警察の威信 | 高橋いさをの徒然草

警察の威信

警察には「威信」というヤツがあるらしい。らしいと書くのは、それは目に見えるものではないからである。そういう意味では、この言葉は「信頼」という言葉によく似ている。威信も信頼も、直接的に目に見えるものではないからである。わたしがこの言葉を知ったのは、警察幹部による以下のような台詞を耳にしたことがあるからである。

「警察の威信にかけて、必ずや犯人を逮捕してみせます!」

例えば、2000年の年末に発生した「世田谷一家殺害事件」の犯人は未だに検挙に至っていない。一家を惨殺した犯人が野放し状態になっているということは、市民の不安や恐怖を募らせる。そんな気持ちが高じると、世論は「警察はいったい何をやっとるんだ!」という方向に傾く。そういう局面において、警察幹部は上記のような台詞を使って人々の怒りを宥めるように努力する。犯人を逮捕できないということは、警察の威信を著しく損なうゆえである。つまり、威信とは「やっぱり警察は頼りになるよなあ」「いくら巧妙にやっても、犯罪を犯すとやっぱり捕まるんだなあ」と一般市民が思うことによって成り立っている警察と我々の信頼関係のことである。

しかし、逆にこの言葉があるゆえに警察は苦境に追い込まれる場合がある。威信を謳っている以上、何が何でも犯人を捕まえなければならないからである。必死の捜査にもかかわらず犯人が捕まらなかった場合、極端には、警察は犯人を捏造してでも威信を保とうとするにちがいない。そういう力学の上で冤罪が生まれる。本末転倒である。警察は威信を守るために捜査活動をする組織ではなく、本来、犯罪を摘発するために捜査活動をする組織であるはずである。

威信という言葉は両義的な言葉である。それは社会秩序を保つために絶対に必要なものだが、使い方を誤ると、上記のような本末転倒に陥る可能性を秘めている。いや、これは必ずしも警察組織だけの問題ではなく、会社組織というものが必然的に持たざるを得ない宿痾(しゅくあ)のようなものか。世を賑わす企業の不祥事は、だいたい威信をめぐる本末転倒が原因になっていることが多いと思う。

※警察庁。(「Wikipedia」より)