とおりゃんせ | 高橋いさをの徒然草

とおりゃんせ

都会の横断歩道で、信号が青になると電子音で奏でられる馴染みのメロディが耳に入る。場所によって違うが、そのメロディは童歌(わらべうた)の「とおりゃんせ」であることが多い。

通りゃんせ  通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ 
天神様の細道じゃ
ちっと通してくだしゃんせ
ご用のないもの  通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めに参ります
行きはよいよい  帰りは怖い
怖いながらも  通りゃんせ  通りゃんせ

普段は当たり前のメロディとして聞き流しているが、よくよく考えると、この童歌は横断歩道を渡る際の音楽としては適さないのではないかと思う。もちろん、横断歩道で流れるメロディに歌詞はないけれど、歌詞にすると「行きはよいよい  帰りは怖い」となる部分は、取りようによれば「行きは何事もなく渡れるが、帰りは交通事故にあうかもよ」という風にも聞こえるからである。これは何とも不吉な歌詞ではないか!

歩行者が横断歩道を渡る際に「この童歌をかけてみよう!」と判断したのはいったい誰だろう?   国土交通省のトップ?   いや、場所によってメロディは違うからその地区の行政のお偉いさんである可能性が高い。であるなら、選曲をもう少し考えてもらってもよいのではないか。少なくともこの童歌のように不吉な雰囲気が漂わないもので、歩行者が溌剌と横断歩道を渡れるような行進曲のような曲がよい。

わたしは横断歩道でこのメロディを聞くと思い出す映画がある。長谷川和彦監督の「太陽を盗んだ男」(1979年)である。あの映画のラストシーンは、自らの手で原爆を作り上げた主人公の中学理科教師・木戸誠(沢田研二)が、今にも爆発しそうな原爆の入ったバッグを片手に都会の町を彷徨する場面である。木戸が人に溢れた夕刻の横断歩道を渡る際に「とおりゃんせ」のメロディが聞こえる。この映画におけるこのメロディは効果的で、原爆とともに破滅する主人公と都会の町の終焉をブラック・ユーモアたっぷりに見事に表現していた。まさに「行きはよいよい  帰りは怖い」である。

※横断歩道。(「SPITOPI」より)