ぼくは占い師じゃない -45ページ目

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

最近、中沢新一氏の本を二冊読んだ。

共通していえることなのだが、
この著者の文はどの本も、
どことなく麻薬的なドライブ感がある。

「精霊の王」
中沢新一著
講談社
2003/11/21

この本は、
知人から教えてもらったもの。

内容は金春禅竹という能役者が残した「明宿集」という、
能の所作を哲理から説いたようなドキュメントを中心に
能の主たるキャラクターである翁について
独自の考察を加えたもの……

というのは、一面的な観方で
本当の主役はその翁がシンボライズする、
宇宙の背景にひそむパワーで、
これがすなわち精霊の王というわけだ。

易システムをつきつめていくと、
その根幹である両儀(陰陽)に到達する。

この本に描かれているのは、その両儀以前、
混沌といって片づけてしまうには
あまりに豊穣でハイポテンシャルな
マトリクスのエネルギーが
実体をともなって姿をあらわす、
その「境界(「サカ」イ)」に
関するストーリーなのである。

これを読んだ頃ちょうど、
易の各卦名を「字統」で確認するという作業をしていて、
精霊や翁やあるいはケルトの人形がみな一様に
帽子や布(えな)を頭にかぶってあらわれる
ということをこの本で読んだとき、
即座に思い出したのは「兌」の文字だった。

「兌」は会意文字で、
「兄」は神への祝詞(のりと)を入れる
器(サイ)を頭に乗せて祈る人の形で、
神につかえる祝(はふり)をいい、
「兌」はその祝に神が降り下った形だという。

八卦の「兌」にはよろこびという意味があるが、
こうしてみるとこの卦名の原義は、
たんなる、かろやかな喜びなどではなくて、
自身の背景たるマトリクスと合一を果たした
一種のエクスタシーとでもいうべき「よろこび」である。
喜悦、もだえ、うちふるえる「よろこび」だ。

兄の上のハは神気であり、
「えな」とはちがうのかもしれないが、
それにしてもぼくの中では
「精霊の王」と、「兌」はよくひびきあった。


「東方的」
中沢新一著
せりか書房
1991/03

中沢氏による講演や雑誌記事などを
一定のテーマのもとにあつめたアンソロジー。

一定のテーマってなんだよという話になると、
「東方的」というタイトルがついてはいるものの、
人によって微妙に異なると思う。

ぼくの場合はやはり、
日常にたたみこまれた「高次」に
どうしても目がいってしまう。

点における長さ。
直線における面積。
平面図形における高さ。

どれもこれも、学校では「無限に小さい」
ということになっている、と習うが、
無限に小さいということは「ない」ことではないし、
無限に小さいからといって
無視していいということにはならない。

こういう「高次」がぼくたちの身の回り、
あらゆるところに遍在している。
そして、遍在しているだけではなく
この高次こそがこの世の母体なのではないか。
この日常世界におけるあらゆるものは、
その母体の射影、一側面に過ぎないのである。

とはいえ、

年はおいくつですか。
どこの学校を出ましたか。
お住まいはどちらですか。
戸建てですか、マンションですか。
お仕事は。年収はおいくらですか。
海外旅行はどこに何回いかれましたか。
財産はいくらですか。預金残高は。
それをすることは損ですか得ですか。

こういった視点からでは、
おそらく高次はいつまでたっても
無限に小さいままだろうと思う。

でも心配することはなさそうだ。
人間にはこの高次を感じ取る能力が
アプリオリに組み込まれているようだから。

なぜなら先にも述べたように、人間という存在自体も、
高次という母体の切片にほかならないからだ。

人間の、高次おける母体とはいったいなんなのだろう。
どんなかたちをしてるのだろう。
「わたしはだれか」
と問うとき、その質問の矛先は、
たぶんこの母体に向けられているのだろう。

タテ・ヨコ・タカサ。

生きて、経験する道は、
この他にもたぶんある。

そういう意味ではこの本も、
希望の書といえないことも
ないのかもしれない。


「なりたい自分を探す夢の見かた入門
 ―夢は答えを知っている」
ゲイル デラニー (著)
勝俣 孝美 (翻訳)
PHP研究所 (2004/02)

「夢と現実
 ―ユングとともに自己と出会う」
土沼 雅子
二期出版 (1994/03)

「夢見る力
 -カバラと内なるヴィジョンを生きる」
キャサリン・シェインバーグ(著)
斉藤昌子(訳)
ナチュラルスピリット(2008/5)

夢の本を三冊。

夢。

夜みる夢のことである。

古い本も新しい本もあるが、
それぞれに特長があっておもしろい。

「夢の見かた入門」と「夢と現実」は、
ともにユングの夢に対する考え方に
その基盤をおいていることではおなじだが、
その夢に対するアプローチでは
まったくことなる。

どちらかというと
「夢の見かた入門」の方は、
夢を「利用」することに
その主眼があるように思う。

夢をひとつの映像作品のようにみたてて、
そのプロデューサーや出演者など
(結局は自分)にインタビューする事で
夢と現実を結びつけ、
夢と実生活をつなぐ。

そしてまた、
特定の質問をすることによって
夢から答えを得る。
夢を検索サイトのように利用するわけで、
やってみるとわかると思うが、
条件さえととのえば、
ちゃんと「回答=検索結果」が
かえってくるのである。

「夢と現実」の方は、
いつもいく古本屋で見つけた
ちょっと古い本だが、
夢にたいするさまざまな取り組み方が
広く浅く紹介されている感じ。
その中には「夢の見かた入門」にある、
演劇形式の解釈もある。

自分の内で起こっているプロセスを
信頼するという意味で、
著者の考えはミンデルのPOPに
近いものがあるのかもしれない。

自らをその「プロセス」
=タオのはたらきにゆだねるのである
(最後の方にPOPに関する説明もある)。

以前にイメージワークのワークショップに
かよっていたことがある。
サイコシンセシスという心理療法に
ベースをおいたワークだった。

イメージをたぐること自体は
問題なくできたが、
最後にたどりついたイメージを
どうあつかったらいいか
さっぱりわからなかった。

もちろん質問したが、
先生の答えはそのイメージを

「抱(いだ)いて生きる」

ということだった。

ますますわからなくなったわけだが、
「夢と現実」を読んで、
ようやく(今頃!)その意味がわかった
……というより「つかんだ」感じ。

そのイメージを抱き、おりにふれ味わい、
実生活をそのイメージとともに生きる。

わからなかったのは、
「夢の見かた入門」のように
そのイメージ、すなわち夢を、
どのように「利用するか」という観点のみから、
どちらかというと工学的に考えていたからである。

かならずしも完璧に解釈し尽くさなくても
それはそれでよい。

解釈し、定義し尽くし、分析され尽くした夢は、
ピンでとめられて標本箱にいれられた
チョウのようなもので、
飛んでいるチョウそのものではない、
と言うのは、
三番目の「夢見る力」という本である。

ターゲットは、元型辞典や夢辞書にあるような
シンボルではなく、
そのシンボルがシンボライズする本体……
ダイナミクスそのものである
と、「夢見る力」はいう。

このダイナミクスを解釈するのではなく
シンプルにとらえること……を、
「夢見る力」では「見る」といっている。

そしてこれが一番大事なことなのだが、
「夢は夜見るものだけではない」ということ。

じつは私たちは四六時中夢をみている。

夜は夢を夢として認識しやすい
というだけの話であるということだ。

この認識には文化的社会的条件付けも大いに影響する。

「夜、夢を見ます」

といってもヘンに思われることはないが、

「昼も夢をみています」

といえば、子供ならともかく、
大人なら十中八九ヘンに思われるだろう。

とどのつまり、私たちは夢をつうじてしか
ものごとを認識することができない。

それをいつしか、夢 VS 現実(実生活)
というふうに分離させてしまったところに
諸問題の元因がある。

この間に橋をかけ、
もともとひとつだったものを再統合しよう
というのがこの本の趣旨だと思う。

「夢見る力」は三冊のなかではもっとも実践的な……
実践を要求される本である。

というより、ただ読むだけで、やってみなければ
この本の価値は半減以下になってしまうだろう。

カバラはたえまない実践の体系だが、
実践こそが、生命の木もセフィロトも、
こむずかしいカバラの哲理も
いっさいでてこないこの本の、
もっともカバラ的なところである。

そういうわけで、
ぼくの実践はまだ半分くらいまでしかいっていない。
残りの半分はまだ読んでいないわけで、
フライング書評であることを
一応ここでおことわりしておこう。

三冊ともに共通していることがふたつある。

ひとつは、
「夢の見かた入門」では「美的体験」といわれ、
「夢見る力」では、冒険談で見つかる宝物、
英雄の勝利にたとえられているが、
腑に落ちる感覚、
なるほど、わかった!という感覚、
最近のコトバでいえば「アハ体験」が、
ひとつの鍵になっているということだ。

もうひとつは、
あなたの夢はあなたが創り出すものである
ということだ。

このブログでも何度か書いてきたが、
夢の扱いを他人にゆだねてはいけない。
他人のいうことを参考にすることはできても、
カウンセラーを含む他人はあなたではない。

あなたの夢をあなたのように解釈できるのは
あなたしかいないし、他人はあなたの代わりに
あなたの人生を生きてくれるわけでもない。

そして、いつも思うのは、易卦の解釈はどこか
夢を扱うことに似ている気がする、ということ。

的確な占断には腑に落ちる、
「アハ体験」が欠かせない。

先生は易卦の扱い方を教えてくれるかもしれないが、
実際に現場で易卦に相対するのはあなただ。

願わくば今宵も
よき夢に恵まれんことを。

おやすみなさい。


たいしたことのない占例の話をします。

朝はいつも、
屋根がついた陸橋を渡って出勤します。

朝のことですので、
ぼんやりと歩いていたのですが、

陸橋の屋根の下、
ちょうど自分が歩いている正面あたりに
三羽の野鳥が騒々しく鳴きわめきながら
飛び込んできました。

三羽の鳥はお互いに
追いかけあうようにして
屋根の下でひとしきりじゃれあって
飛び去っていきました。

別になんていうことのない光景……

といってしまえばそれまでですが。

同じところをいつもとおっていて、
鳥がじゃれあう光景に出会うことは
そうそうなかったと思います。

珍しいといえば珍しいので、
卦をたててみました。

三羽の鳥の三をとって「離」。

騒々しいというところから「震」。

上卦=離
下卦=震

で、火雷噬コウ<コウは口へんに盍>という卦がたちます。
変爻は求めませんでした。

ぼくは占い師じゃない-karaizeikou

三羽の鳥がじゃれあっている、ふだんあまり見かけない光景が、
「火雷噬コウ」というコトバに変換されたわけですね。

なにを意味しているのでしょう。

一般的に噬コウは、
頤(イ=おとがい)から来ていて、
大きく開いた口(頤)に障害物(九四)が
入り込んでいるカタチです。

ぼくは占い師じゃない-zeikouandi

かみくだく、障害物を除く、あるいは口そのものなど、
おおよそ易卦というシンボルがそうであるように、
さまざまな意味にとれます。

占的(ターゲット)がはっきりしなければ、
意味はさだまりません。

で、そのとき考えていたことを、
ロールバックしてみます。

卦をたてたあと、
つらつら思い出してみると、

『玄関のカギちゃんと閉めたかな』

な~んてことを考えてたことに気がつきます。

よくあることですね。

火雷噬コウが、その想いに対する回答だとすると
ちょっとピンとこないですよね。

「かみくだく」ってなんのことだよ、

というわけです。

でも、意味でなく卦のカタチで考えて、
わかりました。

頤は口です。ばっくり開いた口。

扉みたいでしょ。

これ玄関のドアじゃないか、

と思ったわけです。

噬コウは頤に棒が一本入っているカタチ。

棒は閂(カンヌキ。漢字はおもしろいですね)。
ドアにカギがかかっています。

ちなみに八卦だと坎卦について、
同様の観方をすることがあります。

ぼくは占い師じゃない-kannuki

カンヌキのかかった門扉、ですね。

答えになっています。

『ちゃんとしまってるよ』

三羽の鳥はそういっていたのでした。

めずらしくストンと
「腑に落ちた」読みだったので、
記録ついでにアップロードしてみました。

いつもこんなにうまくいくとは限りません。

むしろうまくいかないことの方が多い。

易の世界であまた伝わる名人占のように
超人的アクロバット的にはいきません。

わかんなくて放り出してしまうことも。

まあでも、うまずたゆまず
続けていくことが大事かな、

とも思います。

とはいえ、

あんまりのめりこんで
車にひかれないように
しなければなりません。


「死をデザインする」
ティモシー・リアリー
R・U・シリアス
挧木玲子 訳
河出書房新社

リアリーの本はひさしぶりに読んだが、やっぱりおもしろい。

リアリーは、この本を最後にもう亡くなった。
ドラッグ文化の帝王みたいにいわれることがあるけど、

好き嫌いはべつにして、

いわゆる「精神世界」より以前の……
ヒッピー文化やニューエイジ・ムーブメントに多大な影響を与えた。

ぼく自身はもともとSFをよく読んでいた。

いまからそう……2X年ほど前になるが、
サイバーパンクにハマっていたことがあって、
リアリーの名前くらいは知っていた。

キブスンなんかもよく読んだ。

「サイパンなんか読みやがって」

と、マトモなハードSFファンには白眼視されていたけれど、
かまわず読んだ。

だって、自分が住んでるところ(チバシティ)がでてくるSF小説なんて
そうそうなかったもんなあ。

でしょ?

リアリーの「死」がテーマの本。
アマゾンの書評にもあったけど、元気。
元気な「死」がテーマの本だ。
暗いところはひとつもない。

この本からの「死」の定義のひとつ。

入出力があるところでその人は生きている、

とするなら、

ぼくはチバシティでは生きているが、センダイシティでは生きていない。

つまり、「死んで」いる。

2X年前まえといえば、社会に出たばっかりで……

LISP!Smalltalk!人工知能!ニューロネット!VR!

とまあ、こんなものがブームだった。研究部門だって元気だった。

結局、めだって残ったのは、

マウスとビットマップディスプレイ、デスクトップとイベントドリヴン。
今じゃあ、アタリマエダのクラッカー。

思い出話はともかく、

もし、その人の人格をシミュレートする、自然言語で受け答えができる
死後アーカイブがあれば、
前述の定義に照らして
その人はそこで生きているということになる。

「人工知能」だね。

ルディ・ラッカーは「ライフボックス」とか言ってたけど、
たとえば、
おじいちゃんが亡くなった後に生まれたカワイイお孫さんが、
このライフボックスに

「おじいちゃん、野球やったことある?」

なーんてきくと、「おじいちゃん」が

『そりゃおめえ、この国で野球やらないのは、
ポリ公と金物屋のくそジャックくらいなもんだぁ、
ふぇっ、ふぇっ、ふえっ』

と、こたえてくれるというわけ。

警官と、居酒屋でいつもいがみあっていたジャックは、
じいさんの「二大・嫌いなもの」。

質問にダイレクトに答えないことと、
たいしておもしろくないジョークをいうのは
じいさんのクセ。

システムはデータプールを参照して、ビミョーなクセもシミュレートする。

それでふと、

カミとペンなんていうローテクでも、
ひょっとして同じ(ような)ことができるんじゃないか、と思った。

まあ、かみさんより先にぼくが死ぬと仮定して、
かみさんにありとあらゆる質問を書いてもらって、
ピンシャンしているうちに、ぼくがそれにすべて答えたノートをつくる。

忘れた頃にききたいことがでてきたら、そのノートをみてもらう。

ライフボックスのようにスマートにはいかない。
ノートにのっていない質問だってある。
そこはローテクだからしょうがない。
イマジネーションでおぎなってもらう。

まってくれ、それって遺言書?

ちょっとちがう。

遺言書は、ザイサンはどーするとかソーシキはこうしてくれとかいった、
どちらかといったら無味乾燥な特定の質問に答えるものだ。

もちろんそんな質問もいれてよい。

遺言書はこの……なんて呼ぼう、
「ライフ・ノート」の一部、サブセットということ。

トラブルのもとになった話はよくきくが、
のこされたものが遺言書で癒されたという話はあまりきかない。

ここがライフ・ノートとちがうところかなあ。
もっとも質問/答えの内容によっちゃあ、トラブルのもとにもなる。

答えがあっているあっていないは関係ないが、
ふざけて答えてはいけない。

全力でそれらの質問に答える必要がある。

質問もあとでつかえる(くりかえしききたくなる)ようなコアな質問がいい。

そりゃ、

「なんで歯磨く前にトイレにいくんですか」

なんて質問があってもかまわないけど、
こんな質問はあってもなくてもいいだろう。

で、ぼくの死後、かみさんは、

『やつならなんていうかな』

と、きいたいことがでてくると、ノートを開く。
これが入力。

ぼくはノートの記述で答える。
これが出力。

ぼくはそこで生きている。

できれば死ぬずいぶん手前から書いておいて、
答えもつねに更新しておく。
もののみかた(答え)は、時とともに変わっていくものだから。

常に最新版であることがのぞましい。

こうなるとやっぱりハイテクが必要かなあ。
せめてプレーンテキストくらいはハンドリングできないと。

ASP(*)の力をかりてなんとか……

blogの機能でできるかも。
いってみれば、
特定の人ひとりにしかみせないblogだもんね。
でも管理者は、みるとはなしにみるだろうなあ。

やっぱ、はずかしい。

実際のところは、どっちが先に逝くかなんてわからないから、
夫の質問/妻の答えバージョンのライフ・ノートも必要だろう。

ところでこれ、なんかににている。

質問と答え。

Web検索?キーワードと結果。

まあ、それも確かにそうだけど、

易システムもそう。

質問と(立卦して)、答え。

かみさんには易の勉強でもしてもらったほうが早いし、応用がきくかな。

かみさんにはまだこんなこと、はなしていないが、
たぶんめんどくさがって(ていうか、キモチ悪がって)、
つきあってくれないだろうなあ。

リアリーさんは、本もHPも残っているようだからよかったね。

彼はそこで依然生きている、ということになる。

***

すいません、たった一冊の本の紹介で
またずいぶん脱線しちゃいました。

ではまた。

(*)ASP:アプリケーション・サービス・プロバイダ

「シンクロニシティが起きるとき」
スーザン・ワトキンス 著
佐藤志緒 訳
VOICE

のっけからこんなことをいうのは気がひけるが、とくに目新しいことが書いてあるわけではない。
ハウトゥ本としてとらえるとしても、目から鱗のすごいやり方満載!というわけでもない。

では、なにがおもしろいのかというと、「シンクロニシティ」という一つの言葉でくくられてはいるが、この本で紹介されているのは、実は個人の内面的生活全般の話である、というところだ。

そんなわけで、夢や想念のキャプチャ、それらによる一種の予知、テレパシー、死者からのメッセージなど、とりあげられている現象は多岐にわたる。一概に分類できない現象も多いが、ここに書かれているすべては人間(主に著者)の内面世界と外界との関わりにおいて生じている。

物事の意味はかならずそこに人間がいて成立する。

みんながみんな、まったく同じひとつの世界を共有しているにようにみえるが、深いところではそうではない。

もちろん共通部分もあって、常識(まさしく「コモン」センス)やコミュニケーションなどはそのレベルおよびその周辺で成り立つ。唯識ではこれを「器世間」という。合意の上に成り立っている「うつわ」である。

しかし、深いところにおける実態においては、各自独特の世界観、ものの観方がそれぞれの人にある。

つまるところ、そこに人がいなければシンクロニシティは起きない。人がいなくてもなにかは起きるだろうが、それをシンクロニシティとはいわない。

外界の認識は内面世界において行われる。

その意味からいえば、人は自分の内面世界から逃れることはできない。そして、「じぶんでじぶんのかたちをさがそう」でも書いたが、この内面世界には各人独特の「かたち」が存在する。

この本の記録を眺めていると、その「かたち」の柔軟性を問われているような気がするのだ。

あまりガチガチに固まって、いついかなるときも特定のかたちでしかものごとをとらえられないのは困る。
そうかといって、逆にフニャフニャでは、外界の認識がしょっちゅう変わって、なにが起こっているのかわからなくなってしまう。

まあ、適度なしなやかさのある「かたち」が理想ということだろう。

いくつか気がついたことを。


☆「できすぎ」ぐらいがちょうどいい。

かみさんが同じ本を読んで、「これちょっとできすぎじゃない??」といっていた。

そうかもしれない。

だけどこれくらいのことがなければ「シンクロニシティ」とはいわないのかも。

どれぐらいが「これくらい」なのかは本を読んでほしいと思うが、針小棒大にとらえるというか、単なるパターン認識とシンクロニシティをごっちゃにして、なんでもかんでも「シンクロ」にしてしまうのもどうかと思う。

パターン認識につかわれる「かたち」とシンクロニシティの「かたち」はちがう、ということだろう。

この点にについては本の中でふれられている。


☆「ふとした思いつき」の積極的利用

このブログでもなんどかふれたが、わたしたちは一日それこそ無数のことを「ふと思う」。

もちろん全部をひろいあげるわけにはいかないから、そこから一定の基準で選択することになるのだが……

どれを選んで記録に残せばいい?

これも明確な基準をさだめることはむずかしい。

なにをもって、「これひかえておく必要があるな」と思わせるかは、各人の中にある「かたち」による。


☆シンクロニシティの「かたまり」

シンクロは単発で起きることもあるし、連続的な「かたまり」として起きることもある。
これはこの本で知った、とても興味深いシンクロニシティの「かたち」である。

タロットなどでもそうだと思うが、易システムを利用していると、この縮小版のようなことが起こることがある。
時を変え、場所を変えて、比較的短い間に同じ卦に、なんどもなんどもでくわすような場合がそれだ。

あきらかになんらかのメッセージ性があるような気がするのだが、たいていの場合、記録することをおこたっていたり、そのメッセージをさぐろうという姿勢も維持できない。
ある日、ふと我にかえると環境の奴隷に逆戻りしている自分に気がつく、といったあんばい。


☆「かたまり」は更新される

シンクロニシティの「かたまり」は時を経て、新たな出来事を付加されその意味がより明らかになったり、深みがましたりすることがある。

この「かたち」は、長年にわたって系統的に記録を取り、シンクロニシティの意味をさぐる情熱を持ち続けることのできた著者ならではのものだろう。

ただこれ、ここまでの認識に至るのは、だれにでも真似できることではないような気がするが……

なんか、ユニークなソフトでもあれば、
長続きするかもしれないなあ(ぼくの場合は)。


☆記録すること

ノートでもなんでも、
まずは「記録する」こと。

これが、大前提である。

とはいえ、その場その場の想念や感情、出来事が、時を越えて縦横にリンクする可能性のあるシンクロニシティをとらえるには、ノート形式のリニアな記録にも限界があるのではないかとも思う。

なにせ2000年開けこの方、こういった類のことが起こる頻度は加速され、情報はどんどんオープンになっているそうだから、もっとつっこんでシンクロニシティを調べようとすると、この本で紹介されているノートやリマインダーだけではカバーしきれないときがくるかもしれない。

なにかもっと俯瞰的な、マトリクスとして日常世界をとらえることのできるツールが必要だと思う。

記録は「時間」と切っても切れない関係にある。

時間は決してリニアでも有限でもない。
「銀河ツール」や「みわたす手帳」、「マンダラート」「マインドマップ」など有望なツールはいくつかある。

内側にしろ外側にしろ、これらはすべて世界をとらえる「かたち」である。

ここはやっぱり、マトリクス的に、俯瞰的に、事象のリンクおさえられるようなアプリケーションがほしいところだ。

現状入手可能なアイディアプロセッサの類を探してみれば、適当なものか、あるいはそれに近いものがみつかるのかもしれない。
開発者はまさかシンクロニシティの記録・俯瞰のために、自分のソフトが使われることは想定していないだろうけれど。

パソコンをなにに使おうとそれは各個人の自由だ。

だけど、30年前には想像すらできなかった広大な記憶空間とハイスピードを単なるネット端末や映像再生装置として娯楽的にだけ使うというのは、あまりにももったいなくはないだろうか。

パソコンは「パーソナル」コンピュータの略だ。

娯楽だってもちろん「パーソナル」なものだが、シンクロニシティや生きる目的、人生の意味も、「パーソナル」なものなのである。

最近は、クラウド・コンピューティングと、ネットブックがトレンドらしいが、OASYS-POCKET、palm、PSIONなど、ぼくがいままでつかっていたいわゆる「モバイル」機器が、ネットワークにつながっていたことは一度もない。

いや正しくは、palmはモデムを介してメールチェックにつかっていたことがあったが、じゃまくさいのでそれもすぐにやめてしまった。

「モバイル」でネットにつながないんじゃ意味ないんじゃないの?

といわれそうだが、ぼくの場合はそんなことはなかった。
というのも、ほとんどがテキストデータの入力に機器の用途が限られていたからだ。
メモ自体は手書きでとることの方が多い。
そういうメモをデータとして清書したり、もちろん電子機器で直接文章を書いたりもしていた。

テキスト打ち込むだけだったら、なおさらモバイルである必要はないんじゃないの?

これがぼくの場合はそうではなくて、やはりいろいろな場所で、雰囲気の違うところで、文章を書きたいのである。
せますぎるので電車の中でやる習慣はないが、こぎれいな公園もいいし、喫茶店もいい。
たま~の旅行で、旅先でやるのもいいし、コーヒーショップはとくに作業がはかどる。

家の中でだって移動する。

「ちょっと、そこ掃除するんだからどきなさいよ」
「はいはい」
「なんであたしの席にいるのよ」
「はいはい」
「あたしのパソコン使わないでよ」
「はいはい」

ふだんつかっているのはノートPCだから、それ持ってうろつけばいいのだが、バッテリーはとうに干上がっていて、コンセントは必須だ。エヴァンゲリオンのヒモみたいな電源コードがうっとうしい。

それに、とりあえず活字を打ってみたいという欲求はいつおきるかわからないところがある。

そうこうしているうちにやがて……

OASYS-POCKETも、palmも、PSIONも目の前を通り過ぎてゆき、過去のものになってしまった。
B5サイズのノートPCを使ってみたりしたが、重いし、たちあがりは遅いし、エヴァンゲリオンと同じように(しつこいな)稼働時間に限界がある(いまはだいぶ長くなったみたい)。
テキストだけ入力できればいいのに、これじゃまるで自転車で行ける角の文具屋に装甲車で出かけるようなものだ、と思っていた。

そのうち、ハンディなテキスト入力専用のマシンを夢想するようになった。エディタとちょっとしたファイル管理、それとマルチカードリーダーが合体したようなマシンで、以下のような機能が「ない」。

通信機能。
かしこい辞書。
組み込みの最低機能以外のアプリの利用機能。
ゲーム。
画像表示。
音楽再生。
スケジュール管理。
バックライト。

要するにテキスト入力ができて、ファイルをメディアかUSBに吐き出せるだけ。できればそこらへんで売っている電池で長時間動いてほしい。

機能はとにかく最低限にしぼって、その分、普段持ち歩きたくなるようなステキなデザインにして……などなど。ご丁寧なことに「タブララサ」なんていう商品名まで考えていた(ひまなんだな)。
企画書まで書いたわけではくて、まあ、もちろん、アタマの中で思っていただけだったが……

モウカルこと以外、基本的には実現不可という現行の社会システムからいっても、いくら待ったってそんなマシンなど出るわけもない。

やがて、そんなことなど忘れて、モレスキンと万年筆に戻り、結局のところ、紙のノートと筆記具、これが究極のモバイルだぁ、などと思っていたら、このあいだ「タブララサ」に非常に近いマシンを見つけた。

それもヨドバシのような量販店ではなくて、丸善の文具売場。

「タブララサ」ではなくて、「pomera」というその機械の、とりあえずカタログだけもらって家で調べてみる。
まだ出たばかりの機器で、IT機器ではなくて電子文具のカテゴリにはいるものだ。
つくったのは、あのごっついファイルでおなじみのKINGJIMである。

ぼくは占い師じゃない-pomera01
(「ぽめら」。なんか、あまりかっこよくはないかも。専用のフルキーボードにささったpalmを彷彿とさせる)

アマゾンのコメントなどを見てみると、おおむね好意的なものが多く、ああ、なんだ、ぼくのニーズというのもそんなに異常なもの(笑)ではなくて、同じこと思っていた人たちもたくさんいたんだなあ、と感じた次第。

考えてみたら、あたりまえ?

ブロードバンド全盛の世の中なのかもしれないが、大半の情報は相変わらずテキストでやりとりされているし、情報の質や深度といったものは、単なるバイトサイズやスピードでははかれないところがある。

細かいことを言い出したらきりがないが、使った感じは悪くない(細かい使用感などはそれこそアマゾンのコメントなどを参照してください)。


ぼくは占い師じゃない-pomera02
(「ぽめら」。たたんだ状態。ほとんど文庫本サイズ)

値段も手頃というか、定額給付金+アルファといったところだ。
定額給付金も、「またぞろくだらねえ政策考えやがって、税金まけたほうがええんちゃうか」などと近所のスタンドバーでみんなでけちょんけちょんに言っていたが、いざオカネがもらえるとなるとやっぱりうれしいのである。

そう、ぼくは人一倍炭酸ガスを吐き出す俗物なんである。

別にITオタクでもなければテクノロジー中毒でもないが(と、おもう。かみさんはどう思っているか知らない)、進化のフローに適合するものであればテクノロジーは必要なステップだと考えている。
少なくとも、テクノロジーのすべてを放り出して後戻りすることはできないだろう。
テクノロジーは障壁ではなく、踏み台、プロセスなのだ。

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(文庫本サイズなんだから、文庫本カバーにはいるだろうと思ったら本当に入った。写真は無印良品の文庫本カバー)

ところで、KINGJIMさんはこの機械でモウカっているのだろうか。
モウカってほしい、と切に願います。

インフォーム(Inform)というと、名詞形がインフォメーションで、「知らせる、通知する」という意味になります。

実はこれ、原義はin-formで、「~に形作る」ということです。
もう少しくだけていえば「形にはめる」といってもいいかと思います。

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この時期になると、歩道の片隅などで花ニラが白い可憐な花をつけているのをみかけますが、園芸好きな人だと、『これは花ニラで、ふつうにぼくらが食べるニラはこの二ラの変種で……』などという形にはめるのでしょうが、幾何学に興味のある人だと正三角形がふたつ重なった形か、あるいはいわゆる六芒星か、正六角形か、そんな形にはめるのでしょう。

こんなことを書くのは、実際に園芸に詳しい人とこのあいだの(といってももうずいぶんたちました)花見のときにそんな話を聞かされたから。
幾何学のほうは、読んだ本(*1)に以下のような一節があったからです。

『古典幾何学という異国の大使かつ通訳としてのコクセターの足跡を追ううちに、読者は、いつしかコクセターの視点という新しい強力なレンズを通して世界を見ていることに気づくだろう。そこから見えるのは、万物が幾何学の形と影を帯びるハイパーテキストのような世界だ』

一般に「形にはめる」「形にはまる」というと、ひとつのパターンに固執したり、そのせいで視野が狭くなるなど、あまりよくないことというイメージがあります。
ですが何事も「形にはめ」ないとわからないのが人間というもののようで、まったくつかみどころのない、のべたんのノッペラボウでは、それがなんなのか認識すらできません。

認識できないということは、なんだかわからないそのことを「伝える」こともできないので「形にはめて」=パッケージングして伝えて、初めて『ああ、なるほどな』ということになる。

そんなわけで、伝える=イン・フォーム(形作る)という意味になるのでしょう。

もっとも、相手がその形にまったくなじみがなければ、いくら丁寧に形作っても内容を相手にインフォーム(伝える)することはできません。

技芸の世界では「形から入る」ということがよくありますが、この場合は、まずきちんと形にはまっていないと、技術として完成させることはできない。こうなると形にはまるということは悪いことどころか、技術をのばす前提であり、とりあえずは形にはまってくれていないと困るということになります。

そこらへんのことは易システムではどうなるのでしょうか。

まずは下の図をただたんにみていただきたいと思いますが……

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上から、切れた線3本とつながった線2本、一番下が切れた線一本。
ただそれだけのものです。

では、これではどうでしょう。

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「升」という字が書かれています。これはこの記号全体につけられた名前です。
「升」は、物を量るためのマスをあらわす字ですが、ここでは「上昇」の意味です。

今度はこの記号の成り立ちを考えてみます。最初の切れた線が基礎になって、積み上げ式でこの記号全体が成り立っていると観ます。

(1) 最初の切れた線
(2) 線2本でできた単位
(3)(4) 線3本でできた単位

それぞれに「たとえば」以下の図に示すようなキーワードが対応していたとします。

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なにか意味ありげになってきましたね。

それでは、この「升」という記号全体が、あるひとりの人を表すとしたらどうでしょう。

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下から上への積み上げ式で記号を観るということでしたから、(4)が、この人における、一番目に付く部分です。それから下、(3)、(2)、(1)へと、構成単位はどんどん見えにくくなり、閾下、本質的になっていきます。

こうしてみるとその人の人格というか人柄というか性格というか、そんなものがこの記号から読み取れそうな気がしてきますよね。

6本の切れた線またはつながった線の集まりでできた記号を、

上で書いたような「単位」として観る、
各単位に特定の意味をわりふる、
全体をある「人」として観る、

こういったことはすべて「形にはめて」いる、ということです。「形にはめる」ことによって、わけのわからなかったものは具体性を帯びてきます。

この「形にはめる」という作業こそが、易システムにおける「占う」という行為の本質です。

一般に易がとっつきにくいのは、この記号の抽象度の高さもさることながら、「形にはめる」ということのバリエーションがそれこそ無数にあるからです。

とっつきにくく、自分で勉強するのも大変そうですから、専門家に観てもらうということになる。

ではもし、この例になっているある人が「あなた」だったらどうでしょう。

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くりかえしますが、易システムでは「形にはめる」やりかたは無数にあります。

これをいっちゃあおしまいですが、裏をかえせばどうとでも読めるということでもあります(もちろんそこに一定のルールはありますが)。

ここにあるのは、だれか知らない第三者ではありません。

ほかならぬ「あなた」です。

形にはめ、そこから意味を読み取る作業をリーディングといいます。

さて、そのような状況下で、リーディングをひとまかせにできるでしょうか。

もちろん専門家は必要です。

他人に観てもらうことではじめて気づくことも多々あります。
誠実な専門家が与えてくれる情報は非常に有用なものです。

しかしそれでも、その彼女または彼が与えてくれた情報を咀嚼するのはあなたです。

専門家はあなたではありません。

あなたの代わりにあなたの人生を歩いてくれるわけでもありません。
あなたのように感じ、考え、リーディングできるのはあなたしかいません。

自分本来の力/能力を自分に取り戻すことをセルフ・エンパワーメントというそうですが、最終的に読むべき本は、丸善でも紀伊国屋でもなく自分の中にあるように思いますが、あなたはどうお感じになるでしょうか。


(*1)「多面体と宇宙の謎にせまった幾何学者」
ジュボーン・ロバーツ著
糸川 洋訳
日経BP

シンギングボウルがうちにやってきた。

以下の写真のようなもの。

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錫、水銀、鉄、銅、鉛、の合金でできた鋳物である。

本来はこれに、太陽の金と、月の銀が混じるらしいが、
コストのこともあってぼくのうちにあるものには入っていない。

チベットのお坊さんが宗教儀式の際に用いる法具のひとつ、
ということなのだが、最近はヒーリング目的で使われることも多いらしい。

こういうものがあるのは知っていたけれど、
アジア雑貨の店や書店の片隅で見かけていたので、
なかなかそこで手に取って鳴らしてみる、
というわけにはいかなかった。
また、そういうところでは、
そんなにたくさん置いてあるわけでもないので、
選択の余地もない。

ネットなら、幅広い選択の余地はでてくるが、
画面のむこうはさわれない。

まあ、しかし、実際に手に取って鳴らしてみないかぎり、
自分にあっているかどうか、ほんとうにぴったりくるものを
選ぶことができないのもまた事実。

そんなことで、気にはなっていたけれど
ずっと放っておいたシングングボウルだったが、
このあいだたまたまネットで、
ノルブリンカ というチベット・アートを扱うギャラリーをみつけた。

そこでは、たくさん置いてあるシンギングボウルを、
実際に手に取って、鳴らして、選ぶことができる。

ぼけ~っと検索していたのが、2月21日の夜で、
たまたま(ほんとうに「たまたま」?すごいなあ、連続GAPの日)、
22日まで「シンギングボウル展」というのをやっているというので、
あわててメールして出かけてきた。

スタッフの秋山さんという方が非常に親切に対応してくれて、
たまたまそこにいたお客さんたちを集めて、
シンギングボウルのミニ・ワークショップまでやっていただいた。
(後日、指圧にまで来ていただいて、どうもありがとうございました)

ボウルはひとつひとつ手作りなので音も当然ちがう。
たたいて鳴らすのは簡単だが、
スティックでフチをこすって共鳴させるやり方だと、
同じ人がやっても鳴ったり鳴らなかったりする。

月並みな表現だが、「生きているよう」なのだ。

毎日の瞑想のとき鳴らしてみたりするのだが、
時間をかけて選んだだけあって
(小さなギャラリーなんですが2時間以上遊んでました)、
やっぱりいいなあ。

もちろん「音」を聴くのだが、
山水画の余白や、
瞑想時に、流れる想念の背景を観るように、
これもやはり、音そのものというより、
その余韻とその後の静寂を聴くものだと思う。

30年近く前の本を紹介しよう。

COSMOS 上・下
カール・セーガン著
木村繁訳
朝日新聞社
1980年初版

「コスモス」ってなに?

wikiの説明が簡潔なので引用する。

『コスモス(COSMOS)は天文学者のカール・セーガンが監修し、1980年にアメリカで初放送されたTVドキュメンタリー。米国にて放映された後、日本では、朝日放送創立30周年記念番組として1980年11月3日-12日にかけて午後10時・11時台に放映された。』

この番組の書籍版が、冒頭で紹介した本だ。

番組は観ていたが書籍は30年この方まともに読んだことがなく、その上下巻がブックオフの100円コーナーでさびしそうにしていたので、買ってきたのが去年の秋ごろ。
寝る前にちまちま読み続けてこの間やっと読み終わった。

内容は一見脈絡なく宇宙と人間の在り様・歴史について書かれているようにみえるが……、

実はそれだけのものではなく、人間という存在を「宇宙全体」という枠組みからとらえつつ、「人間は生き延び、進化する責務を宇宙に対して負っているのではないか」という力強いメッセージに収束している。

壮大なパースペクティブで描かれた人間の存在と歴史(主として西洋の)の最後に来るのが核戦争の恐怖に関する記述で、視点は一気に何億光年の話から何千キロの話に移るが違和感はない。
なぜならそこまで読み進むころには、「私たちはナニモノであるか」が語りつくされているからだ(もちろん「科学」の観点から)。

以下「13.地球のために」から引用。

『核戦争の激しい発作が起こって、すべての核兵器が使われると100万個の広島原爆が全世界に落とされたのと同じことになる。広島では10万人ほどの人が13キロトンの原子爆弾で殺されたが、その率でいくと、全面核戦争のさいには1000億人が殺されることになってしまう。しかし、20世紀後半の今日、地球上には50億人以下の人しかしない。』

見積もりは雑駁かもしれない。
データも古い。
状況も変わった。

しかし、人類が核兵器を保有していることの危険度は変わっていないのではないだろうか(むしろ、増している?)。冷戦という言葉がメディアでとりざたされることがなくなるとともに、上記引用にある核兵器も消えてなくなってくれていればうれしいが、そんなことはないだろう。

どこの箇所でだったか忘れたが、「アメリカはなるべく核を保有しないように働きかけている。ただし自国を除いて。このことを公言するのはこの国(アメリカ)では勇気がいる」といったことも書いていた。


30年前の本なのでデータはところどころ古いが、それでもこの本のもつインパクトはまったく色あせていない。

個人的には、ものごとには目に見える(測定できる)側面と、目に見えない側面があり、どちらにもバランスよく比重を置き、扱うことが大切だと感じている。
そういう意味では、セーガン氏のこの本は半側面しか語っていないようにみえるが、カール・セーガン氏は神秘家でも哲学者でもなくなにをおいても科学者である。

目に見える側面を専門に扱う分野……科学からは、どこをどうつついても虚無主義しか出てこないのではないかと思っていたのは大きな誤解で、「科学」という物語は才覚のある語り部の口からつむがれさえすれば、100パーセントではないにしろ、ここまで生きる意味や目的を説明してくれるのである。

以下「13.地球のために」から引用。
『私たちの忠誠心はまず、自分自身に対する忠誠心であった。それが、自分の直系の家族に対する忠誠心となり、次には、放浪する狩猟・採取者の集団へ、そして種族へ、小さな村へ、都市国家へ、そして国家への忠誠心となっていった。』

この「忠誠心」という言葉は、「自己の境界」といいかえてもよさそうだ。

「あなたは今、どこからどこまでが「自分」だと思いますか。
体表の皮膚で区切られたその内側だけですか。
パートナーの痛みを自分の痛みのように感じますか。
家族はどうですか。
職場の仲間は。
会社(お店)全体ではどうですか……(以下続く)」

と、いうわけだ。

さらに、こう続く。

『もし、私たちが生き延びなければならないのなら、私たちの忠誠心をさらに広げ、人類社会全体を対象とするものにしなければならない。』


この本が書かれたのは約30年前でセーガン博士は自身の自伝的映画「コンタクト」を観る前になくなられたが、本は古本屋でまだ容易に手に入るようだ。

なくなった方の声を間近に聴くことのできる本というデバイスはまったくすばらしい。

ご興味のある向きは一度くらい目を通しても損はないと思う。

デジカメではなくて、
こういうフィルムの写真だと、
すぐにイメージをみることはできない。

55分待てばできる……
というものでもなくて、
ぼくの場合、36枚撮りなら、
フィルムをすべて使い切るまでに約1ヶ月かかる。

どういうつもりで、どういう気分で、何を撮ったのか。
写真ができあがる頃にはすっかり忘れてしまっているので、
できあがった写真を見てつらつらと推測するしかない。

時間がイメージを変質させてしまっているわけで、
この感覚は、なんとなく、今朝見た夢を思い出すのに似ている。



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【シンキバ・ランドスケープ】

線路と周囲の風景は写っているが、
「うごきつつあるもの」は
数本の光条になってしまっていて、
かたちをとどめていない。
「うごきつつあるもの」は、
人と人を満載した列車であるわけだが。

意識のあるところに時間は存在する。
線路も線路にひかれた砂利も、
列車も人々もビル群も、
それぞれ個別の時間を紡ぐ。



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【伐ってはいけない】

都内某所の駐車場だが、
いかにも不自然な場所に、一本の樹が屹立する。
他にも何箇所かこういう場所を知っているが、
古い場所ではやたらと伐れない樹があるのだという。

ここには二つの時間が並存する。
「樹」の時間と、駐車場の時間。



ぼくは占い師じゃない-lomo012
【渓谷】

お茶の水はかつては渓谷だったという。
いまや、23区内の渓谷は、
いつぞやこのブログでもとりあげた等々力渓谷だけ。
これも時間のなせるわざか。



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【OAZO・マルノウチ】


ぼくは占い師じゃない-lomo014
【赤レンガ・ランドスケープ】

あらためて撮ったものをみてみると
やたらと人工物が多い。

自然でないもの……といいたいところだが、
人間もまた自然の一部ではなかったか。
となると人の手によるものも自然、とはいえまいか。


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【駐車場の樹】

埋立地に植えられたこの樹は、
自然か、それとも自然でないものか。

いや、その前に、
OAZOの構造物と、この樹は、
どちらが寿命が長いのだろう。

寿命があるところにも時間はある。

はたして時間は、「自然なもの」なのだろうか。