愚か者たち | 高橋いさをの徒然草

愚か者たち

ここのところわたしは犯罪系のノンフィクションばかり読んでいる。最近も「『毒婦』和歌山カレー事件20年目の真実」(田中ひかる著/ビジネス社)と「昭和・平成日本の凶悪犯罪100」(別冊宝島編集部編/宝島社)を読んだ。このブログにもそういう犯罪ノンフィクションの本の感想を書いている。若い頃は、現実の犯罪事件などにはまったく関心が向かなかった。例えば、豊田商事の永野会長がマスコミの記者たちの目の前で暴漢に襲われて刺殺されたのは1985年だが、その時、わたしの関心は、豊田商事の「と」の字にもいっていなかった。なのになぜ、今のわたしは現実の犯罪事件にこんなにも惹きつけられているのか?

それは、たぶん中年のわたしの関心が、人間の「聡明さ」より「愚かさ」に傾いているからだと思う。人間というものが「いかにすばらしいか」ではなく、「いかに愚かか」という点に興味がいっているのである。例えば、先日読んだ「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」(リチャード・ロイド・パリー著)で描かれる犯人Oを倫理的に非難するのは易しい。(わたしはOを「最低」と評したが)しかし、その行為の愚かさにおいて、わたしはOに強い関心を持つ。どういう環境と精神構造があると、あのような卑劣な犯罪が遂行できるのか、と。そのように考えると、世を騒がせた凶悪な犯罪者たちは、みな一様に興味深い愚か者たちであると言える。愚か者の見本市としての犯罪者たち。

世に名を残した立派な偉人たちの人生もそれなりに面白いとは思うが、やはり、その反対側にいる愚か者たちの人生への興味は尽きない。そこにはたくさんの「なぜ?」が存在するからである。なぜ彼(彼女)は、普通の人間なら思い止まるそのような馬鹿げたことをしでかしたのか?    少なくともわたしは、他人の幸福より不幸の方が、他人の喜びより哀しみの方が探究しがいがあるように思う。

※犯罪ノンフィクションを読む。