した。Iくんが主宰する読書会は、「演劇井戸端会議&発語する読書会」と名付けられていて、不定期に演劇好きの人々が集まり、戯曲の読み合わせをして合評会を行うらしい。今回、拙作「バンク・バン・レッスン」を取り上げてくれたので、その作者として呼んでいただいたのである。都内の一室に老若男女、合計10名ばかりの人が集まり、戯曲を読み合わせする。いわゆる「読書会」と趣がちょっと違うのは、参加者たちが実際に発語して戯曲を読むという点であると思う。

こういう「戯曲の読書会」がどのくらい行われているのかわからないが、「実際に声に出して読んでみる」というアプローチが面白い。戯曲は声にして初めて戯曲になるという意味では、こういうやり方は、戯曲という表現形式の正しい味わい方だと思う。声に出さないとわからない面白さが戯曲にはあるのだ。何より、参加者が主体的に作品に関わることができる点がすばらしい。

「演劇においては、意味より音が大将なのだ」

これは故・井上ひさしさんの言葉だが、わたしの座右の銘の一つである。戯曲の台詞は、その言葉の意味より、どんな音で奏でられるのかが重要なのだという意味である。だから、わたしはその台詞を音にした時に気持ちいいかどうかを重視して戯曲を書く。

銀行員3「なんか・・・」
銀行員1「なんか何だよ」
銀行員3「なんて言うか・・・」
銀行員2「なんて言うか?」
銀行員3「つまり、その・・・」
銀行員1「だから何?」
銀行員3「・・・あれね」
銀行員2「何言ってんだよ」

今回、読み合わせをしてもらった「バンク・バン・レッスン」の冒頭部分のやり取りである。ラブレターを読むのは楽しいが、本人に直接「好きです!」と言われる方がもっと楽しい。

※参加者の皆さんと。

水商売

わたしは、普段「水商売」という言葉を普通に使っているが、この言葉はよく考えると、面白い言葉である。言うまでもなく「水商売」とは、主に接客を伴う飲食店とその従業員を指している。男性従業員よりは女性従業員(ホステスや風俗嬢)を指しているようなニュアンスがある。では、「水商売」の"水"とは何を意味しているのか?   イメージでは、客に提供する酒類を意味していて、転じて景気に左右され、収入が不安定な仕事であることを意味しているように思う。この言葉は、当事者が扱う具体的なモノを表すと同時に、その人たちの仕事の在り方を的確に語っている。水は人間に必要不可欠なものだが、同時に一ヶ所に留まることをしない泡沫(うたかた)のようにひどく儚(はかな)いものでもあるからである。

広い意味において、芸能の仕事も「水商売」の一つだとされる。人気に左右され、安定した収入が得られない仕事であるという点では、そう呼ばれて仕方ないものだと思う。演劇という芸能の一分野も、それは当てはまる。人気などというものも、"水"の特性同様に儚く実体がないものだからである。ある時にはあるが、すぐになくなったりするのが人気である。そもそも人間は歳を取るから、いつまでも若く美しい姿を保ち続けるのは至難の技である。

では、「水商売」の反対側にある言葉は何だろう。「実業」という言葉だろうか?   不動産屋などというものは、確かに土地という目に見えるものを扱う仕事であるから、景気に左右されることが少ない仕事と言えるかもしれない。言うなれば「土商売」である。"土"は"水"と違って、その場にいつもあり、動かないイメージがある。しかし、人間はいつかは死ぬ運命にあるし、時代は移り変わることは絶対の事実だから、人間が行うすべての仕事は、神の視点から鳥瞰すれば、すべからく「水商売」だとも言えると思うけれど。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」                                
                                                鴨長明「方丈記」

※水商売。(「ガールズ・バイト」より)

異国の事件~「黒い迷宮」

「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」(リチャード・ロイド・パリー著/早川書房)を読む。2000年に起こったイギリス人女性の強姦致死事件を描くノンフィクション。

著者は、様々な人々へのインタビューを試み、事件を単なる「変態による美女殺人事件」に終わらせずに立体的に膨らませることに成功している。とりわけ、ルーシーさんの家族がこの事件にどう対処したかを克明に描いている点が興味深い。すなわち、父親であるティモシー、母親のジェーン、妹のソフィーである。ルーシーの失踪をめぐり、彼女の家族たちのドラマが描かれるのだ。とりわけ、「お悔やみ金」と称された一億円の見舞い金をティモシーが被告人のOから受け取ることをめぐる父親と母親の対立は、様々な問題を提起していると思う。娘の命を金で償えるのか?

ところで、「ミッシング」(1982年)という映画がある。南米のチリで失踪した息子を探す父親(ジャック・レモン)を描いた社会派のミステリー映画である。この事件も、家族側の視点から描けば、そのような映画になるように思う。この事件の最大の特徴は、ルーシーさんの家族側から見れば、「異国で起こった事件」であるという点である。その途方もなく困難な戦いを強いられるであろう絶望的な状況。言葉も文化も違う異国での捜索。そのハードルの高さ。

逮捕され、裁判にかけられた犯人のOは、最高裁まで争ったが、有罪が確定して無期懲役の判決が下された。Oは裁判中、ルーシーさん殺害に関しては終始一貫して無罪を主張し続けた。わたしはどんな犯罪であっても罪を犯した人への理解度は高い方だと思うが、この事件の犯人は筋金入りの変態であり、最低だと思う。若い女を薬を飲ませて心神を喪失させ、凌辱の限りを尽くし、それをビデオに録画することを常習的に行っていた上に、裁判となるとそれを一切認めないのだから。改めて、理不尽な理由でこの世を去った21歳のルーシーさんの無念を思う。

※同書。(「Amazon.co.jpより)

マッサージ店の会話

たまに自宅近くのマッサージ店へ行く。先日、歯科医で治療中に歯医者と世間話をするのはなかなか難しいということをこのブログに書いたが、歯科医に比べれば、マッサージ店は世間話はしやすいと言える。歯科医では口を開けている上に器具が差し込まれているので、思うように言葉を発することができないが、こちらはうつ伏せに横たわり、マッサージしてくれる人に身を任せていればいいだけだから。もっとも、わたしが通うマッサージ店の店員は中国の女性なので、余り難しい言葉は使えないが。それでも、マッサージ店での世間話は、ちょっと普通ではない。以下のようなやり取りになるからである。

中国人女性「台風すごかったね」
わたし「そうだーーねっ!」
中国人女性「ダイジョブだった?」
わたし「うん」
中国人女性「家の窓に飛んできたカンバンにぶつかりそうになったよ」
わたし「そりゃあぶーーないっ!」
中国人女性「そと歩いててあんなのにぶつかったらタイヘン」
わたし「台風で何人か亡くなったらしいーーけどっ!」
中国人女性「そういうとき、オカネ出るのかしら」
わたし「どうなんだろーーおうっ!」
中国人女性「ここ凝ってますね」
わたし「そうなんだよーーうおっ!」
中国人女性「痛い?」
わたし「だだだいじょうーーぶっ」
中国人女性「台風は怖いね」
わたし「そうだーーねっ!」

わたしの会話の語尾が「ねっ!」「ないっ!」「けどっ!」「おうっ!」「うおっ!」「ぶっ!」「ねっ!」となるのは、会話の最中に力を込めて背中を押されるからである。つまり、歯科医は治療する先生と世間話しずらいのと同様に、マッサージ店はマッサージ店で普通に世間話をしずらい場所であるということができる。そういう意味では、接客者が客の身体に関わりながら一番スムーズに会話をできる場所は、床屋か美容室ということになろうか。

※マッサージ。(「マイナビ進学」より)

相手にされてない

わたしがまだ二十代の頃、とある芝居を作っていた時に年上のスタッフであるKさんが言った言葉をわたしは折に触れて思い出す。

「何か仕事をして、金を貰えないってことは、この社会じゃ相手にされてないってことだからね」

わたしはその言葉を聞いた時に、わたしが生きるこの社会の仕組みをリアルに認識したように思う。同時にプロとアマの違いをハッキリと理解したように思う。どういう文脈でKさんがこのように言ったかはまったく覚えていないが、たぶん次のようなやり取りがわたしとKさんの間にあったのではないか。

Kさん「で、先方はいくら出すって?」
わたし「ちゃんと聞いてません」
Kさん「ちゃんと聞かないとダメだよ」
わたし「はあ」
Kさん「まったく出さないことはないと思うけど、仕事なんだから」
わたし「そうですね」
Kさん「何か仕事をして、金を貰えないってことは、この社会じゃ相手にされてないってことだからね」

わたしが特に心に刻んだのは、「相手にされてない」という言葉だった。若いわたしには「金を貰えない」=「相手にされてない」という認識が皆無だったからである。「相手にされてない」とは、つまり、相手が一人前の専門家としてわたしを取り扱ってないということである。それはまったくその通りで、わたしたちの社会では、人々は金銭を通してそれぞれの専門的な仕事を成り立たせている。別の言葉を使えば、金銭を通して「これは遊びじゃなくて、本気なんだよ」という真意を相手に伝えているわけである。男性が結婚を決意した女性に高価な指輪をプレゼントするのも、同じような文脈で語ることができるように思う。そして、「誠意は金で見せろ」という身も蓋もない、しかし、物凄くリアルな言葉を思い出す。

※お金。(「Get Navi web」より)

わたしの法廷~「裁判官の非情と人情」

「裁判官の非情と人情」(原田國男著/岩波新書)を読む。元裁判官による裁判をめぐるエッセイ集。裁判傍聴が趣味のわたしには興味深いエッセイ集である。裁判において、わたしにとって最も縁遠いのが裁判官と呼ばれる人たちだからである。裁判官はどんなことを考えて訴訟を指揮しているか?

今、「訴訟指揮」という言葉を使ったが、この言葉も裁判に慣れないとわからない言葉である。普通、裁判官は「訴訟を進行させる」という風に使いがちだからである。裁判官は訴訟を「進行」させてはいない。彼らは訴訟を「指揮」しているのである。「進行」だと自分の意見を押し殺して交通整理しているような印象になるが、「指揮」だと積極的に裁判を司っている印象がある。そもそも彼らは時に以下のような言い回しを法廷で使うことさえある。

「わたしの法廷ではそういう態度は許しませんよ」

その通り。法廷では裁判官はすべてを司る神様なのである。判決が無罪の場合、裁判官は「被告人を無罪にする」とは言わずに「被告人は無罪」と体言止めで判決を言い渡すということや、「人定質問」(裁判の冒頭に裁判官が被告人に問いただす基本情報の確認)では、性別は確認しないということを再確認したりする。

興味深いのは、著者が映画「男はつらいよ」のファンらしく、世間知らずの裁判官にそれを見ることを勧めていたりする件。著者は「寅さんは、観ておいてほしい。寅さん映画は、まさに、人情とは何かを語っているからだ」と書いている。つまり、著者によれば、「男はつらいよ」は人情とは何かを理解する上での最良の教科書であるということになる。この辺りに本のタイトルの由縁があるように感じた。

※同書。

住宅地の墓地

普段は余り気に止めていないが、電車に乗って都心部を走っていると、窓外に小さな墓地を見かけることがある。住宅地にあるそれらの墓地は、生きている人間たちの生活空間に圧されるように窮屈そうに墓石を並べている。その様は、あたかもぎゅうぎゅう詰めのエレベーターに乗っている幼い子供のようである。都会の墓地は、このようにこじんまりと存在している。狭い土地にたくさんの人々が暮らす都会の住宅地の一角にこのような墓地が存在することは、わたしの想像力をちょっと刺激する。

死を厭う気持ちからすれば、自分の生活エリアに死者が眠る墓地があることを歓迎する人は余りいないとも思うが、こればかりは、駆逐しようがない文化なのだと思う。逆に死を身近に感じる上では、人間にとって墓地は必要不可欠なものであるとも言える。墓の存在は、「いつかはオレもあそこへ行くのだ」という認識を人々に促すからである。格好よく言えば、墓は人間に「メメント・モリ」(死を忘れるな)の精神を促す。

世にある劇場の中で、池袋のシアターグリーンが特異なのは、劇場の真横に寺があり、墓地が広がっている点である。わたしが知る限り墓地と隣接する劇場は東京ではここ以外ないように思う。(隣接してないが、12月に公演する荻窪の"オメガ東京"への道の途中に墓地がある)劇場と墓地が隣接しているのは偶然の産物かもしれないが、生と死がこれほど鮮やかに隣り合わせになっている場所はなかなかないように思う。見ようによれば、シアターグリーンは、物凄くドラマチックなロケーションの中に位置する劇場なのだ。(だからと言って、「ようこそ、墓の近くの劇場へ!」と謳えないところがキビシいところだが)

ともあれ、墓地は人間にとって必要な重要な場所であることは間違いない。どんなに世の中が変わっても、墓をなくしてしまおうという風にはならないと思うからである。墓がない生活とは、全面的に死を否定して隠蔽する極めて不健康な世界であると思う。

※都会の墓地。(「Y!ブログ」より)