犯人の顔 | 高橋いさをの徒然草

犯人の顔

テレビで放送されていた「帝銀事件 大量殺人・獄中32年の死刑囚」(1980年)を見る。昭和23年に起こった「帝銀事件」を描いたドラマ。松本清張の原作。

戦後間もない昭和23年1月、東京の豊島区にある帝国銀行椎名町支店で薬物による集団的な毒殺強盗事件が起こる。犯人は東京都の防疫職員を名乗り、行員らに予防薬を飲ませ、殺害した上に銀行内にあった現金と小切手を奪ったのだ。犯人として浮上したのはテンペラ画家の平沢(中谷昇)という男。古志田警部(田中邦衛)は逮捕した平沢を執拗に追求する。

ナレーションによる説明がやたらに多いドラマだが、帝銀事件の全容を知るには格好のドラマで、事件の経緯がよくわかる。 ところで、本作の犯行場面に登場する犯人は画面に顔が映らない。主に後ろ姿が映されて、正面から撮った場面も何かしらの障害物が手前に映り込んでいて、犯人の顔を画面上に映さないようにしているのだ。前に見た熊井啓監督のデビュー作「帝銀事件 死刑囚」(1960年)も同じ手法であった。つまり、犯人の顔を画面上で明かしてしまうと、犯人を特定してしまうことになるからである。

そして、ふと「死の接吻」(ハヤカワミステリ文庫)を思い出した。「死の接吻」は、アイラ・レヴィンが書いた倒叙形式による犯罪サスペンス小説だが、書き方が独特な小説である。殺人に手を染める男の犯行場面は「彼」という三人称で描写され、その後、疑わしい男たち三人が登場すると、彼らは固有名詞で描写されるのだ。小説であること(絵がない)を逆手に取ったトリッキーな趣向。この小説は「赤い崖」(1956年)「白い崖」(1960年)「死の接吻」(1991年)と都合三回映画化されているが(前二作は見ていない)、1991年版は原作の手法を取り入れることはなく、犯行場面で犯人の顔は描かれる。「死の接吻」をこの手法で映画化しようとすると、犯行は犯人の主観描写で描かざるを得ないからである。ドラマ「帝銀事件」と小説「死の接吻」にはそういう共通点がある。

※「死の接吻」(「ヤクオフ!」より)