ぼくは占い師じゃない -44ページ目

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

○ テレクトノンふたたび

黄色い自己存在の種の年
スペクトルの月
黄色いスペクトルの種の日。

黄色い年、黄色の日、
魔術のカメの日。

グレゴリオ暦ではせんだっての
ゴールデンウィーク中にあたる。

飲み友達のMさんが酒を持って家にきた。

お互いの近況が肴。
Mさんと飲ると気分がよくなる。

ぼくは例によってまた途中で、
よくわからなくなってしまう。

まあたぶん前世でもこうやって
ふたりで飲んでいたのだろう。

酒は好きで適当に量も飲むが、
じつは弱いのかもしれない。

ええと、酒のハナシじゃなくて……

そんな中、テレクトノンの話が出て、

ぼくのは人に譲っちゃったんですよ~、

てなことを言ったら、Mさんが
「うちにあるよ」と言うので、
酔ったイキオイで思わず、

「じゃ、ください」

といってしまった。

ほどなくして、立夏。

青い磁気の手の日。

テレクトノンがとどいた。

磁気は必要なものを引き寄せ、
「手」はバーチャルなものでなく、
実際にふれられるものをあらわす。

ぼくは占い師じゃない-テレクトノン

テレクトノンはボードゲームだ。
勝ち負けのないゲームである。
ボードには「意識の平面」に、
模式的にあらわされた太陽系と、
地球と天王星をつなぐ
「通話管」が描かれている。

テレクトノンは暦のゲームだ。
「通話管」は13月の暦のひと月を
カウントできるようになっており、
そこには人類がたどってきた歴史が
フラクタルに圧縮されている。

テレクトノンはラブストーリーだ。
映画のように観客席から
それをながめるのではなく、
あなたは自らその中に参加する。

しばらく遠ざかっていたけど、
改めてやってみると、やっぱりいい。

なにが?

ときかれてもうまく説明できないけど、
自分がそこに参加しているところ……
かな。

RPGをするために
ディスプレイに灯を入れ、
マシンを立ち上げる必要はない。
テレクトノンという
ゲーム/クロノメーターがあれば、
日々の生活/その積み重ねである
わたしたちの人生は、
そのままRPGになる。

「自分が参加して創るストーリー」
といえば、もうひとつこんなのがあった。


○ 話はサバ折り的に、また易システムへ

ぼくは占い師ではないが、
自分で自分のことはよく占う。

眼前にあらわれるシンボルは
切れた線とつながった線のデジタルで、
観ようによっては何にでも観えるし、
経文には吉凶悔吝が
書いてあることもあるが、
いったいに易の経文は謎めいていて、
とおり一遍の解釈を許さない。

こういう易独特の特徴は、
いつもつかっていない
どこかの筋肉を使うことを
占者に強いる一種のヨガである。

易経は聖典である、
というのは前にも書いたが、
その構造においても
他の聖典とくらべて特殊だ。

翼伝をのぞくその内容には
全体をつらぬく「物語」という
枠組みがない。
もちろんあるひとつの大成卦の中や、
爻辞の文中にささやかなストーリーが
あることもあるが、
全体をつらぬくお話は、ない。

すべてが断片的、リファレンスであり、
読む順番はきまっていない。

なぜこんなことになっているのか。

それはたぶん、問いをたてて占い、
ある特定の大成卦を無作為に選ぶ、
その作業が前提になっているから……
だろうと思う。

この聖典には、
全体をつらぬくストーリーがない。

ストーリーはシステム・ユーザが
独自に創りあげていくものなのだ。

経文のほんとうの意味は、
システムを実地に使ってみなければ
わからないもので……
それも一定していない。

万事フレキシブルで可塑的である。

易が森羅万象を語る仕組みのカギは
たぶんこんなところにあるのだろう。

いやまて、森羅万象を語っているのは
ほんとうに易システムなのだろうか。

どんなことでも識っているのは
ほんとうはだれなのだろう。

安焼酎に溶けていく氷を
ぼんやりながめる夜。

ときにはそんなことも
考えてみるのである。

……って、
酒のハナシじゃん、結局。

「平行的な知覚に忍び寄る技術」
ルハン・マトゥス 著
高橋 徹 訳
ナチュラルスピリット

なんの予備知識もない状態で読みはじめたが、
なんとも奇妙な後味を残した本だった。

まず、なにが書いてあるかさっぱりわからない。
一応書いてあるのは日本語なんだけど。

日常的な意識・知識ではまったく理解できない。

「読む」という作業についてだけいえば、
はっきりいって苦痛である。

だから、おすすめはできない。

似たような感覚は、P.K.ディックの作品や
A.ベイリーの著作を読んだときにも
感じたような気がする。
このふたつを同列にならべるのもなんだが。

出てすぐ読んだからもう半年になる。

上記のような事情だからアマゾンのコメントも
現時点で、まだひとつしかついていない。

曰く、「不必要に難解」。

けだし、ごもっとも。

けどこうして
「書棚」のテーマでこの本のことを書いているのは、
やはりその読書体験が興味深かったからである。

しんどかったけど、
わからないけど、
なんだかしらないけれど、
結局最後まで全部読んでしまった。

ぼくはドンファンも呪術もしらない。
加えて、日常的理解のおよばない内容だから、
以下は、ぼくのまったくの独断と偏見と、
とりとめのない主観的経験ということになる。

ご容赦ください。


○ 平行的な知覚

日常的な意識の流れとは別に、
普段は知覚できないもうひとつの流れがある。

「夢見」の状態がそれ。

流れが複数(多重)であることについては、
確かにそうだと思う。

ぼくらは一般に、目覚めた状態にウエイトを置きすぎる。
ひょっとしたらそれは
全体のほんのわずかな一部分かもしれないのに。

この本を読んでいる間は奇妙な夢ばかりみた。

どんな夢だったとはうまくいえない。
著しく具体性に欠ける夢で、
自分のあずかり知らぬところで、
自分自身について、
なにかが起こっているような夢。

なにやらとてつもないこと・ものを
流し込まれたような気がする夢もあったが、
それがなんなのかさっぱり思い出せない。わからない。
ただ何かが起きていたという感覚と疲れだけが残る。

そんな感じ。

まあ、本を含めて、外部の刺激からは
影響を受けやすいたちなので、
それだけの話かもしれない。

でも、人生はふだん思っているより
重層的であることはまちがいなそうだ。


○ 忍び寄る

そもそもなぜ「忍び寄る(ストーキング)」
必要なんかがあるのだろう。

それはたぶん……

「忍び寄る」対象が微妙なものだからだろう。

POPにおけるフラートや、
筮竹を使わず卦をたてるときの材料選び、
なにかがおるき前兆(サイン)、デジャブ……

こういったものはふつうに日常的な意識を向けたとたん、
縁日で口に放り込んだワタアメのかたまりみたいに、
消えてなくなってしまう。

「影」についてのてがかりもまたしかりで、
日常生活レベルよりもはるかに精妙な領域で起きることだ。

粗っぽく、ふつうにつかみとるわけにはいかない。

蚊を落とすのにバズーカ砲はつかえない。

だから、「忍び寄る」。


○ 影

物語の大半はこの「影」との苦戦について
書かれているような印象を持った。

「影」は、
(ぼくの勝手な解釈では)
「区分/分離」かすすんだ
ソウル・スピリットの間に生じる、
自己保存、自己増殖(拡大)機能と、
それらへのとてもつよい執着を持った
自律プログラムである。

ミーム、ペインボディ、振り子……

これらはみんな「影」かその仲間ではあるまいか。

ミソクソはよくないのかもしれないが。


○ ヒエログリフ

カバーの絵にもなっているが、
これまた奇妙な「ヒエログリフ」なるものが
描かれている。
なにかの封印のようにもみえる。
ピラミッドの石室の断面のようにもみえる。

ぼくには易卦にみえる(笑)。

ビフォーアフターのようにふたつのパターンがある。
ビフォーは「影」その他にじゃまされれて
身動きがとれないカタチ。

これをみて思い出したのが屯卦で、
以下ふたつをならべてみる。

ぼくは占い師じゃない-グリフ1

「屯」はその字の形のとおり、
奮い立って地面から芽吹こうとする新芽が、
硬い地面か氷かそんなものに邪魔されて
なかなか上へと伸びることができない様子である。

ぼくは占い師じゃない-グリフ2

アフターは覆いがはずれて自由になったカタチ。
屯卦の上下卦をいれかえた解卦をあてはめて、
以下ふたつをならべてみる。

「解」はリリースの意味である。
障害やら厄介な関係から解放され、ときはなたれるカタチ。

屯と解はその上下卦を入れかえた関係にある大成卦である。
ヒエログリフもビフォーとアフターでは
その構造の一部が「逆」になっている。

ちゃんと検証したわけではないが、
上下卦をいれかえることで
その意味もを逆になる卦というのは
あまり多くなさそうだ。
ざっと思いつくところで解ー屯以外では、

否ー泰
既済ー未済

など。

これらは根源的な4つの力(20の銘板)である。


○ プランはあるのか。

「影」は、「自律的」とはいっても
それ自体で生き続けることはできない。

ウイルスのような寄生体で、
自己を存続させるためのエネルギーは
宿主から得る必要がある。

だれも見向きもしなくなれば、自然消滅する道理だが、
分離したものどうしがひしめきあうこの社会では、
どうしてなかなか、そうはいかない。

ときに「影」は、主役とみまごうばかりである。

ところで、「影」は本源(神サマ)の
創造プランに入っていたのだろうか。

じっさいに、いま、この世界に実在している、ということは、
プランのうちであることはまちがいないのだが、
この「プラン」のとらえかたがくせもので、
「プラン」はおそらく、
徹頭徹尾びしっと厳密に決められた
実行計画というものではないのだろう。

シンプルないくつかの基本ルールを設定しておいて、
あとはその働きにまかせる。

分離(区分)されたソウルに必要な
試練も苦しみも、いわゆる「悪」も、
その予測不可能な動きの中から生じた結果なのだ。

あらかじめ決められて
創られたものではないところがミソ。
そのように設計され、創られたのではなく、
いわば、「発生」したのである。

こうして得られた多様性は、
本源に無限の経験のバリエーションを供給する。

前回のくりかえしになるが、
やはり、この世にムダなものは、
なにひとつないようだ。

のっけからなんだけど、言葉にならないものを
言葉で説明しようとしていることを許してほしい。
おまけにこのオッサンは詩的センスが皆無であり、
散文的にしかものを表現できないことも。

詩のセンスでもあれば、
もう少しうまく語ることができるんだけど。

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【 馬は鼻先にぶらさがったニンジンに向かって
疾走するから馬なのだ 】


◆そもそものはじまり◆

まず最初に本源があった。

いや、ソース(源)ともマトリクス(母体)とも、
あるいは単に「存在」とも呼ばれるそれは、
今でもそこにある。
まてよ。
「そこ」ってどこだ?

答えは……「どこでも」。

本源には、あらゆる可能性が均一にある。
それがスピリットとソウルを生んだ。
生んだというのはちょっと詩的な隠喩かもしれない。
散文的にいえば「均一にあったあらゆる可能性」から
「区分」された。

そもそもなぜそのようなことが起きたか。

その理由については諸説あるけれど、正直なところ、
よくわからない。
とにかく、まず最初にそれが起きてくれなければ、
わたしたちは今、ここにこうしていることは
できなかったから……
というのは理由にならないだろうか。

ずるいか。

じゃあ、

「本源はまどろんでいたのかもしれない。
まどろみはめざめによって、
いつかやぶられるときがくるから」

というのはどうだろう。

いずれにしても、ここは言葉ではもっとも答えにくい。
だから詩的表現にならざるをえない。
へたくそでもね。


◆数と陰陽◆

スピリットとソウルという区分ができると、
同時に「数」と「陰陽」ができる。

どちらが先かは微妙なところだ。
どちらかといえば「陰陽」が先かもしれない。

陰、陽、は、いわば「ない」と「ある」の区別であり、
まどろんでいる均一の状態の本源にはありえない。
この状態の本源には他から区分された部分というものは
ないから。

いわば、「ない」も「ある」もないのである。

一方、数は、「ない」または「ある」部分が、
たくさんできてきたときに生まれる。

これは最初にできた「他から区分された部分」。
あれは次にできた「他から区分された部分」。
それはその次にできた「他から区分された部分」。

で、ほら、1、2、3。

これに対して「陰陽」は他から区分された部分が
ひとつでもあればとりあえずは成立する。

だから数よりは先なのではないか、と推測したわけだ。

でも、どっちが先かなんて
ほんとうはどうでもいいことかも。

大事なのは「数」も「陰陽」も
「区分」がなければ存在することができない、
ということである。

うそだと思ったらやってみればいい。
なんの区分もましてや分離も「いっっっっっさい」ない、
永遠の安定と静寂しかないところがあったとしよう。

はい、想像して。

そんな中で「数」や「陰陽」を考えることができるかどうか。

いやまて、そこにほんとうに「あなた」はいるのか?

そこでまどろんでいるのはだれだろう。


◆空間、物質、時間◆

スピリットは器(用)としての役割をはたすところの
本源から区分された部分。
ソウルは器に力をあたえる実質(体)
としての役割をはたすところの本源から区分された部分。

スピリットはまず、空間と物質になった。

空間は器で物質はその中に入る実質である。
だから、あらゆる空間、あらゆる物質は
スピリットに満ち満ちている。
そして、空間と物質の組み合わせは時間を生じた。
時間はスピリットとソウルの橋渡しになる。
空間と時間と物質はセットになって、
ソウルが利用する器または乗り物になる。

この宇宙はこうしてできた。


◆生命◆

お膳立てがととのったところで、
ソウルはスピリットが用意してくれた乗り物に乗り込んで、
この宇宙を体験する。

冒険のはじまりだ!

簡単にいってしまえばそういうことだけれども、
ことはもう少し複雑だ。
物質は時空という器の中で単純なものから複雑なものへと
積み上げ式に成長している。

ソウルもそれも呼応するように、
こちらはより大きなものから小さなものへと
次々と区分されていく。
「分離」されたわけではなく「区分」だから、
おおもとの本質がなくなってしまうということはない。

おおもとの本質=本源は
ずいぶん小さく区分されてしまったけど、
すべてにひそむ「核」として歴然とそこにある。

小さくなっても本源は本源だ。

「ひそむ」というのは、
たいてい奥のほうにあってわかりにくいから
そういう表現になったまでの話。
奥のほうにあるというのは、
いわば自然とそうなったのであり、
だれかの意地悪じゃあない。
自分で自分をだれだかわからなくする本源の遊びなのである。

わかりにくくなったからといって、
なくなったわけじゃあない。
そこが大事なところ。
そもそもスピリットもソウルももともと本源なのだ。

さて、スピリットが用意してくれた物質という鞘に、
それぞれの物質の成長段階に応じて区分された
ソウルという剣がおさまると、
その全体が生命というカタナになる。

ところがたいがいこの剣と鞘は合いが悪く、
どこかガタついている。
居心地がわるい。
キモチがわるい。
だから生命はいつもじたばたしている。
この居心地の悪さはあらかじめそうなるように
仕組まれたものだ。
この合いの悪さを限りなく小さくしていくことが
生命のめざす方向――
本源がスピリットを着たソウルとして
自分自身を楽しむプロセスなんだ。


◆うまれかわる生命◆

先にも話したとおり、
物質は時空という舞台がなければ働くことができない。
器のない実質だけの実質というのは実質たりえない。

時空が前提になっているということは、
時間がからんでいるということで、
時間がからんでいるということは、
その存在が期間限定であるということ。

量子、素粒子、原子、分子、生命体。
階層によって長さはことなるが時空内にある物には必ず寿命がある。

これに対してソウルは時空という区分の外にあるので
永遠であり場所に拘束されることがない……
というよりも時間も場所も関係ない。

もちろん物質と結びついて活動するときは
時間や場所を経験することになる。
そしてそれはソウルにとってなににもまして、
かけがえのない経験である。
そのままもっと時間や場所という経験を味わっていたい、
と思うソウルもあるだろうが、
さっきもいったとおり器は期間限定である。
ある期間が過ぎると分解してしまう。

もっと時間を楽しみたいソウルは、
別の器をさがしてそれと結びつく必要がある。
さらにもっと時間が必要ならまた別の器へ。

小さい子に高い高いをしてあげると、
なんどもなんどもせがまれるでしょう。

なんども。なんども。

あれとおんなじ。

そういえば本源は、どこか小さい子に似ている。
じっとしていられないところとかね。


◆ヒトの世界◆

ヒトは生命の一形態である。
だからヒトのめざすところはは生命のめざすところと
基本的に一致する。いや、一致せざるを得ない。

ヒトも剣と鞘があわないカタナなのだ。
だからヒトも他の生命と同じく、じたばたする

じつは、はたさなければならない特定の「目標」や
演じなければならない「役目」というのは
わたしたちにはないのである。

しいていえば、
じたばたすることがわたしたちの役目であり義務なのだ。
どんなふうにじたばたするかは各自の自由。

そんなわけで、
この人間の世界にはムダなものはなにひとつない。
限られた時間、限られた立場からみると
ムダとしか思えないようなことは確かにごまんとある。

しかし、どんなにムダと思えることでも
あなたが成した「経験」は、
細大漏らさず、逐一、すべて、記録され、分類され、
とある巨大な保管庫にかけがえのない宝物として納められる。

この、個々の「経験」が宝物として蓄積されることが、
本源にとってのなによりのよろこびなのだ。

「保管庫」についてはまたあとで。


◆どこへむかっているのか◆

じつは、生命を創る剣と鞘はいつまでたっても
ぴったりおさまることはない。
ぴったりおさまった状態に
無限にちかづいていくことはできても
その状態に達することは決してない。
そうなってしまうとそこで成長が終わってしまうから。

ひょっとしたらいずれ剣と鞘がぴたりとおさまる日が、
そういう時が、くるのかもしれないが、
それはたぶん

「すべてのソウルが、そしてすべてのスピリットが、
この宇宙にあるなにもかもをすべて味わいつくし、
そしてそのすべてのソウルとスピリットが
完全に納得しきったとき」

であるといえるだろう。

すべてのスピリット、すべてのソウルが
いったいいくつあるかわからないから、
それがいったいいつになるのかは、まったく見当がつかない。
いつになるかはわからないが、もしそうなってしまったら、
本源にとってはぜんぜんおもしろくない状況であることは
まちがいない。
だってそれ以上やることがないんだもの。

プロセス全体は、
鼻の前にニンジンをぶらさげられた馬に
にているかもしれない。

馬は走る。

ところがニンジンは
馬自身にとりつけられたサオにぶらさがっているから、
馬が走れば走ったぶんだけ前に移動する。

かくて馬は永久にニンジンにたどりつくことはない。
この奇妙なゲームがおわるのは
ゲームを考え出したものが
つかれてゲームに飽きてしまったときか、
あるいは馬が力つきてしまったときだろう。
もしそうなったら
次はどんなゲームをするか考えることが
当面の仕事になるだろう。

そのままじっとしていればいいって?
あたしゃ別に動きたくないって?

じゃ、やってごらんよ。

ただし徹底的にだよ。

少しでも動いちゃ、なにかしちゃいけないんだよ。
インターネットもテレビも見ちゃいけない。
それはそれで立派に「なにかしてる」ことになる。
わたしたちが日常的に使う「なまける」
という言葉であらわされる状態だって立派な活動だ。
「なまけ」てもいけない。
「なまける」こと以上にじっとしていなければならない。

じっとしていると……

じっとし続けて、徹底的になにもしないでいると、
必ず、やがて、ほんの少しでも必ず何かしたくなる。

いや、せざるを得なくなる!

この衝動を、居心地の悪さ、不安、と表現する人もいる。

だれたかに会いたくなる。
だれかと話したくなる。
絵を描きたくなる。
文章を書きたくなる。
なにか食べたくなる。
大声で叫びたくなる。
身体を動かしたくなる。

おっ。

あっ。

じっとしてていられなくなった瞬間。

その瞬間、本源がソウルとスピリットを区分して
この宇宙を創ろうと思った瞬間の気持ちがわかる
(かもしれない)。

それこそ、この自分の内奥に本源の核があるという証拠ではないだろうか。

つまりは「なにかしたい!」という衝動は、
この核からの、本源からの、強力なメッセージだったのだ。

だいたい、なまける以上にじっとしているなんて不可能だ!
(でも練習すればできるらしい。
なにせぼくらの核は本源だから)


◆記録とその保管庫◆

ゲームがプレイされるとき、
すべては記録され記憶されて、
また本源へともどっていく。
そしてまたあのまどろみをへて、
ふたたび本源はなにかを創り出す。

スピリットとソウル以外のなにかを。

これが、すべてを記録することの理由である。
以前になにをして遊んだかを覚えておかないと
また同じ遊びをくりかえしてしまうかもしれない。

いや、くりかえすこと自体は過ちやまちがいではないのだが、
まったく同じことをくりかえすことは、
本源のもともとの状態であるあの「まどろみ」と
同じことである。
永遠にまどろんでいたくない限り、
本源にはこの保管庫が必要なのだ。

たとえわたしたちのこの宇宙がなくなっても
保管庫はあり、記録は残される。
そしてまたじっとしていられなくなったら、
本源は保管庫を参照し、
わたしたちのものとは別の宇宙の創作にとりかかる。

この保管庫は、ただひとつの倉庫がどかーんとあって、
はいそれまで、というふうにはなっていない。
ソウルやスピリットが本源から区分され、
積み上がっていくときのように階層化されているのである。

噴水を想像してほしい。
円形の小さな池があって真ん中から澄んだ水が
陽光をきらめかせながら一本噴きあがっている。

噴水は放物線を描いて
自分のまわりの小さな池に水をそそぎ込んでいる。
噴きあがった水が光にあたって池におちることが
すなわち、あなたがこの世で経験を味わうということであり、
その水がたまっていく先、
円形の小さな池がその経験を記録し、
保管しておく倉庫である。

この池には排水口はない。
だから噴水は徐々に池の水位を上げていく。
水位が池のフチをこえると水はあふれる。どこへ?

その小さな池は、大きな池の中にあり、
あふれた水はその大きな池にたまっていく。
まわりをよくみてみると、
大きな池の中のちいさな池はひとつではなく、
無数にあることがわかる。

大きな池はさらに大きな池の中にあって、
このさらに大きな池は大きな池からあふれた水を
ためていくのである。

さらに大きな池をながめてみると
その中にはこれまた無数の大きな池があることがわかる。

そして、そのさらに大きな池は、
じつはさらにさらに大きな池の中にあって……
以下同文。

頭が痛くなる想像だけど、終わりがあるとしたら、
一番下には一番大きな池があることはわかると思う。

その一番大きな池こそ、本源の保管庫なのだ。

そして一番上の小さな池が
(ヒトの場合)脳/意識ということになる。

いちばん上の池で噴きあがっている水は
この一番下の池から細いパイプで噴き上げられたものだ。
本源の保管庫、といったけど、本来、本源に区分はない。
最初のほうで「すべての可能性が均一にある」
なーんていったけれども、
この最大最深の「保管庫」こそ、
本源の正体なのかもしれない。


◆まとめ◆

ソウルとスピリットは兄弟である。
空間と物質も兄弟である。
女性と男性も兄弟である。
光と陰も兄弟である。
いい人もわるい人も兄弟である。
あなたとわたしも兄弟である。

陰と陽も兄弟だ。

兄弟だから、
どちらがいいということも
どちらが悪いということもできない。

この宇宙はそもそもがソウルとスピリットという
「対」から始まっている。
そのため、かなり深いところからが、
とにかく「対」でできている。
だからといって、
すべてが「対」だと思いこむのはまちがいだ。

そのおおもとはひとつ。

そのひとつは、たいがいどれもがマト外れな
さまざまな名前で呼ばれながら千変万化をくりかえしていく。

これよりさきは、
これより上は、
これより広いところは、
これを越えたところは、
霧がかかったようになっていて、
どうもはっきりしなくなっている。

これより先があることはまちがいないんだけどね。

しかしまあ、

すべてがはっきりするなんてこたあ、
最初からありえないんだ。

疾走する馬が、
けっしてニンジンにたどりつくことがないように。

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どう。少しは安心した?

え。ぜんせん?

よけいこんがらがった?

変わんないかな。

ま、馬がどうなろうと、
やっぱり明日は、会社にいくんだもんね。
どういうわけだか、ここのところ、いやもっとずっと前からか、「輪」……ホイールに、とりつかれたように関心がいってしまう。

「カオス自然学」のテオドール・シュベンクによれば、水をはじめとする流動媒体は原則として円環……「輪」を完成しようとする傾向があるそうだ。
ここに時間的律動が加わると、円環は、自然界によく見られる形態、渦や蛇行、ラセンといったカタチになる。

ぼくは占い師じゃない-祖型
【流動体の祖型~読書メモから】

時間的律動は宇宙のハートビートを刻み、ヒトはそれを数字という言語で認識する。
数字という普遍言語には元型的意味があり、これら数字自体も円環を形成する。

「数の神話」
梅本龍夫著
コスモスライブラリー

上記の本では、数字が円環のみならず神話というストーリーも形作るものでもあることが、エニアグラムをベースに、どちらかというと秘教的なさまざまな例とともに語られている。
この本で示される神話のストーリーについては基礎となる著作がある。

「千の顔をもつ英雄(上下)」
ジョゼフ・キャンベル著
平田武靖/浅輪幸夫 監訳
人文書院

ここで示されている発見は、神話の主人公である英雄(男性とはかぎらない)の旅における普遍的パターン。
このパターンは壮大な円環を描く。
余談だが、訳者の名前の中に「輪」の字がある(なにかの冗談?)。

ぼくは占い師じゃない-英雄の輪
【英雄の旅~上記著書の図をアレンジ】

英雄はふとしたきっかけから旅にでることになる(出立)。異界への旅に(たいていの場合ははからずも)参入した英雄は、さまざまな試練を経て異界の果てで、ある成果をつかみとる。そののち、旅立った元の世界へ凱旋し、その成果を故郷の人々とわかちあい、異界から持ち帰ったなにものかを元の世界に還元するのである(帰還)。

もちろん、ことがそうすんなりはいかないケースも多々ある。
はなから出立などしない英雄、異界への参入を拒否する英雄、旅の成果をつかみそこねる英雄、成果をつかんでもそこから故郷へはもうもどらない英雄。
(上図※におけるオプション)

この輪のパターンはたいていの神話にあてはまる。
もちろん、みんなが大好きなRPGの骨格にも。
お話によってはいずれかの段階が省略されていることもある。

たとえば、

原作ではどうだかわからないが、以下のチベットの神話をしたじきにしたお話では「帰還」の部分が省略されている以外は上図の輪に一致する。

「シュナの旅」
宮崎駿
アニメージュ文庫

ファンタジーだけれども、指輪物語などはほぼ完璧に輪のパターンを踏襲する。もちろんトールキンは創作神話として、おはなしをそのように創ったのだろう。

ところで、上の図はなぜ出立が上になっていて、勝利が下になっているのだろう。
ぼくだったら、だまっていれば出立を左において勝利を右におく。英雄は左から右へ旅し、右から左へ帰還する。小学校のときにならった左から右へ引かれる「数直線」に毒された結果だ。

実はこの円環は、私たちの一日でもある。私たちは入眠とともに異界へと出立し、夢に参入し、さらにその深奥の異界の果てからなにものかを持ち帰り、ふたたび日常生活というなじみの領域に帰還する。
ぼくは占い師じゃない-夢の輪
【昼と夜の輪~「千の顔をもつ英雄」の図をアレンジ】

輪の上部(天)は昼であり、下部(地下世界)は夜なのである。

日常世界から異界へと旅立ち、ふたたび日常世界へと戻ってくるというこのサイクルは、亡き妻を黄泉の国まで追っていったはいいもののやっぱり戻ってきた夫の行状と、居心地のいい城を出て苦行に没頭し娘に助けられた後本来の成果を得て初転法輪(法輪も「輪」である)に至った男の物語と、そして、そして、先にも書いたが、あまたある神話のプロセスと、相似だ。

くわえてなによりも、誕生という出立を果たし、この世という異界に参入し、やがてここからもといた「むこう」へとなにかを持ち帰ろうとしている私たちの人生という輪とも相似なのである。

私たちは「子供が×人の、×社勤続×年の、×年生まれの×歳の何某」でもあるけれど、それは氷山の一角で、その一角からみるとほぼ無限とも思われるキャパを持ち、背後には連綿と続く転生の連鎖を持つ人格複合体である(あしたからそのつもりで人に接しよう……ムリ?)。

考えてみれば、元型レベルとよばれるこの膨大なストレイジから共通項としての「輪」がたちあらわれてくるのはあたりまえかもしれない。
私たちはおおそらく、なんどもなんどもこの同じパターンの輪を踏みしめて、ソースを目指しているのだ。

もとはソースからはじまってソースへもどるこの旅もさらに大きな、グレート・ホイールを構成する。
実態は想像もつかないが。
(この「輪」については「宇宙創成の円環」として「千の顔をもつ英雄」第2部で描かれている)

関心のない読者の方々はいつもゲンナリしていると思うので、今回は易の話をクダクダ書くのはやめておくが、生命の普遍言語たる易システムにも前回ブログ でお話したような「輪」が埋め込まれている。

こうした材料を使って、全部は到底無理としても少しでもこの世界を描写できれば、まあちょっとした町内の地図くらいにはなる。そんなものが創れればいいなあ、とも思う。

今日思い立って明日できることではないけれど。

易システムともつきあいを深めていくと、断片的に個々の卦を観ているだけでは、そこから先には進まないような気がする。
いずれはどうしても、一連の卦のつらなりの中でのその卦の位置についても考慮する必要がでてくるだろう。

いつぞや、他の人たちに(もちろん易に関心のある人たち)、

「いやあ、易システムの本体ってのは、まあ実は、卦そのものというより卦の変化にともなうダイナミクスなんですよお」

などと自分で言っていることもよくわからずえらそうに講釈をたれたこともあったが、「ダイナミクス」をとらえる以前に、そもそもその「だいなみくす」ってなんだよ、という勉強もまだとば口にいたったばかり。

いやはやこまったものである。

あ、結局、易のハナシをクダクダ書いちゃった。

おしまい。

話はまた易の話になってしまうが、フラクタル、という観点は易にもあって、たとえば下の絵は「85:地風升」という卦だが、時間は一番下の爻(コウ;卦を構成する線のこと)、初爻から、一番上の爻、上爻へと、流れていく。

ぼくは占い師じゃない-t and 85

もちろん占的と矛盾しないことが前提だが、この「85:地風升」全体があらわす時間の長さについてはとくに決まりはない。

この「85:地風升」全体を一日とみてもいいし、三日とみてもよい。一週間でも一ヶ月でも一年でも、理屈の上では十年、百年と観てもよい。

ひとつの爻は、ひとつの卦の中の「段階」と考えることができるから、卦全体があらわすタイムスパンが変われば、爻があらわす時間尺度も当然それにつれて伸び縮みする。

一方、周期という観点だが、易における代表的な「周期」の表現に「十二消息卦(消長卦)」というものがある。
ぼくは占い師じゃない-sandoukei
【「周易参同契」明徳出版社より】

ざっと上の絵のようなものだが、純陰の「88:坤為地」の初爻が変じた、子の位置にある「84:地雷復」冬至(十一月(旧暦))にはじまり、二、三、四爻……と順次下から上へと爻が変じていく。

卦は、旧暦四月の立夏に純陽の「11:乾為天」(巳の位置)、「88:坤為地」の陰陽がすべて反転した形となるが、これが「88:坤為地」からみた「ターニングポイント」になる。

この「ターニングポイント」から爻はふたたび初爻から変じていき、シンボル上はまた「88:坤為地」にもどる。

「88:坤為地」と「11:乾為天」はツイストペア である。ツイストペアは互いが互いの「ターニングポイント」なのである。

この「十二消息卦(消長卦)」が構成する「輪」、ホイールはターニングポイント(S0)から、ターニングポイントへの(S1)へ、さらに次のターニングポイント(S2=S0’)への状態遷移とみることができる。

「フラクタルタイム」で示されたモデルにのっとれば、あるターニングポイント(卦)からから次のターニングポイント(先の卦のツイストペア)へのタイムスパンは、半年、1年、1.5年、2年……というように、「十二消息卦(消長卦)」を読むときのように一定ではなく、「この、くりかえすもの (その1)」で書いたようにある時点にむかってフラクタルに加速され、短くなっていく。
とうぜん、そのあいだにあるひとつひとつの卦があらわすタイムスパンもそれにつれてみじかく、密度が高くなっていく。

さらにいうと、「ある卦をその初爻から変じていき、全部の爻が変じきったところで、また初爻から変じていき、ふたたびもとの卦にもどす」という操作は、なにも、「88:坤為地」を基準とした「十二消息卦(消長卦)」の専売特許ではない。

六十四卦すべての卦に対して同じ操作を行うことができ、そうしてできるそれぞれのホイールが特定のツイストペア間の状態遷移ダイヤグラムとなる。

たとえば、冒頭で例に出した「85:地風升」に同様の操作を行うと下の絵のようになる。
ぼくは占い師じゃない-wol
これはいわば「一般化された十二消息卦(消長卦)」だ。
銀河ツールにおける「20の銘板」のダイヤグラムでは、このルールでウエイブスペル上に各卦が展開されている。

ところで、たとえば、「十二消息卦(消長卦)」が構成する「輪」は、そのあとどこへいくのだろう。「88:坤為地」にはじまり、「88:坤為地」にもどり、ずっとそれを永遠にくりかえすのだろうか。

シンボル上は「もどった」ようにみえるが「時間が元にもどった」わけではなく、退行したわけでもない。

「フラクタルタイム」に次のようなことが書いてある。

「時代の終わりは次の時代の始まりであり(中略)一つの時代の終わりが世界の終わりではない(「タイムコード2の抜粋」)。

みかけは同じに見えるが、実は次のスパイラルに入っているのである(*1)。では、次のスパイラルの始点となる卦は、どのように定めればよいのか。

根拠はないのだが、この「一般化された十二消息卦(消長卦)」の各始点は、ライプニッツが六十四卦方位図に書き込んだ番号順に遷移していくのではないかと考えている。
ぼくは占い師じゃない-ライプニッツ
【「易のニューサイエンス」東方書店より】

この番号はこのブログで採用しているコード番号(*2)とは異なり、卦を6ビットの2進コードとしてみた場合の10進数値である(*3)。

この2進コード順というのもひとつの周期だ。

始点はライプニッツコードに従って遷移し、ターニングポイントを示すツイストペアは、「一般化された十二消息卦(消長卦)」のルールに従って推移する。

いいかえると、「一般化された十二消息卦(消長卦)」という32パターンのホイールであらわされる周期は、ライプニッツコードという別のおおきな周期にのっかっていて、全体としては二重構造の周期になっているのではないかと考えているのである。

「フラクタルタイム」の考えを採用するなら、各卦の間のタイムスパンはある時点へむかい、だんだん短くなる。
ダイヤグラムでは円周上に等間隔に卦が並ぶが、実相は下の絵のように感じになるだろう。
ぼくは占い師じゃない-スパイラル
「フラクタルタイム」においても、ほんのちょっとだけ言及のある(*4)の本では、流動体(主に水)の祖型としてまず「球」があり、時間的律動が加わることで、スケールを問わず、それが「輪」「蛇行」「渦」「スパイラル」となることが自然の中のさまざまな例として示されている。

時間もある種の流動体とみなすのなら、「球」や、「輪」「蛇行」「渦」「スパイラル」などは時間のカタチ……祖型とみなすことができるのではないだろうか。

久しぶりに時間ができたので長々と書いてしまったが、まあいずれにしても、これもものの観方……

モデルのひとつだ。

全体周期としてどんな周期を採用するか。
なにを種となるイベントみなすか。
ターニングポイントにおいて起きたイベントの、どこが種となるイベントと同等とみなすか。

易システムと関連付けるならさらに、

種となるイベントのシンボル(卦)になにを採用するか。
シンボル(卦)の解釈。

こういったことはすべて、意識との関わりにおいて決定される(みなされる)。

結局のところ、いつだってなにかは起きているのだ。

でも、個々の出来事に翻弄されるのではなく、どうせなら自分に合った枠組みを使って、より大きな、高次の視点から物事をとらえていきたいものだ。


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*1)「みかけは同じに見えるが、実は次のスパイラルに入っている」
これを「同じ」だと誤解してしまうことをウイルバーは「プレとポストの混同」呼んだ。たとえはよくないが、おむつをしているからといって老人は赤ちゃん「ではない」。

*2)「このブログで採用しているコード番号」
易数。八卦単位でつけられた番号。乾兌離震巽坎艮坤の順で、1、2、3、4、5、6、7、8。大成卦はこの番号2桁の組み合わせであらわす。

*3)「卦を6ビットの2進コードとしてみた場合の10進数値」
上爻を最下位ビット、初爻を最上位ビットとする。たとえば、88:坤為地は000000=0、84:地雷復は100000=0x20=32、78:山地剥は000001=1

*4)
「カオス自然学」
テオドール・シュベンク著
赤井敏夫訳
工作舎


「フラクタルタイム」
グレッグ・ブレイデン 著
島津公美 訳
ダイヤモンド社
2009

この本の内容をかいつまんでみると、

「時間軸上でおこるイベントは周期性を持っており、一定期間を経て繰り返す傾向にある。あるイベントが起こった後の、その同様のイベントは必ず起こるわけではないが、起こった場合はそのインパクトを増す傾向にある」

と、いうことになろうか。

種となるイベントが起きて次に同様のイベントが起きるまでの時間は、基本となる周期……全体周期との比率から求めることができる。

全体周期は、開始点と長さが定義されていることが、次のイベントが起こるまでの時間を算出するときの前提となる。

種となるイベントの全体周期上における位置がわかれば、残り期間においてそれと相似に次のイベントが起こるのである。
ここが「フラクタル」というところなのだが、13月の暦をはじめとする銀河ツールのユーザにはおなじみの概念だろう。

全体周期については、以下の4つが例としてあげられているが、この本では4番目のマヤの伝統におけるグレートサイクル、5125年が採用されている。

1)ホピの「ワールド」
2)古代インドの「ユーガ」
3)アステカの「ワールド」
4)マヤの「グレートサイクル」

同じことの説明になるが、本で紹介されている算出方法を少しアレンジしてみる。

前提となる全体周期L0において、L1が経過したとき、種となるイベントS1が起こったとする。

次に同様のイベントS2が起こるまでの時間L2は以下のように導かれる。

L2=(L1/L0)φ×(L0-L1)

L1/L0は種となるイベントS1が起きたときの経過時間L1の、全体周期中L0における比率。この比率を、S1が起きたときのL0における残り時間、L0-L1に適用することで、次の同様のイベントS1が起きるまでの時間L2が導かれる。

比率を適用するといっても、L1/L0をそのまま残り時間L0-L1にかけるのではなく、φをかけるところがポイント。

φは黄金比で、本の中では0.618に近似される。

イベントはくりかえしおこる。
もしくはその可能性を秘めている。

さらにふたたび、S3というイベントが起こるまでの時間L3は、同様に、

L3=(L2/(L0-L1))φ×(L0-(L1+L2))

で、導かれる。

L3は、全体周期L0中で、すでにL1+L2という時間が経過した後の時間である。

ちなみにL4は、

L4=L3/(L0-(L1+L2))φ×(L0ー(L1+L2+L3))

となる。

以下同様に、L5、L6……を求めることができるが、下の絵に示すように、イベントの連鎖はある一点(ゼロポイント)向かって漸近していく。

ぼくは占い師じゃない-zenkin

本では、歴史上の出来事が、くりかえし、相似に、スパンを縮めておこることが例としてあげられていて、一見、自分とは関係なく思えるが、この考えを個人の人生にあてはめる例もあげられている。

そう、視点を変えれば、それまでに起きた幾千幾万の出来事は、相似に、圧縮されて、あなたの人生、あなたの一年、あなたの一月、あなたの今日に起こる、起こっていることなのである。

そこでふと、自分がこの世に生まれた時点を、ここでいうひとつの「種となるイベント」としてとらえることはできないだろうか、と思った。

本の中にはそんな応用例はないが、上記の方法で機械的に算出することはできる。

問題はその意味である。

本によれば、上記S2、S3、S4……は「過去に起こったことと同じ状況がいつくりかえされるか」その時点を示すことになる。

種になるのがS1=誕生というイベントだとすると、上の定義にしたがえば、算出された各時点で「誕生」というイベントがくりかえされる、いうことになる。

いわば、

「うまれかわる」。

といえるのではないか。

そこで本当に死んでしまってまた転生するというわけではないだろうが(場合によってはそれも含まれるかもしれない)それはつまり、一種のターニングポイントと考えられるのではないか。

そう考えたのである。

本の中での全体周期の前提は、

現在の全体周期の始まり=紀元前3114年
全体周期の長さ=5125年

で、これに従って、自分の誕生日を種となるイベントS1として計算してみる。

S1=0才
S2=30.5才
S3=42.5才
S4=47.1才
S5=48.8才
S6=49.5才
S7=49.8才

過去の時点もあれば、未来の時点もある。

この全体周期の前提だと、現在が全体周期の終わり近くなので、値は、その時点に向かってかぎりなく漸近していく。

ぼくの個人史をここで発表してもしかたないのでくわしくは書かないが、過去の時点で、S2以外は、すべて思い当たることのある「ターニングポイント」だった。

いくつかは未来のある時点を指し示している。実際にそれらの時点を「ターニングポイント」として用いるかどうかはともかく、状況的にはそうなるお膳立てがととのう、またはそういったことが起きやすいポイントということになる。

その傾向に従うか、それとも別の道を行くか。
自由意志と試行錯誤は宇宙の法則なので、これがやぶられることはない。

ターニングポイントは「選択ポイント」でもあるのだ。

<つづく>

(1)「輪廻を越えて」
J・ラドン著
片桐すみ子訳
人文書院

(2)「輪廻転生」
J・L・ホイットン他著
人文書院

(3)「輪廻体験」
片桐すみ子編訳
人文書院

上記は、
ちょっと前にイモヅル式に読んだ本である。
読んだのはちょっと前だが、
いずれの本も10年以上前の本だ。

唐突だが、みなさんはご自分のハイヤーセルフ、
高次の自己といったものとコンタクトがとれた、
と思ったことはおありだろうか。

「ハイヤーなんとか」
などというものとは縁がない
という人もいるのだろうが、
明確な指示やイメージといった
メッセージのようなものが
あたりまえのように判る、
という人もきっといるのだろう。

ぼくの場合はたぶんその中間で、
明確なメッセージは伴わないものの、
そのヒントがばらまかれる感じ。

材料集めは自分でやらなければならない。

材料がそろったところで、
それを組み立てる指示というか、
アイディアが与えられる。

冒頭でご紹介した本は、
ちょっと悩んでいた頃に
「材料」としてあたえられたもの。

先に書いたように悩み(問い)に関する
直接的回答やってくることはまずない。

(1)と(3)はいつもいく古本屋で
時期をずらしてもたらされたもの。
(2)は別の古本屋でたまたまみつけた。

なんでいまさら輪廻なのか、
どうしてこんなことになったのか、
はっきりしたことはわからない。

これこれこういう疑問を抱いていたら、
こんな答えが具体的に返ってきました、と
書ければもうちょっとカッコイイのだが。

いや、わからない、と書いておいた方が
カッコイイかな。

まあ、カッコイイのはどうでもいいが、
そのときの「悩み」について、
ある種マクロな視点がほしかったのは確か。

そういう意味では、まあずいぶん、
助けになった読書だった。

心のざわつきが多少なりとも凪ぐのなら、
それもハイヤーセルフからの回答、
といえるのではないだろうか。

オーバーソウルとハイヤーセルフ。

区分けにはいろいろな見解があるだろうが、
要は、私たちの奥深くに流れる、
輪廻していく主体のことである。

(1)、(2)、(3)では「オーバーソウル」
と呼ばれるが、そのさまざまな輪廻の道、
人生を俯瞰することができる。

特に(1)は、
ステージの全体像が描かれていて興味深かった。

そしてそこに登場する役者たちは、
なんら劇的な人生を送ったわけではない、
ごくふつうの人たちばかりだ。

でも「ほんとうのこと」は、
そんなライフパスにこそあるものなのだろう。


稲垣足穂
1900-1977

研究するというほど深くもなく、
ちょっと読んだことがある、
というほど浅くもなく、
ただの一ファンとして、
稲垣足穂を読んでいたのも、
ずいぶんと昔のことになってしまった。

全集を買うほどのめりこんで
いたわけではなかったが、
河出の文庫版がひととおりと、
他の出版社の本もいくつか、
そろっていた。

今では本も全部売り払ってしまって、
タルホという固有名詞すらも、
すっかり忘れてしまっていたある夜、
先輩に連れられて入り込んだ
裏路地の中華屋はどこのどこだったか、
今となってはとんと見当がつかない。
ただ、2000円で腹一杯になったこと、
紹興酒でホロ酔いだったこと、
路地裏に開け放たれた厨房で美人姉妹が
せわしなく動きまわっていたことは、
よく覚えている。

この世は、ある角度から観ると
薄いガラスのスライスのようで、
その微分的断片の中には、
大事なものが詰まっている。

その薄ガラス一枚へだてた
夜の通りの明かりの隙間に
今までいったことのない古本屋が
ポツンとあった。

モヤがかかったようなまなこで
古びた書棚をたぐっていくと、
手前奥の岩窟に手つかずの宝石が
なにかの冗談みたいに埋め込まれていた。

タルホ。

ヒコーキは青天高く陽光にまぎれ、
ラジエータのカタチは工学の美を唱い、
表通りでは路面電車が緑色のスパークを
あげながら通りすぎ、
天から迷い込んだ星は帰り道をさがして
夜明けの公園を右往左往する。

タルホのお話には
「星」がよくでてくるが、
タルホの「星」たちは
いったいにあまりお行儀がよくない。

場末の酒場でクダをまいていたかと思えば、
黒板塀でかこまれた裏路地で、
ゴールデンバットのコウモリを
どついていたりする。

星がたくさんあるように
現実もたぶんたくさんあって、
日々暮らすということは、
そのなかから、
あるひとつの「星」を選ぶ、
ということなのだ、

だからきっと、
手でさわれるとか、
人がいったとかは関係なくて、
すべては選ぶという
ココロのなせるわざで……

そのココロがざらつくのは、
選んだ星に優劣をつけたり、
他人が歩む星と、
比較したりするときで……

どれをとっても他の板と同じ、
薄板スライスの一枚に過ぎない。

バームクーヘンの皮、
ミルフィーユの一枚。
HAL9000のセントラルに
ずらりと並ぶ光る薄板の一枚。

ぼくは占い師じゃない-taruho


「足穂拾遺物語」
青土社
2008/3初版

【「拾遺」は遺されたものをひろい
 あつめること。高橋信行氏による
「解題」は圧巻。スピンも解題用、
 本文用と、二つついている。
 装丁も美しい。        】

「易経」は聖典である。

聖書、バガヴァッド・ギーター、コーラン、タルムード、道徳経などがそうであるように。

易経が特殊なのは、卦と呼ばれる切れた線またはつながった線六本で構成されるシンボル(卦)体系を含むいう点、そして、それが聖典であるのと同時に占術の書であるという点である。

そしてこの2点があるため、ときどき「聖典」でるあるという認識がどこかへおきざりになってしまう。

ひとつめの点については少々説明が必要かもしれない。

一般的には、卦というシンボルと経文は不可分だが、個人的には別物ではないかと観ている。
別に学術的な根拠があるわけではない。

別物というのは、卦のシンボル体系と、経文の方はそれにたいするコメントというふうにとらえている、ということである。

この観方を変える気はいまのところないけれど、ややもすると「コメント」ということで経文を軽く観てしまいがちになるのだ。

個人的な観方の話なので、つまるところ、ぼく個人の問題ということになるが、「コメント」はやがて「コメントにすぎない」になってしまい、そのうち「軽く考えておけばいいかな」になり、いきおいシンボル偏重のアンバランスにおちいってしまう。

経文はコメントといえばコメントだけれども、おそらくはこのシンボルにつけられた最古のコメントであり、経文偏重のアンバランスにおちいらないかぎり、やはり適切に尊重するべきものだろう。

これを「コメントにすぎない」などといってしまうと、聖典だって「聖典にすぎない」ことになってしまい、それではミもフタもなくなってしまう。

「すぎない」という言葉はクセモノなのである。

ぼくは占い師じゃない-64ke
【六十四卦と三陰三陽卦】

ふたつめの点は、もう少し一般的な話になる。

占術の書として経文を頻繁に参照するのはいいが、結果、すなわち質問者への回答を急ぐあまり、経文自体が神聖なものであるということを忘れがちになるということである。

そのうち経文の背後にある深い意味もなんとなくスルーするようになってしまい、これがいきすぎると、経文を占断をするための道具としてしかみなくなってしまう。

「ビー・ヒア・ナウ(*1)」の第Ⅲ部はスピリチュアルな道を歩む人のマニュアルのようなものだが、そこにはこんなエクササイズが載っている。

少し長いが引用する。

「悟りを開いた人の本(『バカヴァッド・ギーター』、老子、福音書にあるイエスの言葉、ラマナ・マハリシやラーマクリシュナの格言、『易経』など)をひもとくときには、一節だけに、できれば一句だけに取り組むこと。決して1ページ以上にいどんではいけません。一読し、再読し、再々読するのです。そして、思考が巡るにまかせるのです。原文の意味するところを別の言葉にいいかえてみるのです。他人に、また自分に、それがどう応用できるか考えなさい。自分の普段の考え方とちがう場合には、どうちがうかに注意を向けなさい。自分のとはちがう仮定にたっていないかどうか。自分の旅にたいしてどんな暗示がふくまれているか。そして、もう一度読むのです。そこに自然のどんな法則が反映されているのか。それから静かに座ったまま、その節に関して心のおもむくままにまかせるのです。そしてまた、静かに。これに一日30分をついやしても、決して長すぎることはありません。」

易経は聖典である。

だからといってなにも、あがめたてまつることはないと思うが、きちんととりあつかう必要はある。

先の引用の冒頭にあるいくつかの聖典の中ではおそらくはもっとも古いドキュメントだろう。

古ければなんでもいい、というわけではないが、古くていまも残っているということは、それだけ長いことなんらかのかたちで人々の役にたってきたということではないだろうか。
もしそうなら、集合的無意識における比重も決して軽くはないだろう(*2)。

いちおうこのブログでも六十四卦はすべて紹介し終わっていることになっているが、あんな内容でわかったつもりになっていてはいけない、とも思う。
あの内容では、導入も導入、まあせいぜい表面の表面をさっとかすめた程度だろう。

また、「聖典」を一年や二年でモノにできる、とも思わない。
たぶん、これから一生かけて学び続けるつづけるものなのだろう。
手を出すなら、最後までやらなければならないのである(*3)。

結局ぼくは、
なにもわかっちゃあ、
いないのだ。


*1
「ビー・ヒア・ナウ」
ラム・ダス+ラマ・ファウンデーション著
吉福伸逸+上野圭一+プラブッダ訳
平河出版社
1987

*2
ゲリ-・ボーネル氏によると、
易経は、アカシックレコードへ
アクセスするためのエントリとなりうるそうだ。

「超入門 アカシックレコード」 (5次元文庫)
ゲリー ボーネル 著
大野 百合子 訳
徳間書店
2009

*3
(c)カマ爺

「電気的宇宙論Ⅰ」
ウォレス・ソーンヒル
デヴィッド・タルボット 著
小沢元彦 訳
徳間書店
2009年2月

比較神話論の部分はぼくにとってはちょっとタイクツだったが、図版はすべてフルカラーで見応えのある本だった。

まあ、とにかく、易卦パターンでセットされた頭をよく刺激してくれる読書だったことはまちがいない。

内容は……

従来の宇宙論では星や銀河の創生要因を重力に求めるが、この本ではその要因にはプラズマという電気力もあったのではないか、とする。

いや、「あったのでないか」などという弱い主張ではなく、

銀河にしろ星にしろ太陽系にしろその創生初期の主な要因は電気の力であって、やがて系の電気エネルギーが散逸するにつれ、重力と電気力が平衡した安定した系となり、その軌道が予測可能な現在の形に落ち着いたのだ、とする(一部巻末本文から引用)。

したがって、銀河や太陽系といったシステムの形成にダークマターを仮定する必要はなく、見返しの文句を引用すれば、「最小の粒子から巨大な銀河まで、電気回路網が自然界のすべてを接続し、統合している。この電気回路網は銀河を組織し、恒星にエネルギーを供給し、惑星を誕生させ、地球の天気を支配し、生物に命を吹き込んでいる。」

この筋書きをみて思い出したのは、タイトルは忘れたしまったが、クラークの短編に出てきた「プラズマ生命体」だった。

記憶はあやふやだが、そのプラズマ流は最初は天文現象として観測されるのだが、さまざまな解析を経てどうも生命体らしいということがわかってくる。わかった頃には太陽系を通過して出ていってしまう。
プラズマ流だけでできているということと、パーセク単位(*1)のその巨大さ故に「生命体」とはだれも気づかなかった、というのがオチだったと思う。もちろん、人類とのコンタクトもなかった……

この生命体、というより意識体を、宇宙規模に拡大したような考えだなと思ったわけである。

13月の暦をはじめとする銀河ツールの世界では「呼吸」という活動で、太陽は銀河中心とエネルギーのやりとりをし、地球は太陽とエネルギーのやりとりをし、おそらくニンゲンはガイア(地球)とエネルギーのやりとりをしていることになっている。

この本の説はこういうビジョンに具体的・物理的なカタチをあたえるものではないかな、とも感じた。

現在の空をいくら探索してみても不安定だった初期の頃の直接的な証拠をみつけることはできない。

代わりにこの本では、その状況証拠を、有史以前に岩などに描かれた壁画や比較神話論、惑星に残された傷跡、研究室内でのプラズマ放射実験などに求める。

おもしろいのは、その規模が大きかろうが小さかろうが、プラズマの挙動は相似だそうで、これはつまり実験室内でミニサイズの宇宙を再現することができるということである。

こうして行われた放電実験結果のコンピュータシミュレーションの図は、どうもいろいろなもの……牽強付会だとは思うが、ぼくにとっては易卦にみえてしかたないのである。


ぼくは占い師じゃない-purazuma-ken
ぼくは占い師じゃない-kenkonTP
【乾と坤のツイストペア。乾がトーラスを横から見た図、坤がトーラスの断面】

もちろん、雷電は易とは切っても切れない関係にある。
八卦でいうと震、大成卦でいうと乾になるが、いずれも始動のエネルギーをあらわす龍のイメージである。

有史以前、古代の人々が目にしていた天空は今の空とは似ても似つかぬもので、ドハデで不安定。災異に満ち満ちていた。

惑星どうしも今のような位置関係ではなく、もっと接近していたりして、惑星間でプラズマ放電のやりとりさえあった。
これが全人類に共通するカタストロフの記憶で……

こんなところも、この本では見逃せない興味深い部分だ。

震や乾とは直接関係はないが、大成卦の中に「賁」という卦がある。

たまたま字統でみつけたのだが、この「賁」という字の金文のカタチが、オーストラリアやアメリカの先住民が描いたムカデ型の絵とよく似ている。

ぼくは占い師じゃない-hi-prazuma

ぼくは占い師じゃない-金文
ますます牽強付会になってくるわけだが、

「賁」には、かざる、かざり、はなやかな彩り、はででおおきい、まじる、まだらなどの意味があり、プラズマで彩られた空を描写したのかと思いたくなる。
もちろん、字統にはそんなことは書いていない(アタリマエか)。

最後の方のコラムには、地母神には、火を操る天の蛇や竜、裏の(別の)側面がある、といった話が載っているが、これは先に示した乾と坤のツイストペア そのものを連想させる。坤が地母神で、爻の陰陽をひっくり返してできる乾が竜である。

牽強付会ついでに、ツイストペアの1番はマスターマトリクス(*2)の中心、震為雷と巽為風のペア で、流動する(巽)電気(雷)で、プラズマを示している、といえなくもない(笑)。

直進する電流は回転する磁場を生み出す。

直進運動と回転運動はペアだ。

電気のプラスとマイナスは代表的なペア。

磁場にはNとSというペアがある。

モノポールの発見が騒がれたこともあったが、結局、N極だけまたはS極だけの物質はみつかっていない。

対称性……ペアは宇宙の法則のように思えるが、重力はどうなのだろう。

負の重力というのは聞いたことがない。

どこかで、決定的に対称性がやぶれているのだろうか。

プラズマ宇宙論とは直接関係はないかもしれないが、気になるところではある。

三部作の最初の巻ということで、続巻がいつ出るのかは知らないが、楽しみにしておこう。


*1)AUだったかもしれない。

*2)マスターマトリクス
上卦、下卦を「乾兌震巽坎艮坤」の順で配列し組み合わせた大成卦の行列。
震巽は「乾兌震巽坎艮坤」の中央になるため、震為雷・巽為風はマトリクスの中央に位置する。
一応筆者独自のテーブルだが、誰でも考えつくことだし、易卦のインデックスにはよく用いられるパターンである。