ポスト・イット・パラドクス
最近、「ポストイットのパラドクス」という言葉があります。
<ポスト・イット>といえば、世界的優良企業スリーエムが生み出した大ヒット商品。
スリーエムといえば、100年以上にわたって次から次へと画期的な製品を生み出してきた会社。
<ポスト・イット>も「15%ルール」(技術者は総就業時間の15%を自由な研究に費やしてよいというルール)や「密造酒ルール」(上司が認めない研究や実験でも堂々と会社の資源を使ってよいというルール)などスリーエム特有の革新を生み出す”仕組み”から生み出されました。
<ポスト・イット>の発明はある技術者による「失敗」が発端だったそうです。
強力な接着剤を作るはずが、”よくくっつくけど、すぐにはがれる”という変わった特性の失敗に出会います。
で、その発見を同僚たちに伝えた。
すると、数年後、その同僚の一人が、聖書から滑り落ちるしおりを見て<ポスト・イット>のアイデアがひらめいたそうです。
つまり、自由な研究活動が許されるから生み出された製品だという単純な話ではなく、それぞれの研究ネタを互いに共有することで、「知の活用」を広げて、チームとして画期的製品を生み出したという話でもあるわけです。
(ここまでは、有名な話なので、知っている方も多いと思います。)
しかし、まさか、<ポスト・イット>を生み出した技術者たちが、その後、世紀をまたがって「ポスト・イット・パラドクス」という新たな社会問題を生み出すとは想像しなかったはずです。
現代のビジネスパースンであれば、ほぼあらゆる人々が日常的に<ポスト・イット>を活用していて、本当に欠かせないツールになっています。
ところが、この便利な<ポスト・イット>が現代のホワイトカラーたちの生産性を押し下げる大きな要因になっているというのです。
<ポスト・イット>をいわゆる付箋紙として利用する場合に、それが多用されすぎてかえって何が重要かわからなくなるという現象がホワイトカラーの悩みの種になっています。
一部の調査では、<ポスト・イット>を使うことによって…
「目印のつもりでつけたにもかかわらず結局見つからなかった」
「付箋を付けすぎて”付けていない”ほうが見つけやすくなってしまった」
「PCモニターの周辺に付箋を付けすぎて画面がよく見えなくなった」
など事務上の混乱を経験している人は90%に及んでいます。
つまり、<ポスト・イット>の利便性に惑わされ、使いまくってしまって、かえって混乱してしまうという現象がポスト・イット・パラドクスです。
最近は<ポスト・イット>のバリエーションが充実することによって、より重大な事務の停滞を招くこともあるようです。
具体的には「注意したほうがいいもの」には”緑”、「ちょっと重要なもの」には”青”、「重要なもの」には”黄色”、「超重要なもの」には”赤”、「劇的に重要なもの」には”ピンク”、「滅多にはないがあったら大変なもの」には”紫”…といった具合に属性ごとに貼り付ける付箋を分類して活用しているうちに何が何だかわからなくなって気分が悪くなるという出来事が代表例です。
また、”紫”と”ピンク”、”オレンジ”と”赤”の区別がわかりずらいという理不尽な理由で、上司からこっぴどく叱責されるという事態も起きています。
こうしたポスト・イット・パラドクスを解消すべく、付箋紙の利用を制限する会社が出現しています。
ごくシンプルに1種類の付箋紙だけの利用を認め、蛍光色の付箋、矢印型になっている付箋、フイルムタイプの付箋などついつい使いたくなる”進化した付箋”たちを排除しようという動きです。
一方、そうした動きに敏感に反応したOLたちが組織する『ポスト・イット開放同盟』では「ポスト・イットの利用が悪いのではなく、一部の使い方を知らないユーザーによる濫用が原因」だと主張。
「ポスト・イットの利用を規制しておいて、蛍光ペンは何色を使ってもいいというのは不条理だ」などとして真正面からの対抗姿勢を見せています。
ということで、盛り上がりを見せる「ポスト・イット・パラドクス」ですが、最近は、その意味が転じて、戦略上の選択肢が多すぎてどの選択肢を選んでよいかわからないマネジメントの状態を「ポスト・イット貼り過ぎ状態」と呼ぶそうです。
(途中から全部作り話ですので、注意してください。)
昔のエピソード
先日、昔の職場の諸先輩と久方ぶりにお会いしました。
その節、昔のエピソードを聞かされてびっくりした次第です。
私の昔の職場はリクルートコスモス(現・コスモスイニシア)で、1年半だけお世話になったのですが、
考えれば、本当にお世話になりまくったと思います。
もう時効(?)ということで許していただけると信じますが、まずもって、インテリジェンスという会社を立ち上げるための準備時は、随分と会社の会議室を使わせてもらったりしました。
(許されないことだと反省しています。絶対に真似すべきではありません。)
言うまでもなく、これは服務規律違反ですが、若気の至りで、図々しくも散々会議室を使わせてもらいました。
最低限のモラルとして、平日の勤務時間ではなくて、土日でしたが(だからといって、全く正当化できませんが…)
ところが、当時のリクルートグループさんは大変に鷹揚で、若い社員が明らかに怪しい会議を土日に開いていても、見逃してくれる心の広さがありました。(やはり、リクルートさんというのはすごい会社ですね。)
で、先日、前職の諸先輩方とお会いした節、私はすっかり忘れてしまっている出来事を知らされました。
何と、あろうことか、インテリジェンスをスタートして間もない頃、前職に電話して「コピー用紙を1箱送ってほしい」などと無心していたようなのです。
(そして、現に、コピー用紙を仕送りしてもらっていた…なんと懐の広いお沙汰でしょうか…)
もう18年も前のこととはいえ、そんな図々しいことを頼んでいたとは…
そして何より、そのことを全く覚えていないという有様に、ただただあきれるわけです。
そもそも忘れっぽい性分ではあるものの、他人の世話になっておいて、それを忘れるというのはどういう了見でしょうか…
考えれば、色々な方々にお世話になりまくっていて、お世話になることへの感覚麻痺が起きていたのだろうと思われます。
今更ながら、身の縮む思いであります。
更新頻度…
本日、ふっと間もなく経営統合してから(インテリジェンスという会社は昨年の7月に学生援護会という会社と経営統合しました)1年だなぁ…と考えまして、このフロクの1年前にはどんなことをしていたのやらと振り返ってみました。
すると、去年の6月は平日毎日更新していた!
すごいことです。
つまり、使命感というのはすごい。
当時、経営統合前で、一緒になるであろう社員に少しでもコミュニケーションの糸口になればという思いで、フロクを更新しておりました。
それを改めて思い出し、できる限り更新頻度を上げねばと考えた次第です。
それにしても、ブログというのは、過去を振り返るのに便利ですね。
副次的効果であると思いました。
死語と化した「学歴主義」
最近、
学歴主義なる表現をめっきりと聞かなくなりました。
私だけでしょうか…
これまで人事・組織に関連した仕事をしてきまして、「学歴」には何かと縁があり、話題にすることも多かったわけですが、最近、ずいぶん減ったように思います。
というのは、ある本を読んでいまして、その中で「学歴主義」なる表現がやたらと出てくる。
それが、かえって珍しく、最近「学歴主義」という言葉自体、めったに使っていないなぁと、改めて気付きました。
学歴に基づいて人を選抜するという行為を学歴主義と呼ぶとすれば、学歴主義は今でも存在しています。
しかしながら、その程度は間違いなく弱まっている。
要因としては、「労働市場の流動化」が大きいといえるでしょう。
雇用主の視点で考えると、雇おうと思う人材についてはできる限り多角的に検討したいと思うのは当然です。
で、終身雇用を前提として、もっぱら採用する人が新卒者で、一生面倒を見ようと思って、できるだけ多角的に検討したいわけですが、ところが、何せ新卒者なので情報がすごく少ない。
そもそも新卒なんだから、バックグラウンドもヘッタクレもないわけで、結局「学歴」という手がかりが相対的に重要な意味を持ったわけです。
ところが、人材の流動化が激しくなり、経験者の採用が増えていく中で、「学歴」よりもはるかに確かな手掛かりが見出されました。
それが、仕事上の経験・実績であり、いわゆるキャリアというやつです。
実際の仕事で得た経験・実績は”学歴うんねん”などを凌駕した大変なパワーを持っています。
その結果、学歴を根拠にした人物評価は過去に比較すると弱まってきています。
また、人材流動化による学歴偏重主義の是正効果は、他にも事例があります。
過去、大手企業のいわゆる一般職採用が短大卒新卒者中心であった頃、それぞれの企業では「指定校制度」が取り入れられているケースが多くありました。
「指定校制度」というのは、公式な制度というよりは、慣行的に特定の学校から人材を採用する仕組みのこと。
この指定校による一般職の採用(つまり学歴による選別)は、人材の流動的な活用(人材派遣など)が進むことによって、無くなっていきました。
最近、世間では人材派遣のネガティブな側面だけが強調されて伝わっているようですが、人材派遣という仕組みが世の中に浸透することで、学歴主義が相当に壊れ、個人にとって幅広く可能性が広がったことは間違いありません。
バブル以前であれば、仕事をすることが出来なかった職場で仕事をすることができるようになり、その職場での経験というキャリアアセットを獲得できる仕組みが出来上がってきています。
人材派遣という流動化時代の仕組みには多くのメリットもあるのです。
反対側から見ると景色が変わる。
ヘタなゴルフをしていて、ふっと思うことですが、同じ景色でも反対側から見るとまるで違うものが見えたりします。
なぜゴルフかといえば、「パッティングのときに180度反対側から見るとラインがよくわかる」といった格好いい話ではありません。
ゴルフ場の設計において、1番ホールと9番ホールが隣り合っているということはよくあるわけで、そうした場合、1番ホールでボールを曲げてしまうと、9番ホールのフェアウェー上からショットするということがあります。
そんなことで、1番ホールでボールを曲げて、9番ホールに入れてしまう…するとさしづめ、事前視察のような按配になるわけで。
ところが、その事前視察したはずの9番ホールを逆から歩いていくと(1番と9番が隣り合っている場合、プレーする方向は180度逆になります)、約2時間前に見た景色と同じとは思えないわけです。
ビジネスにおいて、営業することと営業されること、サービス”提供する”こととサービス”提供される”こと、これらはいずれも対面して違う景色を見ている状態です。
営業しているばかりだとわからなかったことが、営業されてみてよくわかるということがあります。
株主総会に関する件でサービス提供を受けていて、改めて気付いたことがあります。
詳述は避けますが、そのサービス提供者はインテリジェンスが過去に3回上場企業として株主総会を実施したと思い込んでいました。
理由は、私が「過去1年で、3回目の株主総会を行う」という話をしたため、通常の会社で1年間に3回も株主総会はやりませんから、彼は「トータルで3回目」と聞き違ったようです。
実際には、2000年に上場している会社ですから、臨時株主総会を含めれば、10回くらい株主総会を開いているわけで、もし彼がインテリジェンスの上場した年を知っていたら、3回目という勘違いは起きないはず。
要は、当社のことをそんなに知らない状態でサービス提供してくれていたわけです。
これは、決して嫌味ではなくて、当社のことをそこまで知ってくれている必要はないと思います。
実際、当社をあまり知らないからといってサービスの質が著しく低下することもありませんでした。
しかし、一方、大変に勉強になるのは、サービス提供を受ける立場になると「自分のことはわかってもらっている」という前提に立ちたくなるということ。
これは、サービスを提供する側からだけ見ているとあまり実感できません。
なぜなら、顧客の属性、特殊な事情、あるいは背景といったものなど知らなくても提供できるサービスはたくさんありますし、そうした顧客の事情など関係ないという立場も取れるからです。
そんなことで、時には、反対側から景色を見ないといけないなぁ…と思う次第です。
プラットフォーム・カンパニーとか…
早いもので、もう10年ほど前になるでしょうか…
ニューエコノミーという言葉が、とてつもなく輝かしい未来を感じさせつつ、登場しました。
これまでにない構造変化によって逓減しない収益モデルが生まれるとか、これまでの常識が根本から覆るというような話がありました。
確かに、それに近い現象は起きましたが、当時期待された”革命的な変化”までには至らず、結果としてこれまでの経験通り「あれはバブルだった」という結論に至りました。
(少なくとも株式市場で起きたことは、バブルの発生と崩壊でした。)
今また、新しい説がささやかれ始めたらしく、例のように「これまで人類が歴史的に学んできたことが覆る」といった類のものです。
背景としては、昨今の新興諸国の経済的な発展は以前のように脆弱ではなく、非常に安定的な成長が期待できるという点です。
世界経済の中で、新興諸国(中国とかインドとかブラジルとかロシアとか東欧とか…、考えるとえらくたくさんある…)が与える影響は日増しに高まっているわけで、それらの国々の不安定が世界全体の経済にマイナス影響を与える。
ところが、それらの経済が非常に順調に伸びているという指摘です。
たとえば、中国はインフラへの投資を怠ることなく継続しており、また、教育投資をますます強化することで優良な人的リソースの確保を維持していると。
で、その生産力の拡大と生産性の向上はまだまだ続くのだというわけです。
そんでもって、世界レベルの景気減速は起きないんだと。
一方、米国のような先進国は見事にサービス化に成功していると。
たとえば、米国の製造業従事者の数(人口)は1958年の水準まで低下してきていて、全就業人口に占める割合は実に少ない。
それだけ付加価値を作り出すサービス領域の企業が強くなっていて、そうしたモデルが確立しつつあるというわけです。
(そういうビジネスモデルを確立している会社を”プラットフォーム・カンパニー”と呼ぶそうです。)
そんなことで、先進国企業は需給の調整を上手にアウトソーシングしながら回避して、業績の浮き沈みを緩和している。
従って、急激な業績の変化が起こりにくいという話です。
世界の工場たる新興国の継続的な成長の実現と先進国の付加価値領域での成功によって、世界経済はこれまでにない次元に突入していて、グングン成長を続けるのだというわけです。
もし、これを信じるなら株式は断然「買い」ですね。
そんなの嘘だし、必ずどこかで調整が入るはずだと思うなら「売り」ですね。
いずれにせよ、いつの世も似たような話をしているものだと思います。
時差ぼけというヤツ
時差ぼけというヤツである。
英語で言うとジェットラグ…
時差ぼけという症状を突っ込んで考えてみると、
①寝るべき時間に寝られず、起きているべき時間に眠い。
②更に、その症状が複合して、何だか一日中調子が悪く、
頭がボーっとしたり、気持ち悪くなったする。
①の症状に対する率直な表現が英語で言う”ジェットラグ”か…
②の症状に対しては日本語の”時差ぼけ”がよりシックリくる。
とすると、もしかしたら、日本人はより”時差ぼけ”に弱いのであろうか…
つまり、症状を示す「語感」からすると、”時差ぼけ”のほうが症状として重たそうに思える。
Lost in Translationという映画を断片的に見たことがあります。
完全には見ていないが、ハリウッド俳優が東京にやってきて、非常にテキトーな通訳や文化の違い(かなり錯誤した日本文化の把握になっているが…)に当惑するという内容(であったと思う)。
その中で、主人公が真夜中に眠ることが出来ず参っているシーンが出てくる。
(断片的にしか見ていないにもかかわらず)時差ぼけに陥ると、このシーンを思い出します。
※Lost in Translationはちゃんと見るとおもしろいらしいです…
人間、真夜中に寝られないというのは、生理的に考えて、大変にストレス。
逆に、太陽がガンガンにまぶしく光っているのが、恨めしいくらい眠いというのもツライ。
20代までは時差ボケなど、あまり気にすることはありませんでした。
実際、今回一緒に出張した若者は、ガンガン寝られたそうで…
毎朝スッキリ朝を迎えることが出来たそうで…
そういう人間が一緒にいると、夜眠れないことに変なプレッシャーを感じたりする。
数日寝ないくらいで、死にゃあしないのに。
「睡眠力」が弱まっているのかも知れんです。
つまり、若いころというのは、いっつでも、どっこでも寝ることが出来た。
本当にどこでも寝られた。
ところが、40代となると、どこでもいつでもという感じじゃぁない。
一方、「年を取って、適応力が低下したのでは…」といった正論で、私を追い詰めないで頂きたい。
断じて「適応力の低下」ではない!
そうではなく、「睡眠力」の低下だと強調しておきます。
Chindiaなる新語
最近、英語圏では、Chindiaなる新語が使われるようになっているそうです。
ChinaとIndiaでChindia。
BRICsという新語は日本でもすっかり定着しましたが、そのBRICsの中でも特に人口が多く、高い成長率が期待できる2つの大国。
地球上で最も成長が期待できる(たぶん)二つの国を合わせてChindiaというわけです。
Chindiaは活字で発見したので発音がわかりません。これがネイティブじゃない人間の苦しいところ。
まさかチンディア?おそらくはシンディア。あるいは、チャインディア…
どなたかわかる方に教えていただきたい。
いずれ、日本もChindiaに抜かれるわけで(決め付けていますが、長期的には間違いないですよね)、国際比較で「世界第2位の経済大国」というくらいしか胸を張れない国の住人としては、もっと自信を持てる要素を増やしていかないとなぁ…などと思います。
更に言えば、そうした比較の世界から解放された「国としての”軸”」を持たないといけない気がします。
いつぞや、少子化の問題で会合に出ましたら、ある先生が「少子化の何が悪いのか」ということを仰っていました。
その通り。
実は私たちの個人生活において少子化がもたらす問題はあまりクリアーになっていない。
これも”軸”の持ち方だと思うわけですが、少子化がもたらす問題として「国の活力が失われる」という話や、あるいは、「長期的に見た社会保障の仕組み自体が崩壊してしまう」などというわけですが、煎じ詰めれば、結局、経済的に問題だというだけで、一人ひとりの個人生活の本質には影響は無いはず。
生活者は経済のために生きているわけではなくて、経済が生活者のために機能しなくてはいけないわけで、経済力が(あるいはGDPが)低下するから、少子化がまずいというのは主格逆転してしまっています。
Chindiaのように人口が増え続け、成長著しい国と同じような思考方法で国の”軸”を定めてはならないのに、いまだに、高度経済成長時代を引きずったような思考方法になってしまっている気がします。
過去の”軸”で日本を比較すれば、もう絶対Chindiaには勝てないわけで、全然違う”軸”を見出さないといけないんだろうと思います。
少なくとも、これからの日本は投資される側にはいないわけで、Chindiaのようなこれからの地域に投資する側に回らないといけないはずです。
しかも、それは国という単位での行動ではなくて、たくさん溜め込まれている個人資産をどんどんとこれからの地域に投資していくべきと思うわけです。
まるで、証券会社の回し者のようですが…
Chindiaには投資すべきです。
ベンチャーは野蛮人が紳士的にがんばる…
最近、ブラックストーンというプライベート・イクイティ・ファンドが上場しました。
私のように事業会社で生きている立場から見ると、どうも「ファンドが上場」というのは違和感があります。
一方、確かにファンドが事業会社に投資して、その投資回収を行う方法として、ファンドそのものを上場してしまうという考え方は「なるほど」とも思います。
いろいろな事業会社に投資しているファンドそのものが上場するということは、事業会社的な視点で見れば、投資先企業の親会社が持株会社として上場したようなものと解釈できます。
それにしても、金融業界の方々(というか投資銀行の世界の人々、特に米系)というのは、本当に頭がいい。
金儲けの手段を次々と考えていく。しかも事業会社的視点に立つと「それは反則?」と思えるようなことも編み出してしまう。
ブラックストーンの上場ですごいと思うのは、日本で常識的に考えられている上場とは仕組みが違うこと。
ブラックストーンは株式(share)を発行せずユニット(common unit)なるものを発行するそうです。日本で言えば、いわゆる種類株式みたいなものでしょう。
ブラックストーンはユニットを発行するLP(limited Partnership)として外部株主の権利を制限しています。
いわゆる一般的なコーポレイト・ガバナンスを受けなくてよい。
一般的なアメリカの上場企業のように過半数以上の社外取締役を置く必要もなく、更にその社外取締役の指名も経営陣が自由にできる。
更に、役員報酬の決定権も経営陣にあり、報酬委員会も設置されないそうです。
つまり、ブラックストーン株主(厳密には株主ではなくユニット主)は一般企業の株主に与えられる権利をかなり制限されています。
また、ユニットを20%以上保有した場合には、あらゆる決議に参加する権利も失うそうです。
こういう構造を作り出すのが金融業界の人たち(というか投資銀行の世界の人々、特に米系)のすごいところだと思います。
ある意味で、ゲームのルールそのものを作ってしまう。
私のように事業会社にどっぷり浸かっている人間はルールの中でしかプレーできません。
だから、本性は野蛮でも、プレーは紳士的です。
批判を恐れずに言うと、金融業界の(というか投資銀行の世界の)皆さんは逆で、本性は紳士なのでしょうが、プレーは野蛮に見えます。
昔、サッカーは野蛮人のやる紳士のスポーツで、ラグビーは紳士のやる野蛮なスポーツと聞いたことがあります。
事業会社(特にベンチャー企業)はサッカーですね。野蛮人が紳士的にがんばります。
投資銀行の世界はラグビーですね。紳士の皆さんが野蛮にプレーする。
逆をやると失敗すると思います。
ちょっと言い過ぎました…
時々、本を頂戴します。
時々、本を頂戴します。
どうでしょうか、多いときは毎日のように本を頂戴します。
驚くほど、世の人々は本を書くようで、友人・知人、そしてビジネス上お付き合いのある方々から「こんな本を書きました」みたいな形で著書を頂戴します。
わざわざ頂いた本ですから、さっと目を通させていただきますが、買ったはいいが読めずに在庫している本があるくらいの状態なので、滅多に通読することはありません。
が、先日、山崎養世さんから頂いた「米中経済同盟を知らない日本人」(徳間書店)は日経新聞に広告が載っていて「買おう」と思っていた矢先に頂戴したので、私にとってはうれしいプレゼントでした。
山崎さん、ありがとうございます。
- 山崎 養世
- 米中経済同盟を知らない日本人
山崎さんとは、氏がゴールドマンサックス投信の社長をしていらっしゃる頃に知り合いました。
金融の世界から飛び出されて以降は、「高速道路無料化」という政策を掲げられ、その政策は民主党のマニュフェストにも反映されています。
で、「米中経済同盟を知らない日本人」ですが、米中を軸としたグローバルな動きについて触れつつ、要は『ドル、英語、インターネット(モバイル)』の3点セットで世界は動いているということを仰っています。
私は人材関連サービスという、めちゃくちゃドメスティックなビジネスに関与しているわけですが、それでも山崎さんの言う『ドル、英語、インターネット(モバイル)』の3点セットによって世界は動いていると実感します。
下世話な思いつきとしては、やはり長期的にはドルは”買い”でしょう。
それから、英語も”買い”ですね。英語でしか流れていない情報は膨大です。
ところが、日本語で流れている情報もまた膨大であるために、英語でしか流れていない情報をキャッチできないという現象が日本という国には特徴的に存在するように思います。
また、本書では何かと「高速道路無料化」を軸にしながら、日本に対する課題提起と政策提言が行われています。
課題提起の中で、とりわけ、「そうだなぁ」と感じたのは東京への一極集中。
私自身、ほとんどの時間を東京で過ごしているわけですが、どうも合理的ではない、不便に感じることも数多く…
東京への一極集中という課題を克服することには大賛成なのですが、そのために自分が東京を出て行こうとは思っていないという矛盾を再実感した次第です。
それにしても、いよいよ春です。