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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

梅雨に入るちょっと手前。
用事があって北品川に行った。

折しも品川神社の例祭で、商店街は飾り付けの真っ最中。
初めて行く場所で、縁日だとは知らなかった。

「いってつ」という蕎麦屋に入った。



蕎麦を食うあんちゃんのイラストが看板。
箸袋にもその絵が描かれていた。



熱燗をひっかけながらも気になって、帰って調べてみたら地元の漫画家さんの桐村海丸さんという人が描いた絵だった。「とんがらし」という単行本が、ひとまわり以上昔に一冊きり出ただけのようだ。



新撰組以前の話だが、斬り合いも打ち首も描かれていない。
もちろん歴史(よく知らない)は背景ではある。

だけどまあ、そういうこっちゃなく……

たぶん、記憶に残るお囃子の響きと重なったのだろう。
読後感は、なんだかもの悲しかった。
 

彼がいっているのを聞いたかい
河を下ったら奴を売ってしまえ
彼等は僕をバカだといった
彼等は雨が降るともいった
けど彼等になにがわかる?



From "Steppin' Out" on ELO's album, Out of the Blue.

   ☆

船から降ろしてくれとたのんだ。
故郷の反対側の[岸|ジャングル]に放り出された。
ではご随意にと、悪意のままに。

正面の、向こう岸に渡りたい。

そこに帰る家がある。
さえぎる急流。

身ひとつで河に入る。

貴方は流される。
貴方は笑われる。

急流を突っ切ることはせず、
あえて流されながら、
少しだけ向こう岸に近づく。

少しだけ。

貴方は根気よくこれをくりかえした。

根気よく。

やがてなんとか向こう岸にたどりつく。
しかしそこは、はるかに下流。
また笑われる。

立ち上がり、歩き始める。
向こう岸を上流へと。

貴方は黙ったまま歩き続ける。

故郷へと向かって。

※オリジナルの歌詞では主人公が船を降りたいといったとは書かれていないが、その後、「君」に出会い、「君」の歌を聴く。歌詞は知っている気がしたが、旋律は滅茶苦茶でキーも外れていた……と続く。
 

前回記事ではタイトルの件がテーマでした。

ちょっとしたエッセイのつもりで、ブログとしては長文だったかと思いますが、この記事を打っている最中に、当のポメラが故障してしまいました。

以前の記事にも書きましたが、ポメラは発売当初からずっと使っています。自宅には数台の歴代ポメラがありますが、故障や不具合というのは一度だけ。それも軽微なトラブルがあっただけです。

まさにテーマそのもののことが、そのことを書いている最中に起こったということで……こういうのをシンクロニシティといいます。

ついでにいうと、連絡をくださったメーカーの方が、珍しいお名前の方でした。これも「ありえないことではないが、ふだんはあまりないこと」です。前回記事の「兆し」リストには入っていませんが。



【入院したポメラ。付属のステッカーなんか貼っちゃって、喜々として使っていた様子が丸出し。スイッチの抽選販売に当たった小学生と一緒】

あ。

内蔵メモリ初期化するの忘れてセンドバックに出しちゃった。
執筆中の次作の原稿が入っていますが……ま、いいか。
商業ベースにのってるモンでもないし。

 

多くの人はたったひとつきりの現実しかないと信じ込んでいるが実はそうではない。現実はミルフィーユのように薄い無数の[層|レイヤ]に分かれていて、そのレイヤ一枚一枚が独立した現実である。レイヤは現実を生きる各個人の分だけある。個人個人は、それぞれが別々のレイヤに住んでいる。

   ☆

手垢のついた例だが、水が入ったグラスがあって、このグラスの中の水を見て「こんなにたくさんある」と思うか、「これだけしかない」と思うかで、ふたつの[現実|レイヤ]があることになる。
もうひとつ例をあげれば、あなたが完全に没交渉にしたかつての友人、知人は、決してあなたの現実の層にあらわれることはない。あらわれたように見えたとしても、あなたはその人を以前のようには認識しない。

ミルフィーユの層どうしは完全に分離していて、層がちがえば完全に無関係というわけでもない。あるところでは分離して、あるところでは密着して、あるところでは重なりあって、またあるところでは融合してひとつの層を共有していたりもする。
しかも現実の層はミルフィーユの層のようにじっとしていない。常に流動している。ひどく食べにくいデザートなのだ。

この無数の[層|レイヤ]の広がりの中で一般に「ひとつだ」と信じられている領域が合意的現実であり(唯識でいう器世間。けだし、適切な述語である)この「合意的現実」こそバーチャルなのである。実態は個人個人別々の層の重なり合いの流れといったほうが正しい。

これら無数のレイヤのうち、特定の個人がどのようなレイヤに位置するかは、その個人の思考が忠実に反映される。いいかえれば、あなたはあなたの思ったとおりの世界に住んでいる。思考の傾向を変えれば、別のレイヤに乗りかえることができる(このようなお話に興味がある人はトランサーフィン関連の書籍((*1)(*2)など)を参照のこと。同著者による邦訳は過去にも何冊か出ているが、入手しづらくなってしまったので省略)。

   ☆

自分がいるレイヤが切りかわったどうかは、「兆し」を読むことによって判断することができるのではないか、というお話をしてみたい。

「兆し」とは新しいレイヤで新しい現実の流れが始まるという兆候、シルシであり、具体的にいえば「ありえないことではないが、ふだんはあまりないこと」である。
この定義をかみ砕くなら、「ふだん」というのが以前にいたレイヤで、「あまりないこと」が新しいレイヤでのイベントである。

乗りかえる前のレイヤと、乗りかえた後のレイヤの間には「距離」がある。
「ありえないことではないが」の意味は、極端に離れたレイヤに、いきなりジャンプはできないということだ。

水が入ったグラスの例でいえば「こんなにたくさんある」という[現実|レイヤ]と、「これだけしかない」という[現実|レイヤ]とは、レイヤとしては別だが、ものの観方がちがうだけで、その間の距離は小さく、ほとんど密着しているといってよい。

もうひとつの例である没交渉にした人物があなたの世界に二度とあらわれないというケースでは、その人物が位置するレイヤとあなたが位置するレイヤが、水の入ったグラスを観察するふたりがそれぞれ位置するレイヤ間の「距離」よりも、はるかに離れている。

念のため付け加えておくと、ふたりが通う学校、所属するクラス、勤め先が、べつだとか同じだとか、住まいが近いとか離れている、とかいうことではない。それは器世間、合意的現実における社会制度的あるいは、三次元空間的距離だ。そういった時空連続体内における物理感的、時空間感的な距離ではなく、レイヤとレイヤの間という形而上学的な「距離」が大きいのである。この「距離」が大きければ、たとえ隣の家に住んでいても、会わない人とは会わない。住んでいる「現実」がちがうからだ。

   ☆

仮説だが、「兆し」の性質を観察することによって、自分がもといたレイヤから、どのくらい離れたレイヤにジャンプしたのか、ある程度うかがい知ることができるのではないだろうか。くりかえすと、「兆し」とは「ありえないことではないが、ふだんはあまりないこと」である。
起きた[事象|イベント]の曖昧さの度合いは、乗り換えたレイヤ間の距離に相関しているのではないか。

ふたたび、水が入ったグラスの例をあげるなら「こんなにたくさんある」「これだけしかない」というレイヤは、きわめて主観的な感覚であり、どこがレイヤ間の分水嶺になるのか不明確で、ここでお話ししている仮説に沿って[現実|レイヤ]を乗りかえたのだ、とは[他人|ひと]対して説明しづらい。


他方、「あいつに会わなくなった」というレイヤと、「しょっちゅう一緒にいた」というレイヤが、それぞれが別の現実なのだということは、水の例よりも比較的容易に説明できる。
つまりこの例におけるレイヤ間の距離の方が、水の例におけるレイヤ間の距離よりも「大きい」「離れている」と考えられるのではないだろうか、という仮説である。

偶然にしろ意図的にしろ、レイヤを乗りかえた際に発生する「兆し」=「ありえないことではないが、ふだんはあまりないこと」を、たとえば、次の尺度に沿って観察することによって、もといたレイヤからどの程度離れたレイヤにジャンプしたか推測することができるかもしれない。

1=他人に説明できない。
2=他人に説明することはむずかしい。
3=まあまあ他人に説明できる。
4=他人に説明できる。
5=容易に他人に説明できる。

上のリストではジャンプした距離は1~5の五段階評価だ。数が大きいほどジャンプした距離が大きい。「ありえないことではないが、ふだんはあまりないこと」を主観的に認識したこと自体、たとえわずかでもレイヤ間の移動があったことを示すと仮定しているため、ミニマムは1だ。

0はない。

0は「そういうことはない」ふつうの状態を指す。
0というのはつまり、あなたはあなたの時間……人生ラインに沿って粛々と同一レイヤ上を移動している状態である。

   ☆

試みに実際に自分が経験した30の[兆し|サイン]を、上記五段階に分けてみた。

1(他人に説明できない)
・空に光るものをちらっと見る。
・ワンカット、ワンシーンのデジャヴを経験する。
・象徴的な夢を見る。
・見慣れた風景がいつもとちがって見える。
・珍しい形の雲を見る。
・診察券を拾う。

2(他人に説明することはむずかしい)
・誰かの言葉に癒やされる。
・誰かのTシャツに自分へのメッセージを見る。
・ベランダに落ちた一枚の鳥の羽を見つける。
・霊柩車を見る。
・だれもいないのに近くに人がいる気がする。
・線香の匂いがする。

3(まあまあ他人に説明できる)
・遠くの神社のお守りを拾う。
・宅配便が誤配される。
・老人に道をたずねられる
・めったに便りをくれない人から便り(手紙、はがき、メール、DM、SM、ファボ、コメント等々)がある。
・目にしたチラシの中に気になる講座をみつける。
・使っていた道具が壊れる、故障する(デジタル・ガジェットは反応しやすい)。

4(他人に説明できる)
・外国人に道をきかれ目的地まで案内する。
・スマホを忘れた見知らぬ女性に時間をたずねられる。
・100円玉を拾う。
・正面から歩いてきた男と、すれちがいざまに肩がぶつかる。
・[楽団員|オーケストラ]の会員証を拾う。
・本屋で目の前に本が落ちてくる。

5(容易に他人に説明できる)
・じゃれあって歩く男の子ふたりの上に飛んできたカラスが、くわえていたカップ麺の空容器を、ふたりの上に落とすのを見る。
・エスカレータ前で困っている老婦人の手を取り(先方が手を出してきた)、エスカレーターの終わりまで同行する。
・知らない誰かが、知らない誰かに宛てたハガキを拾う。
・人の死に目に会う。
・封筒に入った一万円札を拾う。
・目の前で人が倒れたので救急車を呼ぶ。

   ☆

定性的所感だが、距離が近いレイヤへの乗りかえはしょっちゅう起きていると思う。単純にいえば人生が長ければ長いほど、もといたレイヤからは少しずつ離れていくということだ。場合によっては逆に、年齢をいくら重ねてもレイヤ間の移動幅がさほど大きくない人生を送る人もいるだろう。この場合は「ふだんはあまりないこと」自体が、その人の人生にはあまり起きていないということになる。もちろんどちらがいい、わるいという話ではない。人生行路に優劣などない。

より意義のある調査にするには1~5における典型例をモデル化して、標準化されたイベントそれぞれの、単位期間中における「兆し」の出現頻度を測る必要がある。

とはいえ……

「典型例を標準化する」といってもむずかしい。たとえば、「モノを拾う」というイベントひとつとってみても、そもそも「モノを拾う」ことが「ふだんあまりない」ことかどうか人によって異なるだろうし、そういう文脈も含めて、どのような状況下で、いつ、どこで、なにを拾うかによって、他人に説明できる容易さはちがってくる。
「他人に説明できる容易さ」とは、要するにそのイベントが起こる珍しさであり、そこにはどうしても、それを語るもの、聴くものの主観が入り込む。

とはいえ……

物語は、おもしろいにこしたことはない。

とはいえ……

「おもしろさ」こそ、主観そのものではないだろうか。


……というようなお話、「おもしろ」かったでしょうか。

お楽しみいただけたならよかったのですが。

ご清聴ありがとうございました。

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(*1)「タフティ・ザ・プリステース 世界が変わる現実創造のメソッド」 ヴァジム・ゼランド 成瀬まゆみ モリモト七海 SBクリエイティブ 2023

(*2)「78日間トランサーフィン実践マニュアル 量子力学的に現実創造する方法」 ヴァジム・ゼランド 成瀬まゆみ モリモト七海 SBクリエイティブ 2025
 

よくいくコーヒー屋の近くに本屋がある。


アマゾンばっかしてると、そのうち本屋というものがなくなってしまいそうなので、ときどきそこで本を買う。

高野文子さんの「るきさん」が平積みなっていたので、思わず買ってしまった。



時代は古いが

(すげ。初出は結婚する前だ)

このふわふわ感がたまらない。

本は読むけど他人様の「作品」は、まず読まない。


読んでしまうと、これいいなあ~と思って、すぐマネしてしまうからである。

でもこの作品なら大丈夫。
絶対にマネできないからである。
 

カオス。
無秩序。あらゆる可能性。
リセット。白紙状態。
母体、マトリクス。

   ☆

すべての爻の陰陽が不正な状態にある。

前述の「秩序」と正反対の卦だ。秩序の卦を倒置(リバース)しても、陰陽反転(インバース)しても、上下卦を入れかえても、この卦の[象|かたち]になる。

つまり、秩序の卦からは最大限にかけはなれている。

秩序の卦を意識とするなら、この卦は、通常の意識からはまったく認識できない「なにか」だ。

すべてが「のびしろ」であり、起こることが予想できない。
裏を返せば「あらゆること」が起こる可能性がある。

そういう意味ではすべてのもの一切の母体でもある。

[母体|マトリクス]。

あらゆる事象は例外なく「ここ」から現れる。
そして再び「ここ」へともどっていく。
そもそも「それしかない」ところのもの。

宇宙の基盤である「混沌」と、それを経験する意識ともいえる「秩序」。このふたつの[視座|パースペクティブ]の間で、私たち人間複合体には、ありとあらゆることがゆるされている。

天地(乾坤)に始まって、最後から二番目が秩序、そしてこの混沌の象が六十四卦の最後に配置されたのは、意味のないことではないだろう。

こういって易は終わる。

煮てもいい。焼いてもいい。

この先は、どうぞご自由に。

遊星出版です。

前回文フリの反省をふまえて名刺をつくりました。
自炊なので安く上がりました。
まあでも、まちがえちゃたりなんかして、ずいぶんもったいないことをしましたが、なんとか。
こんな感じです↓
遊星出版名刺
新しい方のurl(予定)を書いています。

東京文フリは次回11月です。
9月の大阪文フリにも一応申し込みはしました。
大阪の方は抽選なので出店できるかどうかはわかりません。
もし出店できたら、よろしくお願いいたします。

そういや昔、会社の先輩が、
「名刺は一番まちがいのないセールスマンだぜ」
といっていたのを思い出しました。
ぼく自身は営業職ではなかったんですがね。
 

コスモス。意識。
整列。整っていること。
完璧。

   ☆

初爻から上爻まで各爻は「本来そうあるべき」陰陽が決まっている。これを「正位」という。この卦は各爻の陰陽が本来そうあるべき正位に完全一致したパーフェクトな[象|カタチ]である。
よって、遊びや面白味、のびしろは一切ない(一切、は言い過ぎかもしれない。卦辞では「ちょっとはある」といっている→「亨小」。ただし、あくまで、小、「ちょっと」だ)。


この卦を基準とするなら、この卦以外の卦は必ずひとつ以上の爻の陰陽が「不正」な状態にあることになる。
事象を認識するには基準になる枠組みが必要である。これ、それ、あれ、どれ、私、貴方、敵、味方、関係なし。
人の意識はその枠組みによって成立する。爻の位置による陰陽の正・不正は、人の意識が定めた枠組みともいえる。つまりこの卦こそは、人の意識が本来カオスである外界を認識するための[基準|フレーム]なのだ。

この[文脈|モデル]に沿っていえば、人間にとってのあらゆる事象は、カオス(次の卦)と、この卦の間で成立する。そしてその、あらゆる事象のシンボル群が六十四卦で、観立ての描写が各々の経文だ。

この卦は経文の内容も卦の並び順も次の最後の卦(混沌)と対を成しているようにみえる。今までいろいろあったが、実はこれが基準だったのだと明かして(既済)、最後の最後にリセットされて(未済)、易は終わるのである。

少し行き過ぎ。

   ☆

少しの行き過ぎである。

まだ取り返しがつく。
 

卦辞では「可小事、不可大事(小事には良く大事にはNG)」とある。「飛鳥遺之音……」と続く。飛鳥というのは全体の[象|かたち]から。初、二の陰爻と五と上の陰爻が翼、三と四の陽爻が胴体。これを飛び去って往く鳥の姿と観る。

♪ さ~っと飛び越す~飛鳥の翼

 

スキーの歌だ。ただし、調子に乗ってばかりもいられない。卦辞はさらに「……不宜上、宜下(上はよろしくない。下はよろしい)」と続き、これ以上高く飛んではだめだという。

この卦はまた、大きな坎の象でもあって、困難の中にいる、低いところへ下る等々、万事控えめにという意味に通じる。前回の誠心(中孚)とは逆に、互いが背き合って(口が上と下を向いて背中合わせの象と観る)和合しないともとれる。

卦辞で「大吉」(大いに吉)とあるのは、「宜下」、下ることができればという条件付きだ。これが本格的に行き過ぎてしまうと、よく対比して説明される第二十八卦「重荷」(大過)になってしまう。こうなると、内に抱えている陽が多すぎて歯止めが効かなくなる。

 

取り返しがつかない。
コースアウトなバックカントリーに迷い込む前に手を打とう。

まごころ。
混じりけのない心、気持ち。

   ☆

上下二陽(初と二爻、五と上爻)に包まれた二陰(三、四爻)。

二陰は上下二陽に、[圧迫|パワハラ]されたり、イジメられたりしているわけではない。二陰は上下二陽に「包まれて」いるのである。
あるいは、「護られて」いる。外からはとてもわかりにくい、なにか……「美しいもの」を、この卦はあらわしている。

ニュース(テレビ)は滅多にみないが、たまに目に入ると、目先の損得こそすべてといった流れは相変わらずに思える。[記事|コンテンツ]は耳目を集めなければ儲けにならないので、そのように見えるだけかもしれないが。

儲けといえば、金は天下の回りものだが、外からはわかりにくい、なにか「美しいもの」があるその場所は、まだ巡回路に入っていないようだ。

そんなわけでビリー・ジョエルは「孤独な言葉」と嘆いたが、この有様ではそのうち、「好きだ」と一言いうのにもエビデンスを求められるようになるにちがいない。

 

自分はといえば、アレルギーで、エビもカニもダメなのだが。