高橋いさをの徒然草 -12ページ目

「好男子の行方」最新情報

“オメガ東京”オープニング・フェスティバル参加作品
 
ISAWO BOOKSTORE vol.1
 
『好男子の行方』
 
作・演出:高橋いさを
 
【内容】
1968年12月10日、事件は起こった。
三億円強奪事件。
被害にあった銀行の人たちは、いかにしてこの事態に対処したか?
事件から50年目の今、その衝撃の真実が明かされる!
 
【日時】
2018年12月12日(水)~18日(火)
 
【タイム・テーブル】
12月12日(水) 19時
12月13日(木) 19時
12月14日(金) 19時
12月15日(土) 13時/18時
12月16日(日) 13時/18時
12月17日(月) 19時
12月18日(火) 19時
※開場は開演の30分前。 
 
【会場】
荻窪・オメガ東京 
TEL: 03-6913-9072
〒167-0043 杉並区上荻2-4-12
※JR荻窪駅西口出口より徒歩7分。
http://omega-tk.com/access.html
 
【料金】 
¥4000 (前売・当日共・全自由席) 
 
【出演】
飛野悟志
五十嵐明 
東正実 
春見しんや 
磯崎義知 
小中文太 
桧山征翔 
 
【公式HP】

【前売開始】
2018年10月11日(木)
 
【ご予約】
以下のURLよりチケットを承ります。https://www.quartet-online.net/ticket/koudanshi?m=0jhegbf

【お問合せ】
(有)ファイナルバロック
TEL: 03-6913-9072
baroque@sas-actors.com

【スタッフ】
舞台監督:吉川尚志
舞台美術:仁平祐也
照明:長澤宏朗   
音響:佐野貴史   
写真:ヤマダヤスオ  
撮影メイク:本橋英子
演出助手:修美穂/高野友靖
宣伝美術:津曲浩司
WEB製作:NORINO
制作:(有)ファイナル・バロック/冨田哲/菅井京子
プロデューサー:宇津井武紀(MARCH)  
制作協力:若林友恵/田代結香
協力:青年座/crop/激団リジョロ/CEDAR/キョードーファクトリー/オメガ東京附属アクターズスクール


※公演チラシ。

美女の運命

ここに男性なら誰でも振り返って見るような絶世の美女がいたとする。彼女が町を歩くと、男たちだけではなく、すれ違う女たちも彼女を振り返り、ため息をつくような美女である。彼女は、その美しい裸体をエレガントな衣装で包み町を颯爽と行く。女はどんな気分だろう?    向かうところ敵なしと言ったところか。神が自分に授けたこの肉体と美貌さえあれば、この世のすべては我が手に収まるという快感。そのほとんど陶酔的な万能感が女の気分を高揚させる。女にとって世界は限りなく親和的で美しく見えていることだろう。

そんな女に訪れるべき運命とは何か?   それは次のような運命であると思う。ある日、女は別れた男と遭遇する。男は女のことを忘れられず、ストーカーとなってつきまとっているのである。女は男を邪険に扱い、「あんななんかにもう用はないの!」と言ってその場を立ち去ろうとする。すると、逆上した男は、女の顔に硫酸の液体を浴びせる。絶叫とともにその場に倒れる女。

女の世界は一変する。それまで親和的で美しく見えていた世界が、たくさんの悪意を伴って彼女に逆襲してくる。女に突き刺さる人々の好奇と哀れみに満ちた目。かつて人々の目を釘付けにした美貌を持っていた女だからこそ、醜く爛れたその容姿との落差は限りなく大きい。女は自死することを選ぶのか?    あるいは、屈辱に耐えながら生きることを選ぶのか?

絶世の美女(ただの美女ではない)が辿る「正しい運命」とは、このようなものではないか。この世のものとは思われぬ圧倒的な美貌は、必ず不吉な悲劇を招き寄せるものにちがいないから。

※絶世の美女。(「モデルプレス」より)

俳優の成功とは

電車に乗ると、中吊りや電車の側面に様々な宣伝広告が貼られているのが目に入る。そこには様々な広告がズラリと並んでいる。それらの広告では、だいたい商品とともに有名なタレントや俳優たちが笑顔を振りまいている。イメージ・キャラクターというヤツである。そして、わたしは思う。

「俳優にとって"世俗的な成功"とはこういうことなんだろうなあ」

わたしはロマンチックな芸術家なので、その俳優がどんな企業のどんな広告に出ていようがそんなことはどうでもいいと思う方である。問題はその俳優の人間としての魅力だけだ、と。しかし、いくら魅力があっても、売れない限りその俳優は一般的な評価を得られない。もっと言えば、優良企業の広告に採用されて多額の報酬を得ない限り、その俳優は「一流」と呼ばれない。わたしたちの世界で俳優として成功するとは、優良企業の広告に登場し、広告を通して我々にその存在を認識させるということである。つまり、メディアへの露出が多い俳優が、わたしたちの社会の中で信頼を獲得した人たちであると言える。

しかし、ここには一つの逆説がある。それらの企業の広告にたくさん露出する当代の一流俳優たちは神格化しにくい点である。優良企業の広告に登場することは、俳優のステータスを上げるにちがいないが、同時にその俳優の存在を世俗化する。もちろん、現実を生きる俳優は、必ずしも神格化されることを望んで俳優活動をしていないと思うが、企業の広告塔(もっと意地悪く言えば企業の提灯持ちである)になるということは、その俳優の魂(最も大事な心の部分)を金で企業に売るという側面があると思う。それは「自由な魂の体現者」としての俳優の在り方を著しく損なう。彼らは"世俗的な成功"と引き換えに神秘性や聖性を失うのだ。つまり、俳優が"世俗的でない成功"を果たすには、松田優作のように夭逝するしかないということなのだろうか。

※松田優作。(「JUGEM」より)

警官殺し

仙台の交番で警察官が近くに住む大学生に刃物で刺されて殺害されたという記事をネットで読んだ。大学生は別の警察官にその場で拳銃で射殺されたという。日本では余り聞かない非常に物騒な事件である。記事によれば、大学生は「落とし物を拾った」と言って交番にやって来て、警察官に襲いかかったらしい。

連想するのは、1989年に起こった中村橋派出所警察官殺害事件である。この事件は、西武池袋線中村橋駅近くの交番付近で、職務質問をした警察官が元自衛官の若い男にサバイバルナイフで襲われて殺害された事件である。男の動機は拳銃を奪うためであった。つい最近も、富山県の交番で警察官が若い男に襲われて殺害され、拳銃が奪われる事件が起きたばかりだ。今回の事件もこれらの事件同様、犯人は拳銃を奪う目的で犯行に及んだのだろうか。犯人の動機がもしもそのようなものなら、まったく短絡的と言わざるを得ないが、確かにある種の人間にとって、拳銃という武器は非常に魅力的なアイテムに見えるのだろう。大袈裟に言えば、法治国家である日本において、警察官が携帯している拳銃こそ、国家権力の最も象徴的な小道具であるのだから。

数ある殺人事件の中でも「警官殺し」がわたしたちにとってセンセーショナルなのは、法と秩序の番人である警察官を殺すという行為が、現行の権力構造に真っ向から歯向かう反逆行為だからである。そういう意味では、一般市民による「警官殺し」は、息子による「父親殺し」とちょっと似ているように思う。その国に君臨する支配者に下位の者が反逆するという点で両者は似ている。亡くなった警察官のご冥福を祈る。

※交番。(「警視庁」より)

高校の演劇部

昨年に引き続き、長野県の伊那市へ高校生を対象にした演劇の講習会へ行ってきた。全部で30名ばかりの演劇部に所属する女子高校生にいろいろな演技の方法を提示して、実演してもらう。昨年もそうだったが、男子は一人もいない。確かにわたしが高校生の時も、演劇部には男子はいなかったように思うが、演劇部に男子がいないのはちょっと不思議な現象である。これはなぜなのだろう?

勝手な想像だが、男子高校生に演劇は「格好いいもの」という認識が乏しいということなのではないか。確かにサッカー部や野球部のような肉体が躍動するような格好よさは演劇部には乏しい。ハムレットを演じても、それを格好いいという感覚は男子高校生にはないと思う。たぶん男子高校生にとって演劇は「女子がやるもの」という認識が強いのではないか。わからないでもない。わたし自身、高校生の頃、演劇部というと、化粧臭いイメージを持っていた。演劇部にいる男子に対して「男のくせにメーキャップなどしてみっともない!」というような偏見を持っていたように思う。確かに演劇には、人前で身をくねらせて観客に媚を売る側面がないではない。また、「演技」という言葉は、日常的に使う時に「他人を欺き嘘をつく」という意味合いがあり、そういう点もウルトラマンや刑事もののドラマを通じて培った正義をよしとする男子高校生を演劇から遠ざける要因になっているのかもしれない。

演劇を生業(なりわい)とするわたしとしては、それらはすべて偏見であり、演劇ほど「複数の人間が足並み揃えて一つの目的を達成する喜び」を体験できる器はなく、最高に「格好いいもの」だと思うが、わたしがいくら力説しても、男子高校生はなかなか演劇部へ入ろうという気分にはならないのかもしれない。かく言うわたし自身もかつてはそうだったのだから。

※高校の演劇部。(「守口東高等学校」より)

破局

ネットのニュースを見ていると、しばしば「かねてより交際中のAとBが破局していたことがわかった」というような記事を見かける。わたしたちは、そういう報道をごく当たり前のこととして受け入れているが、交際中の男女が何らかの事情で別れることを「破局」と呼ぶようになったのはいつ頃なのだろうか?    あるいは、我々はずっと昔からその言葉を使って、そういう事態を言い表してきたのだろうか?

「かねてより交際中のAとBが、決別していたことがわかった」

「かねてより交際中のAとBが、関係を解消していたことがわかった」

「かねてより交際中のAとBが、自然消滅していたことがわかった」

例えば、このような言い方でも、同じ意味を第三者に伝えることはできるはずである。しかし、「決別する」と「関係を解消する」と「自然消滅する」は、それぞれ微妙にニュアンスが違う。「決別する」だと、それぞれが強い意志を持って発展的に別れたというニュアンスがあり、「関係を解消する」だと、どちらかが不貞行為を働いて、片方が愛想を尽かしたというニュアンスがある。ましてや「自然消滅する」では、どちらかがある日、忽然と消えてなくなってしまったように聞こえる。それに対して、「破局」は、人智に及ばぬいかんともし難い悲劇的な別れというニュアンスがあり、第三者が当事者に同情的な感じがする。そういう意味では、ジャーナリズムが使いやすい言葉であるということか。

それにしても、たかだか一人の男と一人の女がすったもんだの末に別れることを「破局」という大袈裟な言葉で言い表し、世間に知らしめるのもどうかと思う。有名人のみならず、世の中の人々はあちこちで破局と出会いを繰り返して生きているのだから。まあ、「破局」するのは、一般の人ではなく有名人限定であると考えれば、これはこれで使い勝手がいい言葉なのだろうけれど。

※破局。(「ひまつぶし速報」より)

世渡り

わたしが「世渡り」という言葉を知ったのはいつだったか?    少なくともわたしは十代の頃、この言葉を知らなかったように思う。なぜ知らなかったかと言うと、そんなものにまったく興味がなかったからだと思う。少なくとも、子供の頃、わたしに対して両親は「うまく世渡りしないとダメよ」というようなことを一切言わなかった。

つまり、わたしは長いこと「世渡り」とは何のことなのか、よくわからないで生きていたということである。だからと言って、今はよくわかるということでもないのだが、まあ、昔よりは「世渡り」が何なのかを少しは理解するようになった。「世渡り」とは、うまく立ち回って自分の利益を確保して出世するということである。サラリーマンの世界などは、まさにその能力が問われる世界であるように思う。

ところで、世の中には「世渡り」が上手いヤツがいて、わたしの身近にもそういう人間がいないでもない。彼らは、プロデューサーや演出家に取り入り、自分を売り込み、自らが芝居や映画に出演できるように立ち回る。場合によっては、自分のライバルになるようなヤツを蹴落として自らの利益を得ようとする。やったもの勝ちのこの世界で、彼らは必死に生き残りの戦いに挑んでいるとも言える。それはそれで立派だと思う気持ちがないでもないが、わたしはそういう「世渡り」上手たちを疎(うと)み、毛嫌いする傾向がある。どうしても好きになれない。それは、要するにわたし自身が「世渡り」が下手で、そのように生きられなかったことがベースにあると思う。

わたしは、大学や専門学校で劇作と演技を教えているが、そういう場で劇作と演技の技術は教えるが、決して「世渡り」を教えたことはない。それは学問とはまったく別の話だと思うからである。「世渡り」は学校で先生に教えてもらうものではなく、その人自らが困難に直面し、何とかそれを打開しようと四苦八苦して身につけていくものだと思う。わたしは、子供の頃、「世渡り」を一切口にしなかった両親に感謝している。

※ゴマをする。(「Books&Apps」より)

笑う歯科医

最近、歯医者に通っているということは前のブログにも書いたが、わたしが通っているK歯科医院は、歯科医、助手、受付を含めて女性だけで運営されている歯科医院である。前に通っていたところは、壮年の男性の歯科医で、寡黙な医師の厳しい雰囲気と建物の古さのせいか、治療室にちょっと陰鬱な緊張感が漂っていたが、そんな歯科医院と比べると、建物の新しさも手伝って、K歯科医院の雰囲気はずいぶん明るい。

それはそれでよいのだが、ちょっと困るのは、治療の最中に女医であるK先生は、助手と世間話をして笑い声を立てたりする点か。こちらとしては治療さえ完璧にしてくれれば、何も文句はないのだが、治療の最中に「ハハハハ」とやられると、ちょっと心配になる。そもそも歯科医で笑う人を見るのは、わたしにとっては初めての経験である。とは言え、まさか「歯科医師法」に「治療中にはいかなることがあっても笑ってはならない」という規定はないはすだから、K先生の態度を一概に否定もできないが、もう少し患者の気持ちを慮(おもんぱか)ってくれてもいいのではないかと思う。その日、わたは抜歯をしたが、笑いながら治療するK先生の手元には、血まみれのわたしの歯茎があるのである。

患者の歯を治療中のK先生。
近くに助手がいる。
K先生「焼き肉屋さん?」
助手「すごくおいしいですよ」
K先生「値段は?」
助手「300円です」
K先生「全品?  タンも?」
助手「ハイ」
K先生「じゃあ、今度行ってみるーー(患者に)キョロキョロしないでください」

もちろん、上記の会話はフィクションだが、こんなやり取りをしながらする治療があるなら、ほとんどブラック・ユーモアの世界である。どちらにせよ、歯科医に笑いは似合わない。

※K歯科医院。

犯人の顔

テレビで放送されていた「帝銀事件 大量殺人・獄中32年の死刑囚」(1980年)を見る。昭和23年に起こった「帝銀事件」を描いたドラマ。松本清張の原作。

戦後間もない昭和23年1月、東京の豊島区にある帝国銀行椎名町支店で薬物による集団的な毒殺強盗事件が起こる。犯人は東京都の防疫職員を名乗り、行員らに予防薬を飲ませ、殺害した上に銀行内にあった現金と小切手を奪ったのだ。犯人として浮上したのはテンペラ画家の平沢(中谷昇)という男。古志田警部(田中邦衛)は逮捕した平沢を執拗に追求する。

ナレーションによる説明がやたらに多いドラマだが、帝銀事件の全容を知るには格好のドラマで、事件の経緯がよくわかる。 ところで、本作の犯行場面に登場する犯人は画面に顔が映らない。主に後ろ姿が映されて、正面から撮った場面も何かしらの障害物が手前に映り込んでいて、犯人の顔を画面上に映さないようにしているのだ。前に見た熊井啓監督のデビュー作「帝銀事件 死刑囚」(1960年)も同じ手法であった。つまり、犯人の顔を画面上で明かしてしまうと、犯人を特定してしまうことになるからである。

そして、ふと「死の接吻」(ハヤカワミステリ文庫)を思い出した。「死の接吻」は、アイラ・レヴィンが書いた倒叙形式による犯罪サスペンス小説だが、書き方が独特な小説である。殺人に手を染める男の犯行場面は「彼」という三人称で描写され、その後、疑わしい男たち三人が登場すると、彼らは固有名詞で描写されるのだ。小説であること(絵がない)を逆手に取ったトリッキーな趣向。この小説は「赤い崖」(1956年)「白い崖」(1960年)「死の接吻」(1991年)と都合三回映画化されているが(前二作は見ていない)、1991年版は原作の手法を取り入れることはなく、犯行場面で犯人の顔は描かれる。「死の接吻」をこの手法で映画化しようとすると、犯行は犯人の主観描写で描かざるを得ないからである。ドラマ「帝銀事件」と小説「死の接吻」にはそういう共通点がある。

※「死の接吻」(「ヤクオフ!」より)

「好男子の行方」ホームページ

ISAWO BOOKSTORE vol.1
オメガ東京オープニング・フェスティバル参加作品

「好男子の行方」

作・演出/高橋いさを

●日時
2018年12月12日(水)~19日(火)

●場所
オメガ東京
JR荻窪駅西口徒歩8分

●出演
飛野悟志
五十嵐明(青年座)
東正実
春見しんや
磯崎義知
小中文太(激団リジョロ)
桧山征翔(CEDER)

●タイムテーブル
12月12日(水)19:00開演
12月13日(木)19:00開演
12月14日(金)19:00開演
12月15日(土)13:00開演/18:00開演
12月16日(日)13:00開演/18:00開演
12月17日(月)19:00開演
12月18日(火)19:00開演
※全9ステージ

●内容
1968年12月10日、事件は起こった。
三億円強奪事件。
現金を強奪された銀行の人々はいかにしてこの事態に対処したか?
事件から50年目の今、その衝撃の真実が明かされる!

●前売り
2018年10月11日(木)

●入場料金
前売り・当日共 ¥4000(全席自由)

以下のURLより公演情報がご覧になれます。
※「好男子の行方」のイメージ写真。