高橋いさをの徒然草 -13ページ目

テロから17年

先日、アメリカの同時多発テロが起こってから17年が経った。わたしはアメリカ人ではないが、あの事件が起こった時、自分が何をしていたのかよく覚えている。仕事から自宅へ帰ったら、燃えて煙を吐き出している世界貿易センタービルがテレビに映っていた。二機目の飛行機が突入した前か後だったかは記憶にない。わたしは当初、飛行機事故が起こったと思った。しかし、それは飛行機事故ではなく、計画的に実行されたテロリズムだったわけだ。しかも、標的は世界貿易センタービルに限定されたものではなく、国防省やホワイトハウスも攻撃の対象だった。同時刻に民間の旅客機を立て続けにハイジャックして、乗客もろとも攻撃対象へ突入するというこの悪魔的な計画を立てた人間の発想には恐れ入る。同居していた父がわたしの自室へやって来て言った一言はこうだった。

「こりゃ戦争になるな」

わたしの父は太平洋戦争に陸軍兵士として参戦した経験がある人だが、「飛行機事故にちがいない」などと甘い考えを抱いていた平和ボケのわたしとは違い、物事の本質を見極める目を持っていたということだと思う。二つのタワーが崩壊したことを知ったのは外出先だったように思うが、ひどくびっくりしたのを覚えている。計画者は、旅客機でタワーの上層部に突っ込めば、崩壊を招くということを計算していたのだろうか。今、飛行機突入場面をユーチューブの動画で見ると、その悪夢のような光景とともにそれを撮影していた人々の驚嘆の声が録音さている。

「オーマイガー!」
「ホーリーファック!」
「ホーリーシット!」

激突の瞬間を目撃した人々はそのような驚きの声を挙げている。しかり。同時多発テロ、中でも二機目の飛行機突入は、ニューヨークにいた人々に大きな恐怖感を抱かせパニックに陥れたにちがいない。その様はまさに驚天動地の出来事であったろう。あの悪夢から17年、世界は少しはよい方向に変わったのだろうか?

※燃える世界貿易センタービル。(「トウシル」より)

心の声

インプロとは「inprovisation」の略語で、即興演技によって場面を作る方法を表す言葉である。インプロを実践する人々は、様々なルールの中で台本なしで演技をする。彼らは、脚本家の書いた台詞なしに、舞台上で即興によってドラマを作ることができる。そういう人たちのことを「インプロバイザー」と呼ぶらしい。もうずいぶん前のことだが、かつてわたしはインプロの教室に通ったことがある。飲み会の席でインストラクターの役者さんに「なぜインプロをやってるんですか?」と尋ねたわたしに対するその人の答えは印象的なものだった。

「僕ら俳優は、作者の書いた台詞がない限り何もできない。作者に依存するしかないんです。けれど、もしも自分で言葉を生み出せたら作者に依存しなくても舞台に立てる。インプロバイザーとは、そういう自らが台詞を生み出せる俳優のことを指すんです」

その通りである。俳優は作者がいない限り自立できない人種である。言ってみれば、「インプロバイザー」とは夫の収入に頼りきりだった妻が、夫と別れて自ら仕事をして経済的に自立するようなものかもしれない。それはそれで理解はできるが、ちょっと異論がある。

俳優は、作者の書いた台詞を正確に観客に伝えるだけの音声伝達者ではない。俳優は、作者の書いた台詞の裏側にある「心の声」を生み出すクリエイターだからである。音声としては発語されないが、その台詞がどんな「心の声」を伴って発語されるかは、その役を演じる俳優次第なのである。俳優は、自身で実際に文字を書くわけではないが、「心の声」の脚本家であると言える。だから、すぐれた演技力を持つ俳優とは、想像力によって豊かな「心の声」を生み出せる俳優のことである。

※脚本を書く。

目撃者

長い人生においては、人間は時に見てはならないものを見てしまうことがある。例えば、殺人事件の目撃などはその最たるものだろう。また、交通事故を目撃することも同じような意味合いを持っている。これらの場合、目撃者は裁判において事実を立証する上で、重要な役割を果たすことになる。彼らは被告人の人生を左右しかねない重要な目撃者たちだからである。それらと比べるとずいぶん些細な出来事だが、ずいぶん前にわたしは以下のような場面を目撃したことがある。

その日の夜、わたしは地下鉄丸ノ内線の座席に座っていた。車両の一番隅っこである。わたしの座席の前に勤め人風の男女。若い女性二人と中年の男性一人。三人の会話から男性は上司で、二人の女性はその部下らしいことがわかった。三人は会社の誰かの噂話で盛り上がっていた。電車が四ッ谷駅に着いて、その中の一人の女性が下車した。その後、わたしは"その場面"を目撃した。わたしの目の前で、部下と思われる若い女性と上司と思われる男性がどちらからともなく手を繋いだ(!)のである。そして、今まで「ですます調」でしゃべっていた女性の言葉がもっとくだけた感じに変化した。つまり、男性と女性はデキていたというわけだ。男性の左手の薬指には指輪があった。男性には妻がいて、二人は不倫関係にあると考えると辻褄は合う。

わたしの見たものは、大したことない日常のヒトコマだったかもしれない。しかし、その時、わたしの心は、殺人事件を目撃した人のようにちょっと高鳴った。二人の目の前に座るわたしは、この車両におけるたった一人の目撃者だったから。

※「刑事ジョン・ブック 目撃者」の少年。(「Amazon.co.jp」より)

言いなりの男

最近、歯医者に通っている。元々、歯はよい方ではなく、様々な治療を経て現在に至るが、治療すべき歯をほったらかしていたせいで、いよいよまずい状態になり、通院を余儀なくされたわけである。 わたしが通う歯医者は、自宅から近い場所にある町の歯医者だが、先生は三十代くらいのショートヘアーの女性である。治療のための椅子に座り、背もたれが倒され、口元に強い光が当てられる。マスクをした先生が器具を片手にわたしの口を覗き込む。

先生「ハイ、口を開けてください」
わたし「(その通りにする)」
先生「もう少し大きく」
わたし「(その通りにする)」
先生「ハイ、噛んでください」
わたし「(その通りにする)」
先生「また開けて」
わたし「(その通りにする)」
先生「閉じて」
わたし「(その通りにする)」
先生「開けて」
わたし「(その通りにする)」

言いなりである。五十男がここまで他人の命令に忠実に従うことはめったにないように思う。歯の治療を受けるわたしの姿は、まるでSMの女王様の言いなりになる奴隷のようである。そして、ふと、その女の先生の指示にことごとく反抗してみたい誘惑に駆られた。

先生「ハイ、口を開けてください」
わたし「嫌です」
先生「ハイ?」
わたし「なんで口を開けるんですか」
先生「歯の治療をするためです」
わたし「ふふふふ」
先生「何ですか」
わたし「わたしが先生の言いなりになると思ったら大間違いですよ」
先生「・・・」
わたし「さあ、どうしますか、先生」

まあ、そんなやり取りはまずあり得ないが、治療を受ける患者が子供なら、先生の指示に反抗的な態度をとる場合はあるかもしれない。それにしても、五十男がここまで年下の女性に従順になる局面に立ち会うと、そういう馬鹿げた妄想を抱いてしまう。

※女性の歯科医。(「秋山矯正歯科」より)

100円ショップの「大脱走」

江戸川橋にある「絵空箱」という劇場で、おのまさしあたあワンマンロードショー第二回「大脱走」を見る。俳優のおのまさしさんが一人で映画「大脱走」(1963年)の物語を語り演じる。前に「十二人の怒れる男」の登場人物を一人で全部演じるという無謀な試みを成し遂げたおのさんによる第二弾。今回は前回よりも登場人物は多いはずだ。

第二次世界大戦下のドイツ。脱走不可能を謳うドイツの捕虜収容所に連合国の兵士が集められる。彼らは過去に脱走の前科がある札付きばかり。人々は知将バートレットの指揮の元、集団的な脱走を計画し、それを実行に移す。

という内容の物語をおのさんが一人で何役も演じ分けながら物語る。ややこしく感じるかと思ったら、工夫がある演出(大西一郎さん)でそんなことは全然ない。わたしたちは、おのさんの語りによって第二次世界大戦下のドイツの捕虜収容所へ誘われる。聞けば、舞台上で使っている小道具は、ほとんどすべて100円ショップで取り揃えたものだという。そういう趣向を貧乏臭いと感じるか、観客の想像力をくすぐるすぐれた趣向と感じるかによって本作の評価は変わると思うが、わたしは後者である。演劇の武器は最小限の小道具を使い、観客の想像力という名の最大限の効果を勝ち取ることだとわたしは思うからである。何より「誰が何と言おうが、オレはこの映画が大好きなんだあ!」というおのさんの心にわたしは感動する。まあ、おのさんとわたしの好みが見事に一致しているということではあるが。

一つだけ注文をつけるなら、汗だくで「大脱走」を語る一人の俳優の肉体が、語り手という立場を超えて、いつしか映画の登場人物同様に必死に何かから逃げようとしている「脱走者」に見えてくる瞬間が訪れたなら、つまり、フィクションとリアルが見事に重なったら、わたしの心はもっと揺れたと思う。次回の演目は「ゴッドファーザー」だという。その選球眼のよさ。

※同作。(「おのまさしとブログ」より)

追悼 バート・レイノルズ

バート・レイノルズが亡くなった。82歳だという。若い人にバート・レイノルズと言っても全然ピンと来ないのだろうが、わたしの世代にとって、この人はアメリカのヒーローを体現した俳優である。わたしのバート・レイノルズ三傑は以下の三作品。

●「ロンゲスト・ヤード」(1974年)
●「シャーキーズ・マシン」(1981年)
●「脱出」(1972年)

とりわけ「ロンゲスト・ヤード」(ロバート・アルドリッチ監督)は快作中の快作である。わたしがこの人をヒーローを体現した俳優と見なす最大の要因は、本作における「元プロフットボール選手の囚人」という役柄のせいである。本作は、付き合っている女の車を盗み、破棄した罪(窃盗と器物破損)で投獄された元プロフットボール選手である主人公が、刑務所内で行われる看守対囚人のフットボールの試合の囚人チームの監督となり、活躍する様を描く痛快なスポーツ映画である。今見直しても最高のスポーツ・エンターテイメント映画だと思うが、この映画のバート・レイノルズは、その持ち味を100パーセント出し切っている。俳優になる前、文字通りフットボール選手だったこの俳優の肉体が最もセクシーに躍動したのは本作であると思う。レイノルズ、当時38歳。八百長を強制する所長に逆らい、自分の刑期延長と引き換えに試合に臨み、逆転のタッチダウンを決める主人公の勇姿は、今見ても胸が熱くなる。

この映画の後だったと思うが、レイノルズは、雑誌でオールヌードを披露して「セックス・シンボル」と呼ばれた時代があった。確かにこの人には下品さと紙一重の男っぽい色気がムンムンと漂っていた。今思うと、その色気は、レイノルズの肉体が「フットボール」という様式を持っていたからにちがいない。こうしてまた一人、わたしの青春時代の映画スターが鬼籍に入った。ここに謹んで哀悼の意を表する。

※バート・レイノルズ。(「Boss's column」より)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
昨日はたくさんの誕生日のお祝いメッセージをいただきました。
この場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
                                                          高橋いさを

美しい人生

わたしは演劇に関わってすでに35年以上経つが、広い意味で、わたしはどんな場合にも、演劇に美なるものを求めているように思う。美なるものと言うと抽象的過ぎるかもしれないが、それは内容の面白さであったり、俳優の格好よさであったり、舞台造形的な美しさのことである。それは、必ずしもわたしだけのことではなく、大概の演劇の観客が舞台に求めるものも、そういうものであろう。

翻って、わたしは、自分の人生を生きてすでに57年にもなるが、演劇に関わったせいか、自分の人生にも美なるものを求める傾向がある。どんな場合も「美しくありたい」と望んでいるのである。それは必ずしも美容としてのそれではなく、生き方の問題としてである。そう願いながらも、大概において、実人生における美なるものの追求は失敗することが多い。「こうありたい」という自分の理想は大方、現実の前で頓挫することが多いからである。例えば、誰かと決別する時に、「こういう風に別れることができたら最高だよな」というイメージを持ちながらも、イメージ通りに別れることは簡単にできない。現実の別れは、非常に散文的で素っ気なく味わいに欠ける。しかし、だからこそ、わたしは演劇にその理想として美しい別れを求めるのかもしれない。

それでもなお、わたしは美しい人生を送りたいと思う。他人を貶めて得るような幸福ではなく、貧しくても毅然とした態度で我が道を行くような幸福を勝ち得たいと願う。芝居において、最も大事なのは、その人物の「去り際」である。その「去り際」に、その人物の人生が集約される。格好よくそれを実現する自信はまったくないが、できるならわたしは美しくこの世を去りたいものだと願う。

※ある日のわたし。

動く歩道

月に何回か、恵比寿駅からガーデンプレイスへ続く動く歩道(「スカイウォーク」と言うらしい)を使っている。駅周辺にある俳優養成所で講師をするためである。400メートルもあるらしいあの歩道ができてからもうずいぶん経つように思うが、わたしはいつもあの動く歩道に乗る度に試みるが失敗していることがある。それは、「一度、乗ったら決して歩かないで移動すること」である。

あの歩道の時速はたぶん3キロくらいだと思うが、一度、乗れば恵比寿駅の出口まで自動的に運んでくれる。だから、急いでいなければ動く歩道に乗れば、ほとんど歩かなくても目的地には到着できるわけである。にもかかわらず、わたしはあの3キロのスピードに耐えられない。乗っているとその遅さにイライラしてしまう。だから、急いでいないにもかかわらず、動く歩道の上をスタスタ歩いてスピードを上げる。いつも「今日は歩かないで歩道に身を委ねるぞ!」と心に誓い、じっとしていようとするのだが、あの歩道に乗って移動が始まった途端に「ええい、遅い!」とスタスタと歩き出してしまう。あの歩道の速度は、わたしの生活のリズムに著しく反しているのだと思う。

では、わたしの生活のリズムはどのくらい速いのかと考えると、自分でもよくわからないのだが、少なくともあの歩道の速度よりは速いリズムでわたしは行動しているはずである。街を歩く速度も、歯磨きの速度も、服を着替える速度も、ご飯を食べる速度も、トイレで用を足す速度も、風呂へ入る速度も。だから、あの歩道に身を委ねると、そんなわたしの生活のリズムが狂うのである。たかが400メートルの動く歩道でじっとしていられないわたしは、相当にせっかちであると言えるが、格好よく言えば、それが都会の速度であると言いたい。恵比寿の動く歩道が、今の倍の速度で動いてくれれば、わたしは心地よくそこに身を委ねるにちがいない。

※動く歩道。(「恵比寿駅周辺情報」より)

寝乱れたベッド

先日、「危険な情事」(1987年)で描かれる偽装ベッドについての文章を書いた。本作に登場するエリート弁護士の夫は、自らの浮気を隠蔽するために自宅のベッドをわざと使ったように偽装するのである。"ベッドつながり"で同じように不倫関係に陥った男女を描く「運命の女」(2002年)の一場面を思い出した。監督は両作品ともにエイドリアン・ラインである。

本作では、ひょんなきっかけで若い男と知りあった人妻(ダイアン・レイン)が、男と不倫関係になり、それを知った夫が若い男を突発的に殺害してしまう様が描かれる。場面はニューヨークにある男のアパート。凶器は夫が妻にプレゼントしたスノーボールである。夫はそれを使って男を撲殺してしまうのだ。男の部屋を訪ねて、冷静に男と話し合いをしようとしていた夫(リチャード・ギア)は、部屋の片隅にある男のベッドを見て激情に駆られる。そのベッドは「寝乱れたベッド」である。クチャクチャになった掛け布団とシーツ。夫はその様を見て、衝動的に男に殴りかかってしまうのだ。とても説得力がある場面で、わたしは衝動的な殺人のきっかけとしては完璧な小道具だと思う。夫の目には、その「寝乱れたベッド」が、妻と男が激しく愛し合った姿そのものに見えたことだろうから。

ラブ・ホテルの従業員はそういう場面を日常的に目にする仕事にちがいない。彼らは、ベッドの使用前、使用後を生々しく目撃するであろうからである。

○キレイに作ったベッド→○男女の入室 →○男女の退室 →○寝乱れたベッド

従業員は、情事そのものは見ることはできないが、ベッドの使用前と使用後を見比べることができる。つまり、ベッドの状態の変化からそこで行われた情事を想像できるということである。そういう意味では、ラブ・ホテルは、想像力の訓練をする上では最高の場所であると言えると思う。

※「運命の女」(「映画.com」より)

握手は苦手

先日、とある芝居を見に行った時、終演後に出演していた役者さんに面会した。わたしが近づくと、その役者さんはにこやかに「やあ、久しぶり!」という顔をして、右手がちょっとだけ動いた。たぶん握手のためである。わたしはその右手の動きを見逃さなかったが、自らの右手は前に差し出さなかった。わたしたちは当たり障りのない会話をして別れたが、劇場から駅への帰り道、わたしはちょっと反省した。「相手が握手したいならそれに応えてあげればいいではないか」と。

わたしは人に会った時に挨拶代わりに握手する習慣を持っていない。相手が手を前に差し出して、明らかに握手を求めているとわかったら躊躇なく握手するが、そうでない場合、自ら手を差し出して握手を求めることはほとんどない。相手が外国人だったりすると割り切りでガッチリ握手したりするが、日本人だとどうしても手を差し出すことを躊躇してしまう。わたしは他の日本人同様に他人の身体に触れることに慣れていないのである。

今まで芝居をいくつも作ってきて、終演後にロビーでお客様に手を差し出され、握手したことは何度もある。おぼろげな記憶だが、それらはみな舞台に感動した余韻で握手を求められたように思う。「とてもよかった!」という気持ちを握手は相手により雄弁に伝える。そういう意味では、握手という文化は決して忌避すべきものではないのだが、やはり握手の本場は西洋社会であり、日本人にはなかなか身につかない文化であるように思う。握手が西洋社会で生まれ、なぜ日本に生まれなかったのかは、文化人類学的に興味深いことであるが、つまるところ、昔から日本文化において他人と身体的に接触することは避ける傾向があるのは事実であると思う。その代わりに日本ではお辞儀の文化が育ったのだ。

※握手。(「カラパイア」より)