高橋いさをの徒然草 -7ページ目

「好男子の行方」前売り情報

ISAWO BOOKSTORE「好男子の行方」の前売り券受付中。ご予約は以下のURLより承ります。

"オメガ東京”オープニング・フェスティバル参加作品
 
ISAWO BOOKSTORE vol.1
 
『好男子の行方』
 
作・演出:高橋いさを
  
【日時】
2018年12月12日(水)~18日(火)
 
【タイム・テーブル】
12月12日(水) 19時
12月13日(木) 19時
12月14日(金) 19時
12月15日(土) 13時/18時
12月16日(日) 13時/18時
12月17日(月) 19時
12月18日(火) 19時
※開場は開演の30分前。 
 
【会場】
荻窪・オメガ東京 
TEL: 03-6913-9072
〒167-0043 杉並区上荻2-4-12
※JR荻窪駅西口出口より徒歩7分。

【料金】 
¥4000 (前売・当日共・全自由席) 
 
【出演】
飛野悟志/五十嵐明 /東正実 /春見しんや/磯崎義知/ 小中文太 /桧山征翔 
 
【公式HP】

【前売開始】
2018年10月11日(木)
 
【ご予約】
以下のURLよりチケットを承ります。

【お問合せ】
(有)ファイナルバロック
TEL: 03-6913-9072

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 いさをの本屋

    新しく「ISAWO BOOKSTORE」を旗揚げします。これは、特定のメンバーによる集団ではなく、わたしが中心となってわたしが書いたオリジナル戯曲を上演することを主な目的として活動するグループです。劇団という枠組みを離れて、毎回、違うメンバーを集めて公演を行います。大好きな本屋のように、いろんな物語を提供できればいいなあと思い、「BOOKSTORE」と命名しました。
    劇団には劇団のよさがありますが、こういう形での演劇活動も、より多彩な内容の芝居を上演するにはメリットがあると考えます。このグループを通して、旧作も含め、より豊かで多彩な公演活動ができればいいなあと思っています。
    第一弾は飛野悟志さんとガッチリ組んで「好男子の行方」という三億円事件を題材にした芝居を上演します。新しくオープンする「オメガ東京」で、本作がオープニングを飾ることになりました。たくさんのお客様のご来場を心よりお待ち申し上げます 。  


※公演チラシ。

タイトル・フォント

先日のブログで、中学時代のわたしは授業そっちのけで、教科書の余白に映画のタイトル・フォントをいたずらがきしていたという話を書いたが、実は今でも暇な時間があると、映画のタイトル・フォントを何かの紙に書いていることがしばしばある。昔の癖は簡単には治らないということだと思う。わたしが時々にいたずらがきをする映画のタイトルは以下のようなものである。

●「サブウェイ・パニック」
地下鉄の乗っ取りを描く犯罪サスペンス映画。「ぺラム発123号車の乗っ取り」という原題をこのように邦訳したわけだが、赤文字で構成された「パニック」という文字の先端がハネている。このハネているデザインが、「大変なことが起こったぞ!」という雰囲気をよく醸し出している。

※同作。(「映画.com」より)

●「タワーリング・インフェルノ」
超高層ビルの火災を描くパニック映画。太い特徴的な黄色い文字。「インフェルノ」という文字の下半分がオレンジ色に染まっているデザイン。つまり、火が階下から階上へ燃え広がっている様を文字のデザインが表現している。

※同作。(「Y!映画」より)

●「ターミネーター」
未来から現代にやって来た殺し屋を主人公にしたSF映画。オリジナルのタイトル・デザインは、邦題のデザインに比べると、ちょっと丸みを帯びているのだが、邦題の鋼鉄を思わせる色合いのカクカクした字体が「絶対に逃がしはしない!」というターミネーターの断固とした意志を表現しているように思う。

※同作。(「Amazon.com」より)

つまり、これらのタイトル・フォントは映画の内容を視覚的に表現しようとよく工夫されいる。もしも、わたしが現在の仕事をしていなかったら、たぶん、そういうフォントをデザインする仕事をしていたように思う。わたしのあり得たかもしれないもう一つの人生。

真っ当な家族愛~「まっ白の闇」

吉祥寺のココマルシアターで「まっ白の闇」(2018年)を見る。俳優の内谷正文さんが監督した薬物依存の弟をめぐる家族の再生物語。本作は内谷さんが演じ続ける一人芝居の内容を劇映画として再構成したものと聞く。内谷さんは8月にわたしが演出として関わった「売春捜査官」でご一緒した俳優さんである。

恋人の裏切りをきっかけに覚醒剤に手を出し、薬物依存から抜け出せなくなった若者。彼の兄を初めとする家族たちは、弟を何とか薬物依存から救うべく同じような問題を抱える人たちによる家族会へ参加する。そして、弟は茨城にある更正施設への入所を経て再生のきっかけを掴んでいく。

内谷さんご自身が体験した実話を元に作られた映画であると聞くが、実話ならではのリアリティーに満ちたストーリーである。幸いわたしの人生には、薬物依存というようなエピソードはまったくなかったので、新しい世界を見せてもらった気分になる。先日、福岡で起こった看護婦たちの保険金殺人を扱った「黒い看護婦」(新潮文庫)を取り上げた際に、そのタイトルの秀逸さに言及したが、本作「まっ白の闇」というタイトルは、その反対バージョンと言うか、覚醒剤の恐怖を的確に表現しているよいタイトルだと思う。

実話ならではのリアリティーと書いたが、主人公の青年が幻覚で見る"破壊の少女"(?)を登場させ、弟と対話させるという演劇的な手法が面白い。薬物依存に陥った弟をめぐる家族の再生物語ではあると思うが、薬物依存を別の問題に置き換えたとしても、成り立つ物語であるという意味では、普遍的な家族愛を描く映画であると思う。つまり、本作は非常に真っ当な内容を持っているということである。

強いて言えば、その真っ当さがひねくれもののわたしにはちょっと物足りなくも感じなくはない。もしも薬物中毒の弟がその力を借りて誰かを殺害してしまったら、家族の絶望はもっと深く、悲惨なものになるのだから・・・。いや、そんな大仰な設定は、本作の慎ましやかな魅力を損なうのかもしれない。いずれにせよ、商業映画ではなかなか描きにくいこういう題材を扱って、更正の希望を描き、広く観客にアピールすることは社会的な意義があると思う。朝からの上映なのに劇場は満席である。

※同作。(「映画.com」より)

1968年

稽古中の「好男子の行方」は、1968年(昭和43年)が舞台の芝居である。「稽古場より①」にも書いたが、この年に公開された洋画は「俺たちに明日はない」「2001年宇宙の旅」「猿の惑星」「卒業」などである。つまり、アメリカン・ニューシネマの胎動期。これらはみな有名な映画だが、それ以外の1968年の公開映画について書く。

●「暗くなるまで待って」
フレデリック・ノットの舞台劇をテレンス・ヤング監督が映画化。オードリー・ヘップバーンが盲目の人妻を演じるスリラー映画。真っ暗闇の中で行われるクライマックスが印象的。

●「華麗なる賭け」
スティーブ・マックイーンとフェイ・ダナウェイ共演によるロマンチックなサスペンス映画。ノーマン・ジュイソン監督がマルチスクリーンを駆使してスタイリッシュな職人技を見せる。

●「さらば友よ」
アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソン共演の犯罪アクション映画。ドロンがブロンソンにマッチで煙草の火をつけてやるラストシーンが有名。この頃、フランス映画はアメリカ映画と同じくらい力を持っていた。

●「ブリット」
スティーブ・マックイーン主演の刑事アクション映画。ピーター・イエーツ監督がサンフランシスコを舞台に迫力あるカーチェイス場面を作り上げた。共演のジャクリーン・ビセットが可愛い。

もちろん、わたしがこれらの映画を見たのはこれよりずっと後だが、これらの作品群は1968年の空気を少しだけ伝えてくれる。三億円強奪事件の犯人も、金を奪われた銀行の人たちも、犯人を追う警察も、事件の鮮やかさに驚いた一般の人たちも、それぞれにヘップバーンの魅力にうっとりし、マックイーンの格好よさにしびれ、ブロンソンの渋さに唸り、ドロンの美貌に感心していたのかもしれない。この時代、日本は右肩上がりに高度経済成長を遂げ、経済的な豊かさを獲得していく。わたしと言えば、事件のことなどまったく眼中になく、ハットを被ってピンキーとキラーズの「恋の季節」の歌真似をすることが得意な無邪気な少年だった。

※「恋の季節」のレコード・ジャケット。(「蓼喰う虫もスキヤキ」より)

中野駅

その人が「都会の人」かどうかを見極める尺度の一つに「地下鉄をきちんと乗りこなせるかどうか」というのがあると思う。都心の地下を蜘蛛の巣のように走る地下鉄の路線を縦横無尽に乗り継いで、目的の場所に最短距離で辿り着ける人は、やはり「都会の人」と言っていいのではないか。かく言うわたしは、必ずしも地下鉄に強い方ではない。

わたしは西東京方面に住んでいるので、日頃、そんなに頻繁に地下鉄に乗っているわけではない。だいたいがJR線に乗ることで事足りるからである。しかし、わたしが使う駅の中で最もややこしいのは、中野駅だと思う。中野駅には都合三本の路線が集中している。JR中央線と総武線と地下鉄東西線である。この三つの路線が別々の乗り場ではなく、すべて同一のホームから発車しているのが中野駅の特徴であると思う。普通、違う路線は、乗り場が別々になっているのが普通だと思うが、中野駅はそうなっていないのである。

今でこそ、その三つの路線を器用に乗り分けることができるようになったが、高校生の頃、中野駅はわたしにとってはある種の"鬼門"だった。落合に行きたいのに総武線に乗って東中野へ行ってしまったり、信濃町へ行きたいのにJR中央線に乗って四谷へ行ってしまったり、東中野へ行きたいのに地下鉄東西線に乗って落合へ行ってしまったり、散々な目にあったからである。なぜこのようにややこしいかと言うと、乗り場がみな同じだからである。高校生の目には、JR中央線も、総武線も、地下鉄東西線もみんな「同じ電車」にしか見えなかったのである。

地方へ行く時以外、ほとんど使うことがないが、日本で一番ややこしい駅は東京駅と上野駅ではないかと思う。これらの駅に乗り入れている路線は三つどころの数ではないはずだからである。若い頃に熱心に読んだ社会学者の加藤秀俊さんの本に「都市とは交通のことである」という一節がありよく覚えているのだが、しかり。都会とは乗り物の交通が激しい場所のことである。同時に人間も。

※中野駅の三種類の電車。(「鉄道新聞」より)

愚かな死

オーストラリアの男性が、ナメクジを食べたことをきっかけに死亡したという記事をネットで目にした。日本では、正月に餅を食べて、それを喉に詰まらせて亡くなる人がいるが、それに輪をかけて滑稽で悲惨な死である。それが何かの目的を達成するために「真面目に」試みられたものではなく、何の目的も持たない遊びとして「ふざけて」行われたらしい点が事態の悲惨さを際立たせている。

ところで、ネットの世界には「ダーウィン賞」というものがあるらしい。これは、進化論者のチャールズ・ダーウィンの名前にちなんで、愚かな行為によって命を落とす人に与えられる皮肉な賞だとのこと。ナメクジを食べて死亡した件の男性は、まさにその賞に値する死に方をしたように思う。それがどんな行為であっても、「ふざけて」やった結果、本人や他人が死亡する事故は、何ともやるせない。このブログにも書いたことがあるが、かつて、新婚の妻が夫を驚かせようとして海岸に巨大な落とし穴を掘り、夫とともにそこに転落して生き埋めになって死んだ事故があったが、それを知った時と同じような複雑な気持ちになる。"ユーチューバー"と呼ばれる人たちが何者なのか、わたしは最近ようやく理解したが、高層ビルの屋上の縁に掴まっている姿を撮影中に誤って転落するとか、そういう不慮の事故を垣間見た時の気持ちによく似ている。

アメリカ映画「ファイナル・デスティネーション」シリーズは、言わば「ダーウィン賞」の集大成的な発想で作られた「人間の最悪の死」をめぐるホラー映画だと思うが、その映画に登場する人々がほとんど偶発的な不運の連続で死に至るのと違い、ナメクジ男性は自ら進んで死に至っている。彼は「ふざけて」いたのである。この自主的な死がいかんともしがたい愚かさを醸し出している。少なくとも「ファイナル・デスティネーション」シリーズで命を落とす人々が愚かには見えないのは、彼らが「ふざけて」はいないからである。もっとも、愚かな死は存在するが、賢明な死というものは存在しないように思うけれど。

※チャールズ・ダーウィン。(「Wikipedia」より)

女の犯罪~「黒い看護婦」

前に一度読んだ「黒い看護婦~福岡四人組保険金連続殺人」(森功著/新潮文庫)を再読する。副題にある通り、2002年に福岡県で起こった看護婦の四人組による保険金殺人を描くノンフィクション。犯人はみな四十代の女。主犯のYは死刑判決を受け、すでに死刑が執行された。共犯のTは無期懲役、Iは懲役15年、もう一人は判決が出る前に病死した。女性の死刑囚は珍しい。

事件の内容は、看護婦という仕事の知識を利用して、眠らせた夫に空気を注射したり酒を飲ませて殺害するという陰惨なものだが、いろいろと感心することが多い事件である。まず本書のタイトルが示しているように、白衣の看護婦たちによる犯罪である点が興味深い。白衣の天使によるドス黒い犯罪。そのコントラストが効いたタイトルの鮮やかさは、ウィリアム・アイリッシュの小説「黒衣の花嫁」に匹敵する。あるいは、アウシュヴィッツの収容所で残虐な生体実験を繰り返し、「死の天使」と呼ばれたナチス・ドイツの医者ヨーゼフ・メンゲレ博士の趣がある。

また、看護婦グループの薬物注射による犯罪という点も理に敵っていると感じる。彼女たちは薬物投与や生命維持の専門家であるからである。その様は、表の顔は奉行所の同心だが裏は必殺仕事人、表の顔はホームセンターの従業員だが裏は悪を懲らしめるイコライザー、表の顔は映画のカースタント・マンだが裏は銀行強盗のゲッタウェイ・ドライバーという趣がある。医療行為も、道を誤ればこのような凶悪犯罪に悪用する場合があるわけだ。

再読して、改めて感心したのは、主犯のYが他の三人の看護婦たちを自分の味方にして、彼女たちを含めて周囲の人間を騙して金品を奪う手口の巧妙さである。Yは、「先生」と呼ぶ架空の黒幕を設定し、その「先生」の命令で人々を操っていくのである。また、逮捕され、拘置所に収監された後も、配膳係の女を手なずけて、他の房にいる共犯者たちに手紙を送りつけ、口裏を合わせようと試みる件は、そのバイタリティーに感心さえする。金銭欲に踊らされ、極刑を下された愚かな女の顛末が活写された一冊である。

※黒い看護婦。(「ナースパワー」より)

稽古場より①

ISAWO BOOKSTORE「好男子の行方」の稽古が始まって数日。本作は1968年に起こった「三億円強奪事件」を題材にした芝居である。と言っても、現金を強奪した犯人側ではなく、金を奪われた銀行側の人々を主人公にしたドラマ。タイトルになっている「好男子」とは、白バイ警官に偽装した犯人を目撃した銀行員たちが、犯人の風貌に関してそのように証言したことに基づいている。今風に言うなら「イケメン」ということである。

1968年当時、わたしは7歳の子供だったから事件のことはまったく覚えていない。この年に何が起こったかを調べてみると、マラソン・ランナーの円谷幸吉が自殺したり、永山則夫による連続射殺事件が起こったりしている。若い人にはまったく馴染みがない人たちだろうが、わたしはちょっとだけ馴染みがある。わたしは自作の中で円谷幸吉さんの印象的な遺書を引用したことがあるし、永山則夫は、裁判における死刑基準を示す「永山基準」を導くことになった殺人犯である。この年に公開された洋画は「俺たちに明日はない」「2001年宇宙の旅」「猿の惑星」「卒業」など。

稽古はオメガ東京で行っている。そう、わたしたちは公演場所で稽古をしているのだ。公演する劇場で稽古することは今までにない初めての経験である。こういう恵まれた稽古の環境が舞台成果に大きく表れるはずだとわたしは思う。通常の場合、公演場所である劇場に小屋入りするのは、初日の一、二日前だが、そういう時間的制約ゆえに俳優の身体が"空間に馴染む"までに時間を要する。その空間にわたしたちは本番の一ヶ月も前から身を置いているのである。"我が家"がそうであるように、その空間を支配するのは、その空間にどれだけ長く身を置いて時間を過ごしたかである。住み慣れた"そこ"では、暗闇の中でさえつまずかずに移動することが可能なのである。わたしたちが置かれた環境を特権的状態と言わず何と言おう。

※稽古場にて。

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【公式HP】

「好男子の行方」のチケットは発売中。以下のURLより予約を承ります。

ご来場を心よりお待ち申し上げます。

「大地震」の思い出

パニック映画「大地震」(1974年)を見たのは、たぶん1975年だと思う。なぜ公開の年ではないかと言うと、名画座で見たからである。併映はロジャー・ムーア主演の「ゴールド」(1974年)だったと思う。洋画をテレビではなく劇場へ足を運んで見るようになった頃。以下は、当時のチラシである。

※「大地震」のチラシ。(「映画.com」より)

この映画にはちょっと思い出がある。前にも一度書いたことがあるが、"センサラウンド方式"と呼ばれる特殊な音響効果による上映で、「劇場が揺れる!」という触れ込みだった。まあ、"揺れ"はしなかったが、やたらにでかい音で観客席にいるわたしの身体が震えるような感覚があったことを覚えている。楽しいギミック感覚溢れた上映スタイル。

「あなたは震動する迫真の驚異!!」

キャッチ・コピーが謳っているのはそのことである。それにしても、日本語としてちょっとヘンなキャッチ・コピーである。「あなたは震動する!   迫真の驚異!」ならまだいいが、「あなたは震動する迫真の驚異!!」と一気にまくしたてられると「ちょっと待て!」と突っ込みたくなる。

しかし、本作に関する思い出はもう一つある。それは、このチラシのデザインをわたしはひどく気に入り、タイトル・フォント(字体)をよく真似て描いていたからである。「大」「地」「震」という大きな文字が立体的なコンクリートのように描かれて、そこにヒビが入っている。地震による町の損傷を字体で表現しているわけである。本作の原題は「EARTHQUAKE」というものだが、アメリカ版のオリジナルのタイトルも、そのようにヒビ割れていたから、日本人のデザイナーは、それを模してこのような字体を使ったにちがいない。なかなか工夫があるデザインではないか!   今、この映画を見直すと、ドラマとしては今一つの感があるのだが、当時、中学生のわたしは映画の迫力に満足して、中学校の教科書の余白に「大」「地」「震」といたずらがきをしてほくそ笑んでいたりしたのだ。懐かしい「大地震」の思い出。

警察の威信

警察には「威信」というヤツがあるらしい。らしいと書くのは、それは目に見えるものではないからである。そういう意味では、この言葉は「信頼」という言葉によく似ている。威信も信頼も、直接的に目に見えるものではないからである。わたしがこの言葉を知ったのは、警察幹部による以下のような台詞を耳にしたことがあるからである。

「警察の威信にかけて、必ずや犯人を逮捕してみせます!」

例えば、2000年の年末に発生した「世田谷一家殺害事件」の犯人は未だに検挙に至っていない。一家を惨殺した犯人が野放し状態になっているということは、市民の不安や恐怖を募らせる。そんな気持ちが高じると、世論は「警察はいったい何をやっとるんだ!」という方向に傾く。そういう局面において、警察幹部は上記のような台詞を使って人々の怒りを宥めるように努力する。犯人を逮捕できないということは、警察の威信を著しく損なうゆえである。つまり、威信とは「やっぱり警察は頼りになるよなあ」「いくら巧妙にやっても、犯罪を犯すとやっぱり捕まるんだなあ」と一般市民が思うことによって成り立っている警察と我々の信頼関係のことである。

しかし、逆にこの言葉があるゆえに警察は苦境に追い込まれる場合がある。威信を謳っている以上、何が何でも犯人を捕まえなければならないからである。必死の捜査にもかかわらず犯人が捕まらなかった場合、極端には、警察は犯人を捏造してでも威信を保とうとするにちがいない。そういう力学の上で冤罪が生まれる。本末転倒である。警察は威信を守るために捜査活動をする組織ではなく、本来、犯罪を摘発するために捜査活動をする組織であるはずである。

威信という言葉は両義的な言葉である。それは社会秩序を保つために絶対に必要なものだが、使い方を誤ると、上記のような本末転倒に陥る可能性を秘めている。いや、これは必ずしも警察組織だけの問題ではなく、会社組織というものが必然的に持たざるを得ない宿痾(しゅくあ)のようなものか。世を賑わす企業の不祥事は、だいたい威信をめぐる本末転倒が原因になっていることが多いと思う。

※警察庁。(「Wikipedia」より)