こういうフィルムの写真だと、
すぐにイメージをみることはできない。
55分待てばできる……
というものでもなくて、
ぼくの場合、36枚撮りなら、
フィルムをすべて使い切るまでに約1ヶ月かかる。
どういうつもりで、どういう気分で、何を撮ったのか。
写真ができあがる頃にはすっかり忘れてしまっているので、
できあがった写真を見てつらつらと推測するしかない。
時間がイメージを変質させてしまっているわけで、
この感覚は、なんとなく、今朝見た夢を思い出すのに似ている。
【シンキバ・ランドスケープ】
線路と周囲の風景は写っているが、
「うごきつつあるもの」は
数本の光条になってしまっていて、
かたちをとどめていない。
「うごきつつあるもの」は、
人と人を満載した列車であるわけだが。
意識のあるところに時間は存在する。
線路も線路にひかれた砂利も、
列車も人々もビル群も、
それぞれ個別の時間を紡ぐ。
【伐ってはいけない】
都内某所の駐車場だが、
いかにも不自然な場所に、一本の樹が屹立する。
他にも何箇所かこういう場所を知っているが、
古い場所ではやたらと伐れない樹があるのだという。
ここには二つの時間が並存する。
「樹」の時間と、駐車場の時間。
【渓谷】
お茶の水はかつては渓谷だったという。
いまや、23区内の渓谷は、
いつぞやこのブログでもとりあげた等々力渓谷だけ。
これも時間のなせるわざか。
【OAZO・マルノウチ】
【赤レンガ・ランドスケープ】
あらためて撮ったものをみてみると
やたらと人工物が多い。
自然でないもの……といいたいところだが、
人間もまた自然の一部ではなかったか。
となると人の手によるものも自然、とはいえまいか。
【駐車場の樹】
埋立地に植えられたこの樹は、
自然か、それとも自然でないものか。
いや、その前に、
OAZOの構造物と、この樹は、
どちらが寿命が長いのだろう。
寿命があるところにも時間はある。
はたして時間は、「自然なもの」なのだろうか。