高橋いさをの徒然草 -11ページ目

神田駅周辺

とある芝居を見に行くために神田駅で下りて地下鉄に乗り換えた。「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」「スシ食いねえ」というやり取りは、広く知られているが(元は広沢虎三の浪曲の一節らしい)この一節から想像できるのは、神田という町は、かつて最も都会的な町だったということである。しかし、わたしにとって神田という町は、非常に馴染みが薄い町である。神田駅周辺は、オフィス街であり、飲食店が軒を連ねる繁華街であることは知っているのだが、神田駅で下車することがほとんどない。以下が現在の神田駅である。

※神田駅①

ずいぶんと古色蒼然とした駅の作りである。赤レンガ造りの建造物の上に高架線があり、そこを電車が通っている。その風情は昭和の匂いを濃厚に漂わせている。

※神田駅②

そんな古い外観が上記のような現代的な駅構内に連なっている。つまり、現在の神田駅は、古いものと新しいものが同居しているような作りになっているわけである。

わたしにとって神田という町は古本屋の町であるが、「神田の古本屋」という言い方には違和感があり、「神保町の古本屋」と言った方がしっくりくる。もちろん、神保町は「千代田区神田神保町」なので、「神田の古本屋」でおかしくないのだが、神保町の最寄り駅は神田ではなくお茶の水であり、「神田の古本屋」と言うと町のイメージが拡散して定まらなくなってしまうのだ。

わたしにとって神田駅周辺の馴染みが薄いのは、この近辺に劇場がないからである。わたしにとっての都会は、常に劇場を中心にイメージを形作っているからである。僭越ながら千代田区長にご提案申し上げるなら、神田駅周辺に劇場を作っていただきたい。そうすれば、神田駅周辺は「劇場の町」になり、わたしは足しげく通うことになるにちがいないから。

元力士の犯罪~「全員死刑」

「全員死刑」(鈴木智彦著/小学館文庫)を読む。2004年に九州の大牟田市で起こった極道一家による知人家族の殺害事件を描くノンフィクション。本作を原作とする同名映画が昨年、封切られた。

この事件は、殺人罪などで父・母・長男・次男全員に死刑判決が下されたという点が特異である。本作は、殺人の実行犯だった次男が獄中で書いた手記を元に、著者が解説を加える構成で成り立っている。事件は、暴力団組長である父親とその家族が多額の借金をしていた知人の女性とその息子ら四人を次々と殺害したものである。

殺害方法は絞殺と銃殺。まったく粗暴な犯行だが、前記の通り家族全員が死刑というのが、この事件最大の特徴だと思う。だが、わたしが注目したいのは、兄弟が元力士だったという点である。本の冒頭に、犯人の四人家族の顔写真が掲載されているが、兄弟の面持ちはでっぷりとした力士のそれである。つまり、彼らは人並み外れた巨漢であり、力持ちだったということである。その大きな"力"を土俵で使い勝利を収めれば、彼らは人々から尊敬される人になれたはずだ。しかし、悲しいかな、彼らはそれを土俵ではなく、犯罪の場で使った。その結果、起こったのがこの粗暴な殺人事件である。

「ドスコイ警備保障」(室積光著)という小説がある。元力士の人々が、その力を駆使して警備会社を作り、警備員として活躍するという喜劇的な設定の小説だが、こちらが力士の"力"を正の方向性で使う様を描いているのに対して、この事件はそれを負の方向性で使ったと言える。言ってみれば、この犯罪は、「明日のジョー」が、ボクシングの世界ではなく、犯罪の場でその本来の暴力性を発揮してしまったような事件と言えまいか。兄弟は進むべき道を間違えたのだ。

※同書。

珈琲の飲み方

わたしの実家の隣に両親が親しくしていた家族が住んでいた。父が親しくしていたHさんという。Hさんは駅前で果物店を経営していたが、かつて太平洋戦争時代は海軍の飛行機乗りだったと父から聞いたことがある。Hさんはもうずいぶん前に亡くなったが、清潔感あるお洒落なオジサンだった。わたしの父は陸軍だったが、泥臭いイメージがある陸軍出身者に比べて、海軍出身の人はどこか垢抜けた印象があるのは、Hさんの佇まいのせいである。

わたしが高校生の頃だったと思うが、ある日、わたしはHさん宅へ招かれて珈琲の飲み方を教えてもらったことがある。Hさんは大の珈琲好きで、自分で曳いた珈琲豆で珈琲を飲むような人だった。思えば、当時、田舎の高校生にとって、珈琲などというものは、まだそんなに身近にあったわけではなく、せいぜいインスタント・コーヒーくらいしか飲んでいなかったのではないか。わたしはHさんを通して珈琲の味わい方を知ったように思う。

珈琲に入れる砂糖はグラニュー糖ではく、茶褐色の氷砂糖である。なぜ、すぐに珈琲に溶けるグラニュー糖ではなく、氷砂糖かと言うと、珈琲の苦味を損なわないためである。氷砂糖はグラニュー糖と違って徐々に溶けるので、一口目の味わいを損ねない。さらに、珈琲へ入れるミルクは、カップの脇に添え、珈琲の表面にだけ流し込み、スプーンでかき混ぜずにそのまま飲む。その方が珈琲の味わいが多彩になる。と、そんなことをHさんから教えてもらったのである。わたしはただ感心して、Hさんの教えに黙ってうなずいていたと思う。

今でも、喫茶店で珈琲を飲む度にHさんのことを思い出す。残念ながらHさんから教えてもらったのはそれだけで、海軍の話はまったく聞くことができなかったけれど。どちらによ、珈琲の飲み方を教えてくれるオジサンというのは、格好いいではないか。

※とある喫茶店にて。

国家権力との闘い~「1987、ある闘いの真実」

新宿で「1987、ある闘いの真実」(2017年)を見る。実話を元にした軍事政権下の韓国を舞台にした社会派の人間ドラマ。最近、わたしは韓国映画の新作が上映されるシネマート新宿によく足を運ぶ。

1987年、一人の若者が命を落とす。ソウル大学の学生である若者は、政府の反乱分子として当局に拘束され、取り調べの最中に拷問を受けて殺されたのだ。軍事政権下の韓国で民主化を叫ぶ民衆を取り締まる警察当局は、その事実を隠蔽しようと画策する。当局の不祥事を公表し、軍事政権を倒すことを推進する反乱軍と当局は熾烈な諜報戦を繰り広げる。

わたしが今年の3月に上演した「私に会いに来て」(キム・グァンリム作)の内容にもちょっと通じる軍事政権下の韓国を描く骨太な社会派ドラマ。力がこもった作品で、韓国の近過去を真摯に検証し、現在を問おうとする意欲作であると思う。たくさんの登場人物たちによる群像劇的な作りで、様々な視点から「ソウル大学生拷問死事件」を描く。事件の隠蔽を目論む警察当局の罪が暴かれ、民主化を叫ぶ大群衆が画面を覆い尽くす最終場面に静かな感動がある。学生を殺害した当局の責任者にキム・ユンソク、事件の真相を追及する検事にハ・ジョンウが出演している。快作「チェイサー」(2008年)で追いかけっこをしていたあの二人である。

1987年、26歳のわたしは新宿の小劇場で荒唐無稽な内容の芝居を上演していた。しかし、当時、お隣韓国で、このような闘争が行われていたとは、わたしは夢にも思っていなかった。性格は違うが、民衆と国家権力の闘いという意味では、日本における特高警察による小林多喜二の虐殺事件などを連想させる。1987年、韓国はそういう争乱の季節を迎えていたのだ。本は読まないと本ではないのと同じように、歴史とは、無条件に存在するものではなく、学ばないと存在しないのだということを再認識する。

※同作。(「映画.com」より)

霞ヶ関を行く

某日、久しぶりに霞ヶ関の東京地方裁判所へ行き、駆け足で三つの裁判を傍聴する。

①強制わいせつ罪
被告人(40代)は、埼京線内において、若い女性に痴漢行為を行った。
②暴行罪
外国人である被告人(40代)は、新宿のルミネ内において、万引きを咎められて警備員に暴行を加えた。
③強盗致傷罪(裁判員裁判)
被告人(70代)は、杉並区のマンションへ侵入して、家にいた老女に怪我を負わせて金品を奪った。

わたしの裁判傍聴歴はずいぶん長いが、霞ヶ関駅に辿り着くと、いつも気分がちょっと引き締まり、背筋をピンとしたくなる。わたし自身がノリやすい性格であるせいだが、地下鉄丸ノ内線の霞ヶ関駅の「A1」出口から東京地裁へ続く階段を上ると、心はすっかり冤罪と戦う弁護人であり、巨悪を追及する検察官になってしまう。わたしは単なる傍聴人であるにも関わらず!   いずれにせよ、霞ヶ関という官庁街は、そこを訪れる人間にある緊張感を強いる街であるのは確かである。それは明らかに下北沢に芝居を見に行く時の心持ちと違うものである。「ここは日本国の中枢部なんだ!」という雰囲気が、わたしの気分をどこか高揚させるのだ。

今から23年前に「地下鉄サリン事件」が起こった当時、わたしにとって霞ヶ関は、まだ馴染みの薄い場所であった。しかし、今思えば、オウム真理教の麻原彰晃がこの場所をテロリズムの標的の一つにしたのも少しは理解できる。なぜなら、ここには、裁判所があり、検察庁があり、警視庁があり、国会議事堂があるのだから。霞ヶ関は、目に見える形で国会権力が集中している場所なのだ。もしも、わたしが日本政府の転覆を企てる組織のトップだったとして、大量殺人を行える兵器を持っていて、それ使う際に「攻撃するところはどこでもいいぞ」と言われたら、やはり霞ヶ関を選ぶのではないか。少なくとも日本政府を転覆しようとして、「豊島園」を選ぶヤツは余りいないように思うから。

※霞ヶ関を行く。

趣味と仕事

仕事とは、自分の快適さや快楽を省みず他人のそれのために従事することであり、反対に趣味とは、他人のためではなく自分の快適さや快楽のために行うものであるととりあえずは定義することができる。それが仕事か趣味かの分かれ目は、それが自分のための行為なのか、他人のための行為なのかという点にあるように思う。

例えば、普段は会社員として営業を担当している人間が、休日になると魚釣りへ出かけるという場合、仕事と趣味の分かれ目はハッキリしていて、誰からも非難されることはないと思う。仕事と趣味が見事に分離しているからである。例えば、普段は子育てをしている主婦が、休日になると友達と一緒にカラオケに行くことも同様である。子育ては仕事であり、カラオケは趣味であると言える。

わたしが関わっている「芝居作り」という仕事がちょっとややこしいのは、一見、趣味であり、同時に仕事でもあるという性格のせいである。それが自分のための行為なのか、他人のための行為なのかと問われても、「両方」と答えざるをえないところがある。自分のためという部分が大きくなると、わたしはたぶん芸術家と呼ばれ、他人のためという部分が大きくなると、わたしはたぶん職人と呼ばれる。

「職人を突き抜けて芸術家になるんであって、職人でない芸術家なんていないんだ」という黒澤明監督の言葉に得心して、わたしは常に職人たらんと心がけてはいるが、わたしの仕事がもしも100パーセント「他人のため」のものになったとしたら、わたしはこの仕事を辞めると思う。なんだかんだ言って、わたしはわたしが見たい舞台を作ることが一義であると考えるからである。まあ、そういう意味では、よくも悪くもわたしは職人ではなく芸術家に重心がかかっている人間なのかもしれない。

※魚釣り。(「パブリックドメインQ」より)

4500円の対価

わたしの住む町には、焼き肉の"牛角"と"牛繁"がある。焼き肉業界のことはよく知らないが、ともにたくさんの店舗を持つ有名な焼き肉屋であろう。この二つの店で、それぞれ4500円分の焼き肉を食べたとして、その満足感に差はあるのだろうか。味覚の好みはあるとは言え、そんなに大きな差があるとはわたしには思えない。それぞれに4500円分の満足感を与えてくれると思う。一般に飲食店においては、客が支払う料金に見合う料理を提供していると思う。

最近、わたしはよく小劇場で芝居を見ているが、入場料金はだいたい4500円である。ここに4500円の入場料金の芝居が二つあったとして、焼き肉屋同様、それぞれにその金額に見合う芝居を観客に提供しているか?   答えはNOである。満足感を与える芝居とそうでない芝居の差が激しすぎる。もちろん、芝居の評価は観客の主観によるものなので、ある人にとっては面白く、ある人にとっては面白くないということは当然あり得る。それが健全な状態であり、普通のことである。しかし、そんな原則を理解した上でも、クオリティの差が激しい。なぜこういうことが起こるかと言うと、つまるところ、その芝居のプロデューサー(店長)の見識が問題の根幹である。

仕入れる肉の種類、調理の仕方、味、店員の接客態度、店構え、価格ーーそのすべてを管理するのが店長ならば、同様の意味において、演劇製作の店長に当たるのはプロデューサーである。4500円の対価として、その芝居を観客に見せていいのか、いけないのか判断するのがプロデューサーである。わたしが見る限り、日本の演劇業界は、商品管理の面において、焼き肉業界に劣っていると言わざるを得ない。客に粗悪でまずい肉を平気で出して、高い値段を取る店があり、プロデューサーがいるからである。そんな非難がましいことを言っているわたしも、他ならぬ焼き肉の提供者であり、高価な値段でそれを売っている一人である。

※焼き肉。(「東京カレンダー」より)

ふがいます

アナタは床屋へ行った時、髪を切ってくれる床屋の人と世間話をするだろうか?   かく言うわたしは、そういう時に世間話をするのがとても苦手である。これは床屋だけの話ではなく、そういう接客場面において、わたしは世間話をすることが少ない。わたしの自宅の近くに頻繁に通うカウンター式の蕎麦屋があり、通い出してすでに15年余りになるが、わたしはそこの主人と世間話らしい世間話をしたことはほとんどない。

余り馴染みはないが、美容師と呼ばれる人は、髪を切る技術だけではなく、客とさりげない世間話する能力が問われる仕事だと思う。黙って髪だけ切ればいい仕事ではないと思うからである。楽しい会話ができる美容師は、やはり人気があると思う。また、バーのマスターなどという仕事も、同じように客と会話する能力が問われている仕事だと思う。すぐれたバーのマスターは、客のいい相談相手になるように思うからである。しかも、客の酒量によって相手に合わせた話題を振らなければならないという意味では、相当の力量が必要になると思う。

最近、歯医者に通っているということは、しばしばこのブログに書いているが、以上のような反省を踏まえ、女性の担当医と世間話をしてみようと思った。しかし、わたしの決意はすぐに潰えた。歯の治療中に世間話をすると、以下のようになると思ったからである。

歯の治療中のわたし。
わたしを治療している先生。
先生「これからお仕事ですか?」
わたし「(目で訴える)」
先生「お休み?」
わたし「(目で訴える)」
先生「今日はお休みですか?」
わたし「ふがいます」

歯科医院は世間話をしにくい場所である。

※歯の治療中。(「あおば歯科」より)

T字のリアリティ

しばしば、演劇学校の演技実習で「無対象演技で何かを表現する」という課題を学生に演じてもらう。無対象演技とは、実際の小道具は使わずにマイム的な表現でその場面を演じてもらうことである。例えば、以下のような。

●釣りをして大物がかかるが、最終的に逃げられる。
●ゴキブリを発見し、殺虫剤で仕留めようとするが、逃げられる。
●墓参りして、線香に火をつけて墓前に供える。
●100キロのバーベルを持ち上げようとうとするが、失敗する。

こういう場面を演じてもらうのである。目的は想像力の訓練。こういうことを大雑把ではなく演じることができる人は、細やかな想像力が使えると言ってよく、戯曲を読む時にも同じように繊細な想像力を発揮するはずだと思うからである。そんな場面の中の一つに以下のような課題がある。

●T字カミソリを使って髭を剃るが、肌を傷つけてしまい、絆創膏を貼る。

このような場面を見るわたしは、ほとんど専門家と言ってよく、おかしな点への指摘は厳しい。なぜなら、わたしは毎日、この作業を繰り返しているからである。つまり、「T字で髭を剃る」という行為は、わたしにとって最も馴染み深い行為の一つなのである。だから、「T字で髭を剃る」際のディテールをよく知っているのである。例えば、髭を剃る前は必ず口まわりを水(湯)で濡らすことをわたしは知っている。例えば、T字の刃の向きが下から上に動くことをわたしは知っている。もちろん、髭を剃る度に肌を傷つけるようなことはないが、今までにそのようなことになったことは何回もある。だから、刃で肌を傷つけた時の小さな痛覚をわたしはよく知っている。思うに、広い意味において、リアリティがある演技とは、「T字で髭を剃る」専門家の前で、無対象演技で完璧にそれを行うということであるにちがいない。

※髭を剃るわたし。

アウトサイダー

アウトサイダーを描くことを主とするか、インサイダーを描くことを主とするか、そこにその作家の資質や幼い頃の生活環境が如実に表れるように思う。前者は体制外人物、後者は体制内人物というような意味で使っている。典型的なアウトサイダーはやくざであり、インサイダーは会社員であろうか。

かく言うわたしは、どちらかと言うとインサイダーを主人公にした芝居を書くことが多いように思う。それは、例えば、高校生であり、刑事であり、銀行員であり、会社員であり、学校教師であり、劇団員である。脱獄囚や犯罪者も主人公にしたことはあるが、全体の傾向の中では例外に当たる。わたしがアウトサイダーよりもインサイダーに関心がいくのは、わたしが平凡な会社員の父と公務員の母の一人息子として普通に育ったことに関係があると思う。わたしがもしも、やくざの父親を持つ子供としてこの世に生まれていたら、わたしはアウトサイダーにもっと傾倒していたかもしれない。

ほとんどアウトサイダーしか描かなかったと言っていい作家として真っ先に思い出すのは、故・深作欣二監督である。やくざ同士の闘争を描く「仁義なき戦い」は言うまでもなく、「いつかギラギラする日」「忠臣蔵外伝・四谷怪談」「バトル・ロワイアル」などの監督作を概観すると、この人ほどアウトサイダーに共感を寄せて映画を作った人は珍しいように思う。深作監督は、「終戦時に見たアメリカ軍の爆撃により荒廃した東京の風景が、自分にとっての原風景だ」と何かで語っていたように記憶するが、要するに深作監督は精神的なやくざであったにちがいない。アクション映画「いつかギラギラする日」において、木村一八演じる若いギャングが、制服を着た若い警察官に「若いのにそんなもん着て恥ずかしくねえのか」という台詞を吐くが、こういう場面にアウトサイダー擁護派の深作節が色濃く出ていると思う。

※深作欣二監督。(「日刊ゲンダイ」より)