のっけからなんだけど、言葉にならないものを
言葉で説明しようとしていることを許してほしい。
おまけにこのオッサンは詩的センスが皆無であり、
散文的にしかものを表現できないことも。
詩のセンスでもあれば、
もう少しうまく語ることができるんだけど。
--------------------
【 馬は鼻先にぶらさがったニンジンに向かって
疾走するから馬なのだ 】
◆そもそものはじまり◆
まず最初に本源があった。
いや、ソース(源)ともマトリクス(母体)とも、
あるいは単に「存在」とも呼ばれるそれは、
今でもそこにある。
まてよ。
「そこ」ってどこだ?
答えは……「どこでも」。
本源には、あらゆる可能性が均一にある。
それがスピリットとソウルを生んだ。
生んだというのはちょっと詩的な隠喩かもしれない。
散文的にいえば「均一にあったあらゆる可能性」から
「区分」された。
そもそもなぜそのようなことが起きたか。
その理由については諸説あるけれど、正直なところ、
よくわからない。
とにかく、まず最初にそれが起きてくれなければ、
わたしたちは今、ここにこうしていることは
できなかったから……
というのは理由にならないだろうか。
ずるいか。
じゃあ、
「本源はまどろんでいたのかもしれない。
まどろみはめざめによって、
いつかやぶられるときがくるから」
というのはどうだろう。
いずれにしても、ここは言葉ではもっとも答えにくい。
だから詩的表現にならざるをえない。
へたくそでもね。
◆数と陰陽◆
スピリットとソウルという区分ができると、
同時に「数」と「陰陽」ができる。
どちらが先かは微妙なところだ。
どちらかといえば「陰陽」が先かもしれない。
陰、陽、は、いわば「ない」と「ある」の区別であり、
まどろんでいる均一の状態の本源にはありえない。
この状態の本源には他から区分された部分というものは
ないから。
いわば、「ない」も「ある」もないのである。
一方、数は、「ない」または「ある」部分が、
たくさんできてきたときに生まれる。
これは最初にできた「他から区分された部分」。
あれは次にできた「他から区分された部分」。
それはその次にできた「他から区分された部分」。
で、ほら、1、2、3。
これに対して「陰陽」は他から区分された部分が
ひとつでもあればとりあえずは成立する。
だから数よりは先なのではないか、と推測したわけだ。
でも、どっちが先かなんて
ほんとうはどうでもいいことかも。
大事なのは「数」も「陰陽」も
「区分」がなければ存在することができない、
ということである。
うそだと思ったらやってみればいい。
なんの区分もましてや分離も「いっっっっっさい」ない、
永遠の安定と静寂しかないところがあったとしよう。
はい、想像して。
そんな中で「数」や「陰陽」を考えることができるかどうか。
いやまて、そこにほんとうに「あなた」はいるのか?
そこでまどろんでいるのはだれだろう。
◆空間、物質、時間◆
スピリットは器(用)としての役割をはたすところの
本源から区分された部分。
ソウルは器に力をあたえる実質(体)
としての役割をはたすところの本源から区分された部分。
スピリットはまず、空間と物質になった。
空間は器で物質はその中に入る実質である。
だから、あらゆる空間、あらゆる物質は
スピリットに満ち満ちている。
そして、空間と物質の組み合わせは時間を生じた。
時間はスピリットとソウルの橋渡しになる。
空間と時間と物質はセットになって、
ソウルが利用する器または乗り物になる。
この宇宙はこうしてできた。
◆生命◆
お膳立てがととのったところで、
ソウルはスピリットが用意してくれた乗り物に乗り込んで、
この宇宙を体験する。
冒険のはじまりだ!
簡単にいってしまえばそういうことだけれども、
ことはもう少し複雑だ。
物質は時空という器の中で単純なものから複雑なものへと
積み上げ式に成長している。
ソウルもそれも呼応するように、
こちらはより大きなものから小さなものへと
次々と区分されていく。
「分離」されたわけではなく「区分」だから、
おおもとの本質がなくなってしまうということはない。
おおもとの本質=本源は
ずいぶん小さく区分されてしまったけど、
すべてにひそむ「核」として歴然とそこにある。
小さくなっても本源は本源だ。
「ひそむ」というのは、
たいてい奥のほうにあってわかりにくいから
そういう表現になったまでの話。
奥のほうにあるというのは、
いわば自然とそうなったのであり、
だれかの意地悪じゃあない。
自分で自分をだれだかわからなくする本源の遊びなのである。
わかりにくくなったからといって、
なくなったわけじゃあない。
そこが大事なところ。
そもそもスピリットもソウルももともと本源なのだ。
さて、スピリットが用意してくれた物質という鞘に、
それぞれの物質の成長段階に応じて区分された
ソウルという剣がおさまると、
その全体が生命というカタナになる。
ところがたいがいこの剣と鞘は合いが悪く、
どこかガタついている。
居心地がわるい。
キモチがわるい。
だから生命はいつもじたばたしている。
この居心地の悪さはあらかじめそうなるように
仕組まれたものだ。
この合いの悪さを限りなく小さくしていくことが
生命のめざす方向――
本源がスピリットを着たソウルとして
自分自身を楽しむプロセスなんだ。
◆うまれかわる生命◆
先にも話したとおり、
物質は時空という舞台がなければ働くことができない。
器のない実質だけの実質というのは実質たりえない。
時空が前提になっているということは、
時間がからんでいるということで、
時間がからんでいるということは、
その存在が期間限定であるということ。
量子、素粒子、原子、分子、生命体。
階層によって長さはことなるが時空内にある物には必ず寿命がある。
これに対してソウルは時空という区分の外にあるので
永遠であり場所に拘束されることがない……
というよりも時間も場所も関係ない。
もちろん物質と結びついて活動するときは
時間や場所を経験することになる。
そしてそれはソウルにとってなににもまして、
かけがえのない経験である。
そのままもっと時間や場所という経験を味わっていたい、
と思うソウルもあるだろうが、
さっきもいったとおり器は期間限定である。
ある期間が過ぎると分解してしまう。
もっと時間を楽しみたいソウルは、
別の器をさがしてそれと結びつく必要がある。
さらにもっと時間が必要ならまた別の器へ。
小さい子に高い高いをしてあげると、
なんどもなんどもせがまれるでしょう。
なんども。なんども。
あれとおんなじ。
そういえば本源は、どこか小さい子に似ている。
じっとしていられないところとかね。
◆ヒトの世界◆
ヒトは生命の一形態である。
だからヒトのめざすところはは生命のめざすところと
基本的に一致する。いや、一致せざるを得ない。
ヒトも剣と鞘があわないカタナなのだ。
だからヒトも他の生命と同じく、じたばたする
じつは、はたさなければならない特定の「目標」や
演じなければならない「役目」というのは
わたしたちにはないのである。
しいていえば、
じたばたすることがわたしたちの役目であり義務なのだ。
どんなふうにじたばたするかは各自の自由。
そんなわけで、
この人間の世界にはムダなものはなにひとつない。
限られた時間、限られた立場からみると
ムダとしか思えないようなことは確かにごまんとある。
しかし、どんなにムダと思えることでも
あなたが成した「経験」は、
細大漏らさず、逐一、すべて、記録され、分類され、
とある巨大な保管庫にかけがえのない宝物として納められる。
この、個々の「経験」が宝物として蓄積されることが、
本源にとってのなによりのよろこびなのだ。
「保管庫」についてはまたあとで。
◆どこへむかっているのか◆
じつは、生命を創る剣と鞘はいつまでたっても
ぴったりおさまることはない。
ぴったりおさまった状態に
無限にちかづいていくことはできても
その状態に達することは決してない。
そうなってしまうとそこで成長が終わってしまうから。
ひょっとしたらいずれ剣と鞘がぴたりとおさまる日が、
そういう時が、くるのかもしれないが、
それはたぶん
「すべてのソウルが、そしてすべてのスピリットが、
この宇宙にあるなにもかもをすべて味わいつくし、
そしてそのすべてのソウルとスピリットが
完全に納得しきったとき」
であるといえるだろう。
すべてのスピリット、すべてのソウルが
いったいいくつあるかわからないから、
それがいったいいつになるのかは、まったく見当がつかない。
いつになるかはわからないが、もしそうなってしまったら、
本源にとってはぜんぜんおもしろくない状況であることは
まちがいない。
だってそれ以上やることがないんだもの。
プロセス全体は、
鼻の前にニンジンをぶらさげられた馬に
にているかもしれない。
馬は走る。
ところがニンジンは
馬自身にとりつけられたサオにぶらさがっているから、
馬が走れば走ったぶんだけ前に移動する。
かくて馬は永久にニンジンにたどりつくことはない。
この奇妙なゲームがおわるのは
ゲームを考え出したものが
つかれてゲームに飽きてしまったときか、
あるいは馬が力つきてしまったときだろう。
もしそうなったら
次はどんなゲームをするか考えることが
当面の仕事になるだろう。
そのままじっとしていればいいって?
あたしゃ別に動きたくないって?
じゃ、やってごらんよ。
ただし徹底的にだよ。
少しでも動いちゃ、なにかしちゃいけないんだよ。
インターネットもテレビも見ちゃいけない。
それはそれで立派に「なにかしてる」ことになる。
わたしたちが日常的に使う「なまける」
という言葉であらわされる状態だって立派な活動だ。
「なまけ」てもいけない。
「なまける」こと以上にじっとしていなければならない。
じっとしていると……
じっとし続けて、徹底的になにもしないでいると、
必ず、やがて、ほんの少しでも必ず何かしたくなる。
いや、せざるを得なくなる!
この衝動を、居心地の悪さ、不安、と表現する人もいる。
だれたかに会いたくなる。
だれかと話したくなる。
絵を描きたくなる。
文章を書きたくなる。
なにか食べたくなる。
大声で叫びたくなる。
身体を動かしたくなる。
おっ。
あっ。
じっとしてていられなくなった瞬間。
その瞬間、本源がソウルとスピリットを区分して
この宇宙を創ろうと思った瞬間の気持ちがわかる
(かもしれない)。
それこそ、この自分の内奥に本源の核があるという証拠ではないだろうか。
つまりは「なにかしたい!」という衝動は、
この核からの、本源からの、強力なメッセージだったのだ。
だいたい、なまける以上にじっとしているなんて不可能だ!
(でも練習すればできるらしい。
なにせぼくらの核は本源だから)
◆記録とその保管庫◆
ゲームがプレイされるとき、
すべては記録され記憶されて、
また本源へともどっていく。
そしてまたあのまどろみをへて、
ふたたび本源はなにかを創り出す。
スピリットとソウル以外のなにかを。
これが、すべてを記録することの理由である。
以前になにをして遊んだかを覚えておかないと
また同じ遊びをくりかえしてしまうかもしれない。
いや、くりかえすこと自体は過ちやまちがいではないのだが、
まったく同じことをくりかえすことは、
本源のもともとの状態であるあの「まどろみ」と
同じことである。
永遠にまどろんでいたくない限り、
本源にはこの保管庫が必要なのだ。
たとえわたしたちのこの宇宙がなくなっても
保管庫はあり、記録は残される。
そしてまたじっとしていられなくなったら、
本源は保管庫を参照し、
わたしたちのものとは別の宇宙の創作にとりかかる。
この保管庫は、ただひとつの倉庫がどかーんとあって、
はいそれまで、というふうにはなっていない。
ソウルやスピリットが本源から区分され、
積み上がっていくときのように階層化されているのである。
噴水を想像してほしい。
円形の小さな池があって真ん中から澄んだ水が
陽光をきらめかせながら一本噴きあがっている。
噴水は放物線を描いて
自分のまわりの小さな池に水をそそぎ込んでいる。
噴きあがった水が光にあたって池におちることが
すなわち、あなたがこの世で経験を味わうということであり、
その水がたまっていく先、
円形の小さな池がその経験を記録し、
保管しておく倉庫である。
この池には排水口はない。
だから噴水は徐々に池の水位を上げていく。
水位が池のフチをこえると水はあふれる。どこへ?
その小さな池は、大きな池の中にあり、
あふれた水はその大きな池にたまっていく。
まわりをよくみてみると、
大きな池の中のちいさな池はひとつではなく、
無数にあることがわかる。
大きな池はさらに大きな池の中にあって、
このさらに大きな池は大きな池からあふれた水を
ためていくのである。
さらに大きな池をながめてみると
その中にはこれまた無数の大きな池があることがわかる。
そして、そのさらに大きな池は、
じつはさらにさらに大きな池の中にあって……
以下同文。
頭が痛くなる想像だけど、終わりがあるとしたら、
一番下には一番大きな池があることはわかると思う。
その一番大きな池こそ、本源の保管庫なのだ。
そして一番上の小さな池が
(ヒトの場合)脳/意識ということになる。
いちばん上の池で噴きあがっている水は
この一番下の池から細いパイプで噴き上げられたものだ。
本源の保管庫、といったけど、本来、本源に区分はない。
最初のほうで「すべての可能性が均一にある」
なーんていったけれども、
この最大最深の「保管庫」こそ、
本源の正体なのかもしれない。
◆まとめ◆
ソウルとスピリットは兄弟である。
空間と物質も兄弟である。
女性と男性も兄弟である。
光と陰も兄弟である。
いい人もわるい人も兄弟である。
あなたとわたしも兄弟である。
陰と陽も兄弟だ。
兄弟だから、
どちらがいいということも
どちらが悪いということもできない。
この宇宙はそもそもがソウルとスピリットという
「対」から始まっている。
そのため、かなり深いところからが、
とにかく「対」でできている。
だからといって、
すべてが「対」だと思いこむのはまちがいだ。
そのおおもとはひとつ。
そのひとつは、たいがいどれもがマト外れな
さまざまな名前で呼ばれながら千変万化をくりかえしていく。
これよりさきは、
これより上は、
これより広いところは、
これを越えたところは、
霧がかかったようになっていて、
どうもはっきりしなくなっている。
これより先があることはまちがいないんだけどね。
しかしまあ、
すべてがはっきりするなんてこたあ、
最初からありえないんだ。
疾走する馬が、
けっしてニンジンにたどりつくことがないように。
--------------------
どう。少しは安心した?
え。ぜんせん?
よけいこんがらがった?
変わんないかな。
ま、馬がどうなろうと、
やっぱり明日は、会社にいくんだもんね。