遺言 | 高橋いさをの徒然草

遺言

すべての書物は、それを書いた人の遺言のようなものだと思う。もちろん、ほとんどの作者は遺言のつもりで本を書いていないと思うが、人間はいつか必ず死ぬわけだから、結果としてその本は作者の遺言のようなものになる。例えば、図書館の本棚に並ぶ様々な本の著者のほとんどはすでに鬼籍に入られた人ばかりである。それらの人々が書いた著作を手に取ってページをめくる度に、この人たちはもうこの世にいないのだと思い知る。そして、目の前にある著者が書いた言葉は、著者からわたしへの遺言であるように思える。

そのように考えて、これは何も書物だけの話ではないと思い至る。世にあるすべての形あるものは、すべからく先人たちが残した遺品であるとも言えるからである。例えば、わたしが歩く道路も、わたしが乗る電車も、わたしが仕事する建物も、わたしが酒を飲む飲み屋も、わたしが公演を行う劇場も、すべてが先人たちがわたしに残してくれた遺品なのである。つまり、世界とは、先人たちが今を生きる我々に残してくれた遺品の集積のことなのだ。

子供を作り、それを育てるという人間の営為も同じような意味合いを持っているように思う。子供とは、未来を担うために先人たちが残した最大の遺品なのだ。そういう意味では、子供とは、親から伝えられた大切なものを次世代へ繋げていく貴重な書物のようなものなのかもしれない。その姿は、レイ・ブラッドベリが書いたSF小説「華氏451」に出てくる"書物人間"に似ている。彼らは書物を読むことが禁じられた未来世界において、書物の内容を丸暗記して、口頭で書物の内容を次世代へ伝えていく。子供とは先人が残した叡知の遺産なのだ。

そのように考えると、遺言とは故人が死後のために遺す民法上の文章だけを指すのではなく、森羅万象、世にあるすべての形あるものは、先人たちが生きている人たちに残した遺言であると言える。

※大学の図書館。