聖書、バガヴァッド・ギーター、コーラン、タルムード、道徳経などがそうであるように。
易経が特殊なのは、卦と呼ばれる切れた線またはつながった線六本で構成されるシンボル(卦)体系を含むいう点、そして、それが聖典であるのと同時に占術の書であるという点である。
そしてこの2点があるため、ときどき「聖典」でるあるという認識がどこかへおきざりになってしまう。
ひとつめの点については少々説明が必要かもしれない。
一般的には、卦というシンボルと経文は不可分だが、個人的には別物ではないかと観ている。
別に学術的な根拠があるわけではない。
別物というのは、卦のシンボル体系と、経文の方はそれにたいするコメントというふうにとらえている、ということである。
この観方を変える気はいまのところないけれど、ややもすると「コメント」ということで経文を軽く観てしまいがちになるのだ。
個人的な観方の話なので、つまるところ、ぼく個人の問題ということになるが、「コメント」はやがて「コメントにすぎない」になってしまい、そのうち「軽く考えておけばいいかな」になり、いきおいシンボル偏重のアンバランスにおちいってしまう。
経文はコメントといえばコメントだけれども、おそらくはこのシンボルにつけられた最古のコメントであり、経文偏重のアンバランスにおちいらないかぎり、やはり適切に尊重するべきものだろう。
これを「コメントにすぎない」などといってしまうと、聖典だって「聖典にすぎない」ことになってしまい、それではミもフタもなくなってしまう。
「すぎない」という言葉はクセモノなのである。
【六十四卦と三陰三陽卦】
ふたつめの点は、もう少し一般的な話になる。
占術の書として経文を頻繁に参照するのはいいが、結果、すなわち質問者への回答を急ぐあまり、経文自体が神聖なものであるということを忘れがちになるということである。
そのうち経文の背後にある深い意味もなんとなくスルーするようになってしまい、これがいきすぎると、経文を占断をするための道具としてしかみなくなってしまう。
「ビー・ヒア・ナウ(*1)」の第Ⅲ部はスピリチュアルな道を歩む人のマニュアルのようなものだが、そこにはこんなエクササイズが載っている。
少し長いが引用する。
「悟りを開いた人の本(『バカヴァッド・ギーター』、老子、福音書にあるイエスの言葉、ラマナ・マハリシやラーマクリシュナの格言、『易経』など)をひもとくときには、一節だけに、できれば一句だけに取り組むこと。決して1ページ以上にいどんではいけません。一読し、再読し、再々読するのです。そして、思考が巡るにまかせるのです。原文の意味するところを別の言葉にいいかえてみるのです。他人に、また自分に、それがどう応用できるか考えなさい。自分の普段の考え方とちがう場合には、どうちがうかに注意を向けなさい。自分のとはちがう仮定にたっていないかどうか。自分の旅にたいしてどんな暗示がふくまれているか。そして、もう一度読むのです。そこに自然のどんな法則が反映されているのか。それから静かに座ったまま、その節に関して心のおもむくままにまかせるのです。そしてまた、静かに。これに一日30分をついやしても、決して長すぎることはありません。」
易経は聖典である。
だからといってなにも、あがめたてまつることはないと思うが、きちんととりあつかう必要はある。
先の引用の冒頭にあるいくつかの聖典の中ではおそらくはもっとも古いドキュメントだろう。
古ければなんでもいい、というわけではないが、古くていまも残っているということは、それだけ長いことなんらかのかたちで人々の役にたってきたということではないだろうか。
もしそうなら、集合的無意識における比重も決して軽くはないだろう(*2)。
いちおうこのブログでも六十四卦はすべて紹介し終わっていることになっているが、あんな内容でわかったつもりになっていてはいけない、とも思う。
あの内容では、導入も導入、まあせいぜい表面の表面をさっとかすめた程度だろう。
また、「聖典」を一年や二年でモノにできる、とも思わない。
たぶん、これから一生かけて学び続けるつづけるものなのだろう。
手を出すなら、最後までやらなければならないのである(*3)。
結局ぼくは、
なにもわかっちゃあ、
いないのだ。
*1
「ビー・ヒア・ナウ」
ラム・ダス+ラマ・ファウンデーション著
吉福伸逸+上野圭一+プラブッダ訳
平河出版社
1987
*2
ゲリ-・ボーネル氏によると、
易経は、アカシックレコードへ
アクセスするためのエントリとなりうるそうだ。
「超入門 アカシックレコード」 (5次元文庫)
ゲリー ボーネル 著
大野 百合子 訳
徳間書店
2009
*3
(c)カマ爺