単純さは強い躍動感の源
気の早い話ですが、そろそろオリンピックです。
夏季オリンピックと冬季オリンピックが2年ごとにやってくるようになって、忘れかけた頃に再びやってくるという印象になってきました。
いよいよ北京オリンピック間近ということで、地元では大変な盛り上がりを見せているようです。
ある中国の大手企業はオリンピック・スポンサーであることによって、社員は大変に勢いづいているとのこと。
地元でオリンピックが行われる…自分の会社がスポンサーになっている…こうした大変に単純なことが人を活性化に導いているという事実を羨ましく思います。
先日、ある方から「東京オリンピックのときは教室でテレビ観戦した」という話を聞きました。
テレビを通じて少年少女たちがオリンピックを共有し、泣き、喜び、感動する。
そんな情景が40年前の日本にもあったわけです。
もちろん、今の日本にそうした純粋な感動がなくなったとは言いません。
が、たとえば、2016年を目指して誘致運動を展開している東京オリンピックの実現に関心をもっている人がどれほどいるでしょうか?
賛成でも反対でもなく、ほとんどの日本人が”無関心”というのが現実です。
日常的に様々な刺激にあふれ、成熟した社会には”無関心”がはびこっていくものなんでしょう。
(賛成するにも反対するにもパワーがいります。
何かにつけて低出力なのが高齢社会・日本の特徴でしょうか…)
東京オリンピックが実現しようがしまいが、たいていの日本人にとっては無関係であって、何の影響もない。
特別それを望む理由もない。同時に、それを否定する理由もない。
だから、なんだか「税金の無駄遣い」といった何でも反対するタイプの人たちの反論だけが聞こえてくる。
でもって、それに対しても特別の関心はない。
北京オリンピックが実現したときの騒ぎようといったらなかった。
社会全体がオリンピックを待望していたのだろうし、自分の国で、自分の町でオリンピックが開かれるということに、極めて単純な期待や歓喜があったんでしょう。
こうした単純さを失うと躍動感が失われていくわけですね…
会社も同様と思います。
単純なことに感動し、共感し、行動できる組織には躍動感があります。
そうした単純さを失いたくないと思うわけです。
因みに、東京にオリンピックが招致できるかどうかは2009年10月2日に決定します。
意外なことが突然起きると
想定していないことが突然に起きると人間というのは実に脆いものだと思います。
それなりの緊張感で事に臨んでいれば、少々のことではびっくりしないわけですが…
人間、常に高い緊張感で生きているわけではないですし、弛緩して伸びきった状態のときもあります。
今日、車に乗っていて、運転士さんがETCを通過しようとしたわけです。
ところが、ETCがうまく作動せず、しかし、一方でかなりの速度で通過しようとして、突然バーが振り下ろされました。
なかなか機敏な反応だと感心するのは、全ての事態を後になって振り返ったときであって、実際に勢いよく振り下ろされると、かなり驚くものです。
当然、急ブレーキがかかり、ちょっと頚椎捻挫のふんいき。
完全に頚椎捻挫とは言い切れないレベルであり、正常に仕事は出来るので問題は無いのですが、いつも起きないことが突然起きると、それに全く抵抗力がないということを思い知った次第です。
いかに気持ちを平静に保つか…
当然、人間ですから、誰しも気持ちの浮き沈みがありますね。
当たり前です。
飛び上がりたいくらいうれしいこともあるし、考え通りにことが進んでウキウキすることもあります。
逆に、嫌なこともあるし、不安になることもある。
当たり前ですが、気分が高揚しているときはまだいいのですが、気分が滅入るような状態のときにどうするか(?)ということがあります。
不思議なもので、不安や心配や落ち込みというのは複合連鎖しますので、その結果、苦しみが増大するということが起きますね。

人間、そうした不安や心配や落ち込みに直面したとき、その話を他人にぶちまけるだけで、50%くらい悪い気分が軽減するそうです。(昔読んだ本の請け売りです…なおかつ、うる覚えです…)
だから、悪い気分のときは、なるべく早く他人にぶつけたほうがいいんでしょう。
不安の連鎖の話でいうと、心と体というのは繋がっているわけで、不安で胸が締め付けられる気分のときに、慌てて行動して更に動悸を激しくしたりすると、余計不安の度合いが高まります。
(この話は、最近読んだ本をもとにしています。因みに、その本には、「高い吊橋の上をドキドキしながら渡っているときに、異性に出会うとその異性に好意を抱く確率が高まる」という話が出ていました。つまり高い所にいることでドキドキすることと異性に好意を抱いてドキドキすることを脳みそが同じように捉えてしまうという現象です。)
そんなことで、不安の程度が高いときは、身体行動を落ち着かせたほうがいいんでしょう。
そのほうが、不安が和らぎます。
それから、大概の問題は簡単には解決がつかないわけで、それを抱えている間、普通の人間はドキドキハラハラするものです。
ドキドキハラハラしていること自体が、当たり前のことなんだと思うだけでも気が楽になるようです。
てなことで、不安や心配という制御不可能に思えることを少しでも制御する術を知っていると役に立ちます。
なんといっても、常に平静な精神状態でいることはとても大切ですので。
過剰に便利!
私が使用している携帯電話の漢字変換機能がスゴイ。
名前を入力すると(たとえば田中なら田中と)、私には全くわからない芸能人らしき名前がわんさかと候補として出てきます。
「そんなに芸能人の名前を入力するニーズがあるんだろうか?」と思うわけですが、まぁ、とにかく、過剰に便利ですね。
あるとき、間違って「けろ」と入力して、なぞの候補が上がってきました。
「ケロロ軍曹」…
歴史上の人物??とも思ったのですが、どうも聞いた覚えもありません。
そんなことで、なんだろうか時にかけていたのですが…
本日、アニメキャラクターであることを知りました。
「のらくろ」みたいな感じなんでしょうか…
アニメでここまでハッキリと軍の階級を使ってくるというのは、戦後60年経って、いろんなタブーになっていたことから開放されつつあるということなんでしょうか。
いずれにしても、こんなアニメキャラまで変換候補に上がる過剰な便利さに驚くばかりです。
人間何が怖いといって、「慣れ」が怖いですね。
最近、読んだ本で何がお勧めかといわれたら、迷わず「幸せはいつもちょっと先にある ~期待と妄想の心理学」(早川書房/ダニエル・ギルバート著)を選びますが…
- ダニエル・ギルバート, 熊谷 淳子
- 幸せはいつもちょっと先にある―期待と妄想の心理学
その中に「馴化」(じゅんか)という言葉が出てきます。つまり、慣れきってしまって、本来の効用を生み出さなくなった状態を指しているようです。
作者は心理学的な「馴化」とは、経済学的に言えば「経済的効用の逓減」ということができるといっています。
つまり、目新しいものには鋭く反応を示すものの、それに慣れてくると反応はだんだん鈍くなるわけです。
インテリジェンスが丸の内ビルディングに入ったのは、今から6年ほど前ですが、その時期の丸の内は誰にとっても大変に新鮮で、街全体に活気がありました。
なんてことはないレストランでも、予約がいつも一杯で、なんてことはないショップでも結構売れ行きがよかった。
ところが、今となっては、丸の内ビルディングのレストランで「満杯で滅多に入れない」という店は少ないわけで、世の中が丸ビルに慣れてしまったために、”経済的効用”が減少してしまったわけです。
誰でも経験のあることですが、たとえば新車を買った当初は、「絶対に車内でタバコは吸わない(吸わせない)」などと考えているのに、半年もすると、経済的効用が逓減して、何のためらいもなくタバコを吸ったりするわけです。
仕事においても、慣れる前は緊張程度も高く、ぎこちないかもしれないけれども、手順通り間違いが起きないように慎重に行動したりします。
ところが、徐々に熟練程度が増して、手早く仕事を進められるようになると、(つまり、慣れてくると)、必ずしも基本通りには実行しなくなって、事故を起こしたりする。
更には、馴化によって、「この仕事はつまらない」などと言い始めたりするわけです。
やりたい仕事のはずだったのに(!)です…
そもそも仕事であれば、慣れて慣れて慣れて、慣れきってしまっても、そこに新鮮さを見出そうとしなければ駄目なんだと思います。
「慣れた」という当たり前の状態を受け入れてしまった段階で、先がない。
もちろん、何であっても”馴化”は避けられないわけで、それをわかった上で、”馴化”して刺激がなくなってからが勝負(!)くらいに思っていたほうがよいように思いもいます。
時代に翻弄されないこと
長くやっていると得なことがたくさんあります。
スピードの時代、変化の時代といわれると、何だかとにかく動いていないと置いていかれるような錯覚に陥ります。
ところが、おもしろいもので、時代変化が激しいからといって、とにかく動いていれば、いい方向に向かうかというとそうでもありません。
周辺環境の変化が激しいときこそ、どっしりと腰をすえたほうが得なことが多い。
何事も長く取り組んでいれば、それだけで”売り”になります。
ましてや、一人ひとりの人生は長い。
昔と違って、長生きの時代です。
世の中の変化に気を取られすぎて、自分もどんどん変化していかないといけないと思うのは錯覚です。
その変化は長生きの時代には適していない行動かもしれません。
長い人生をより有効なものにしていくためには、長期的に通用する無形のアセットを手に入れていくことだろうと思います。
となると、一つの仕事に、それなりの時間投資をするべきと思います。
それなりの時間投資というのは、やはり10年単位のもの。
目先の損得で行動するよりも、長いスパンで人生を考えて、目先は損でも長期的には得となるような無形アセットの獲得を考えたほうがいいと思うわけです。
生き急ぎが目立つ昨今、生意気ながら、そんな風に考えます。
もちろん、ただ長く時間投資すれば、いいというわけではありませんが…。
たまにはインテリジェンスの宣伝を宣伝
今月来月はインテリジェンスにとって世の中への露出が強まる2ヶ月になります。
まず、何といっても、7月2日に念願の商品リニューアルで”新しいan”がスタートします。
アルバイト・パート、地域の仕事を探す媒体として、インテリジェンスにはanとOPPOという2つのブランドがありました。
この状態を整理して、7月2日からご利用いただく皆さんのニーズに合わせて3つのanが始まります。
働きたい地域で選ぶ【anエリア】、条件で選ぶ【anセレクト】、週5日しっかり働きたい人の【anレギュラー】という構成に変化します。
そんなことで、7月からのリニューアルということで露出が増える予定です。
それからお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、DODAのプロモーション強化が今日からスタートしています。
これもしばらく継続の予定。
新庄剛志さんを起用したDODAプロモーションの第2弾はインテリジェンスによる転職支援の内容をより具体的に示そうとしています。
新庄剛志さんの新TV-CFはこちらです↓↓↓
http://www.inte.co.jp/corporate/brand/ad/index.html
今日は宣伝ばかりでスイマセン。
反対側から パート2
ついついセールスというのは、こちらを売り込むものと誤解してしまいがちです。
私もどちらかというと、しゃべるのが得意と思っているほうなので、「営業」というと、ついつい売り込んでしまいます。
でも、営業されてみて、改めて実感するのは、営業側の自分都合の”売り込み”など全く魅力がないということです。
お客様は「自分をわかってほしい」と思っている。
そして、「自分をわかってくれている」ということがロイヤリティーを生み出します。
ところが、営業する側は、ついつい自分の商品・サービスをわかってもらおうとしてしまう。
その結果、ひたすらに売り込んでしまうわけですね。
実は、お客様にとって、売り手側の商品やサービス、あるいは事情など全く無関係であり、知ったことではない。
そして、更に、売り手側が認識するよりも、はるかに買い手側(お客様)は売り手側の商品やサービスを知っています。
だから、本当は、営業は自分を説明したり売り込んだりするよりも、お客様を知ることとお客様の話を聞くことに注力したほうがいい。
ところが、これが難しいわけです。
面白いもので、結果を性急に求めれば求めるほど、得たい結果が遠のいたりします。
つまり、売り込めば売り込むほど売れなくなる。
だから、遠回りに思えても、お客様が何を考えているのか、何をやろうとしているのか、どんな状況なのかを聞くことが大事なんですね。
まさに、営業されてみて、改めて気付くことです。
ひたすらに売り込まれるほど、聞いていてつらいことはなく…
「こっちのことをわかっていないくせに…」というフラストレーションがどんどん溜まっていくというのが、反対側から見える風景です。
「営業こそ、8割お客様の話を聞くべき」という、どっかで書いてあった話は正しいと思います。
久しぶりのコメントで動機向上
皆様の同情を誘ったようで…
コメントがないということをコメントしたら、それに応じてコメントをいただきました。
コメントをお寄せいただきました皆様、心より御礼申し上げます。
ご指摘の中に「確かに!」と思うことがありまして、「反応が得られないむなしさ」が発信側にあるのと同じように、コメントをお寄せいただいた方々に明確な反応をしていない自分に気付きました。
私の不徳のいたすところです。
かといって、コメントをいただいて、それに逐次的にお応えするというのも、何ですので…
といった内容のない中身を2日連続で書き連ねた次第です。
知覚されていないなら存在していないのに等しい
それにしても、不特定的な対象に向けた一方的な発信の継続というのはモチベーション維持が大変です。
なんらか反応が得られるなら、まだよいのですが、私のフロクにコメントを残す方も少なく…
もちろん、たまに、「フロク見ています」的なお話もいただくので、誰も見ていないということはないのでしょうが…
ダイレクトに反応を得られない中で、これを継続するというのもなかなか大変です。
転じて、人間、無視されたり、何の反応も返されなかったりすることほど”つらい”ものはないのだなぁと実感します。
何かで読みましたが、「存在するというのは、知覚されているということ」であって、物理的に存在していたとしても、それを誰からも知覚されていないとするならば、それは存在しないことと同義だと…
やはり、知覚されているという確認が人間には必要なんでしょう。
本日はこれまで。